◆昨晩は、新潟県人権・同和センターの創設者で前の事務局長だった高山弘さんのお通夜に参加してきました(本日は葬儀が行われましたが、こちらは欠席)。高山さんの死に顔は大変安らかで、苦しまずに旅立ったことがうかがえました。
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◆高山さんは新潟高教組(新高教)の大先輩。1995年に私が勤務していた高校の教頭が連続的な差別発言事件を起こし、そのときの新高教同和教育担当役員として調査に訪れたときにお会いしたのが最初の印象です。その後、高山さんは県同教や新高教の重鎮となり、教員生活の最晩年には副委員長まで務めました。そして、人権・同和センター設立に伴い事務局長に就任。私が2008年度から11年度にかけて新高教専従役員になり同和教育担当となって、高山さんとは4年間いろいろ付き合うこととなりました。
◆高山さんのすごいのは、自分でやらなけりゃならん、と思ったら、周辺への根回しもろくにやらず、周りがどう思おうが関係なく突っ走る、というところです。とにかくあらゆる差別が許せない。差別や子どもへの差別など、県内で起きたあらゆる差別問題の渦中に飛び込み、解決のために奔走していました。あのエネルギーというか馬力はそれはそれはすごいものでした。高山さんのおかげで解決したり顕在化して行政課題となったりした差別事件は数多かったと思います。
◆整理整頓が苦手で、当初沼垂にあった事務所(一戸建て)の中は書類で埋まっていました。また、ことあるごとに新高教の印刷室に入り浸り、センターの文書の印刷をしていたので、新高教の文書印刷に支障が出て「いい加減にしてください」と怒られるのですが、全く懲りずに平然と現れてやっぱり印刷していました。パソコンが全く使えず、ものすごく豪快な(早い話が読みにくい)手書きの字を、印刷屋さんだけでなく、あるときは新高教の役員が入力したりしていました。最終的にはお連れ合いがパソコンを覚えて入力作業をやっていたと思います。自分のできない仕事は基本的に周囲に投げる、という技は、そのときは「困った人だなあ」とも思いましたが、今から考えれば極めて合理的だった、とも思います。
◆基本的に人の話をちゃんと聞かないので、いろいろ叱られたりもしていたようです。私も、仕事に絡んで納得できないことが多々あり、何度か高山さんを怒鳴りつけたことがあります。でも、高山さんは全くめげないのです。人なつっこくで厚かましくて、ときどきムチャクチャで、でも、結局は憎めない人でした。何といっても、高山さんがいなければ、新潟県の人権教育や啓発、行政の人権政策の進展はありません。前述のような人でしたから毀誉褒貶は当然あるわけですが、そんなことを超越した、すごい人だった、と今は心から思います。
◆私の心残りは、高山さんに本を書かせることができなかったことです。センター事務局長を退任するころ、私は高山さんに「これまでの経験を書いてください。本にしましょう。私がしっかり編集しますから」とことあるごとにお願いましたが、結局書いていただけず、かなわぬこととなってしまいました。それが、高山さんの身に降りかかった難病のせいだということを、亡くなってから知ることになりました。
◆昨日のお通夜には、県同教のお歴々、解放同盟県連のみなさん、行政の人権担当者、新高教や新教組の新旧の同和教育関係者、ご近所のみなさんなど約200人が参列していました。いなくなってしまうと、こんなに寂しいものか。そんなふうに、今私は高山さんのことを思っています。
(乱筆乱文お許しください)