190501 弁論術 <塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を読みながら>
小糠雨とでもいえましょうか、歌川広重の東海道五十三次之内 庄野 白雨よりずっとやさしい振り方です。その中を、時にツバメが滑空し、あるいはヒヨドリが、あるいはマヒワが群れで飛び交います。杉檜の葉はかすかに濡れた湿っぽさを漂っています。やはり新緑の楓は見事に水に映えます。
そんな窓の外の風景を時折眺めながら、塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を一気にではないですが、楽しみながら読み進めています。
途中で仕事の医療記録を整理しつつ、あるいは森林関係の書物をひもといてみたりしつつ、再びその著作に戻りたくなるほど、面白いのです。
その話の前に、今日の花を取り上げておきます。ゲンペイカヅラです。源平合戦のゲンペイです。花冠でしょうか萼でしょうか、白一色のように一瞬思えます。ところが花冠の先からにょきりと出てきた花弁が見事な赤なんですね。それで赤と白の対の模様というかカラーが映えます。それが源平合戦の赤と白をイメージしているということで、名前になったようです。残念ながら、この花も花言葉を見つけることができませんでした。
ローマ人の物語で、共和制を通じて元老院派と市民派が対立を繰り返し、そのトップ的な地位の執政官も両派が競い合い何世紀も戦い続ける様子は、短期間に終わった源平合戦より中身が濃いですね。それにしても王政を倒した後、紀元前6世紀初頭から紀元前1世紀半ばまで続く共和制はいろいろな法をつくったり変えたり、戦争と議論の繰り返し、さすがローマ法の国と思うのです。まだ木庭顕著『新版ローマ法案内』の議論を理解するにはほど遠い状況ですが、塩野氏のおかげでローマが少し近づいてきました。
さて、今日は弁論術を取り上げようかと思います。実のところ、その技術論はテーマではありません。ちょっと皮相的なアプローチだけやってみようかと思っています。
というのは塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を読んでいて、当時の有力者で弁護士を経験していたのを知ったことが一つの契機です。キケロしかり、カエサルしかりです。というのは映画ROMEでは、主人公の一人とも言える一兵隊プッロが退役後事情で荒れて雇われて殺人を犯したとき、弁護人が雇われるのです。そのとき法廷らしい建物付近には弁護士と名乗って物乞いのごとく自分を雇ってくれと、大勢が近づくのです。この風景は19世紀ロンドンの風景を描いたチャールズ・ディケンズの『二都物語』だったかで登場する弁護士の様子によく似ていると思ってしまいました。
実際、雇われた弁護士の弁論はいい加減この上ないものでした。プッロは当然のように極刑に処断されます。
で、元に戻って、キケロは塩野氏の表現では当然ながら有能で巧みな弁論でいくも勝訴を重ねていい依頼人を得て、一旦豊かな財産を築きます。そして政治家として元老院議員となり著名な弁論を何度も行うわけです。
他方で、カエサルは弁護士としてはほんの一時活動しただけで敗訴ばかりで、とても向いているとは言えない、あるいは若すぎたのかもしれません。しかし彼の弁論は戦争において、あるいは元老院において、キケロを凌駕するすばらしいものであったのです。またその著述もすばらしくその著『ガリア戦記』は古今東西の文筆家なり評論家なりがベタ褒めだそうです。たとえばわれわれでも知っている小林秀雄がそうなのです。すごいなと思うのです。
ただ、塩野氏が引用した、『ガリア戦記』にある彼の演説内容は、ゲルマン人の大勢力を相手に尻込みする部下に対して、彼らに奮起を呼び起こさせたという、すばらしいもののようですが、私にはそれほどのものとはとても思えませんでした。理解力が足りないのでしょうか。あるいは2000年前の状況にたてないためでしょうか。わかりませんが、小林秀雄の評論を見て一度読んで見たいと思ったものの、その演説内容からは若干、気持ちが萎えてきたかもしれません。
古今東西の見識者のだれもが『ガリア戦記』になにかを解説したり、付け加えることはできないほど、よくできているというのです。にもかかわらず、塩野氏の解説は見事としかいえないほど、よくできています。『ガリア戦記』を読まなくても、塩野氏の著作を読むことでその弁論の巧拙も幾分かわかるような気がします。
カエサルの高い能力も、ROMEではさっぱり分からなかったものの、塩野氏の著作で見事に捉えられているかと思うのです。なんども窮地に立ったカエサルですが、そのたびに、悠々とした態度でときに長い演説で、ときに簡潔に対立意見や内部の反論を支配するのです。
カエサルの高い能力のうち、金銭に関わる部分ひとつとっても、その魅力を喝破していると思えます。それは借金の金額が増えれば増えるほど、貸し主の力が強くなるという一般的な理解を覆すものです。あまりに借金が多くなると、貸し主の方が自由がきかなくなるというのです。逆転するのです。カエサルは膨大な金額をある一人の富勇者クラッススから借ります。とても返済できない金額となります。ところがクラッススは、カエサルからの返済がうけられないと自分も大変なことになるからと、ときにカエサルの借金取りに代わって返済したり、さらにカエサルの債務の保証をしたりするのです。盗人に追い銭ではないかと思われるかもしれませんが、実際の社会ではときにありますね。
私自身、貸し主がどんどん貸したのはいいですが、借主が別の返済に困ったというと、自分の返済が受けられないと心配して、次々と貸し増しして、ときに他から借りてまで貸し増しするという事案をみることがあります。信じがたいことですが、返済されない不安を貸し主が抱えてしまい、借り主のことばを真に受けるということでしょうか。ただ、カエサルの場合は単なる乱費ではありませんし、騙すわけでもありません。
カエサルは、借りたお金を自分のために使うことはほとんどなかったと言います。自分の部下に与えるためとか、公共事業に出費するためとか、他のために使っていたというのです。経済人クラッススもそういうカエサルの将来を見込んでいたのかもしれません。
それは弁論と言ったことばだけで物事を決するもの以上に、力を発揮していたのだと思うのです。むろんカエサルはキケロに負けないほど勉学もしていたようで、だからこそ公正な法の改正を次々と理論的に、戦術的に行うことができたのではないかと思うのです。
今日はこの辺でおしまい。また明日。