ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

夕焼け亀らまんオブナイ その33

2019-09-30 22:49:51 | 浮かれ亀らまんオブナイ
 本日の、黒埼にある職場からの夕焼け。珍しく、雲に遮られることなく地平線に丸い夕日が沈んでいきました。秋らしい夕焼けです。
今日は一日中晴れでした。日中は暑いくらいでした。まだまだ残暑です。
まん丸い夕日が西の地平に沈んでいきました。
日没10分後の西の空。雲が美しく赤く染まっています。

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その6

2019-09-30 22:32:13 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
 本日の晩酌サケは、栃尾の銘酒・「越の鶴」のプレミアム本醸造。なんと、地元産の山田錦を使用(温暖化の進行のおかげか?)。口に含むと豊かなうまみと甘みが広がり、喉を通るとすっと切れる。目隠しして呑ませたら、純米吟醸だ、といっても通用する素晴らしい味わいのサケです。




【YouTube・Facebook共通】おうたのかいオリジナルの番外編③をYouTubeにアップしました。

2019-09-23 12:37:53 | おうたのかいオリジナル
◆新潟でひっそりこっそりうた作りを行っている音楽ユニット「おうたのかい」。渋谷珠子さん(たまちゃん)作詞の曲をYouTubeに20曲アップしたので、今回は番外編の3曲目をアップします。
(この歌のYouTubeアドレスは、 https://youtu.be/U5uztke_NLk  です。) ◆今回も、作曲担当のオブナイが自ら詞を書いた曲です。1985年の大学5年(わははは)のころだったかに作り、20世紀末か21世紀初頭にヤマハQY20でアレンジし、カセットMTRでミックスダウンしたものです。 ◆この歌の歌詞、若気の至りをこじらせてるというか何というか、すんごい青臭い歌詞で、曲も完全に70年代前期風のフォーク。今聴いてみるとものすごく小っ恥ずかしいものになっております(^_^;)。ボーカルも、高い音は今よりずっと出てはいるものの、相変わらず安定していません。 ◆それでも、ギターを弾けていたころの曲で、それなりに曲のまとまりはあるとは思っています。この歌も、若気の至りゆえの「勢い」がある曲だからかもしれません。 ◆もし差し支えなければ、今も弾き語りライブなどを精力的に行っている方々に歌っていただけるととてもうれしいです。 ◆ちなみに、タイトルは仮のものです。 ◆てなわけで、お耳汚しとは存じますが、おヒマな折にでもお聴きいただければ幸いです。
◆YouTube「新潟おうたのかい」「おうたのかい」「オブナイ秀一」などで検索を。
◇以下に歌詞をアップします。(たまちゃん詞と比較検討など決してしないで下さいm(_ _)m)
Blue(仮) 詞・曲 オブナイ秀一
遠い日僕は夢見てた 広くて青い空の下
世界のあらゆるものを すべてこの手に つかまえられると 信じてた あの日 幼い日 毎日とても長かった 
いつまでたっても 太陽は沈まずに 僕らを照らし出してた はるかな時
 忘れてしまったんだね みんなはあのころのこと  大人になり 夢もなくし みんなあきらめて
それでもみんな生きている いったい何が楽しくて
あんなにうつろな目で暮らしてる それで どこに幸せを 見つけられるの
遠い日僕が駆け回った 野原も林も今はもう 何もかも消えてしまって その代わりに 家並みが立ち並ぶ 悲しいね あの日 幼い日 僕らがいつも追いかけた カエルやトンボやバッタたちも どこかへ 消えてしまって 今はいない
 気がついているのだろうか 大人たちはそのことに  この街には 人間のほかに 何も棲んでない
このまま僕ら 過ごすなら 僕らの次に生まれてくる 新しい子どもたちは いったい どんな夢を抱(いだ)いたら いいのだろう
子どもたちには何も要らない ビルも車も飛行機も 要るのは 青いせせらぎ 深い林と 澄んだ湖 それから広がる大空と そして広がる海原と そして子どもたちを包んでやれる 僕らの 本当の愛と
だから さあ 僕らももう一度 深く目を閉じ思いだそう 幼い頃に信じた 数え切れない夢たちを 心開いて
今回の曲のYouTubeアドレス https://youtu.be/U5uztke_NLk

シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その3)

2019-09-18 22:03:29 | シロウト考え休むに似たり
 (承前)おそらく、この緊急上映会に来たのは、もちろん私も含めて、ヘイトスピーチや差別事象、権力による様々な不正が蔓延する今のご時世に危機感を持ち、そういう社会をもたらしている現政権をなんとかしたい、と思っている人々だと思います。ですから、上映会後の、脚本家の井上淳一さんと主演俳優の韓英恵さんと劇中で殺されちゃうキャラクターのモデルの蓮池透さんによるフリートーク、井上さんがあえて言う「この映画は「反日映画だ」という挑戦的な謂い、英恵さんの、差別を乗り越えようとする静かな意思、蓮池さんの「転向」(もちろん民主的な方向へのですよ)は、映画とは別に、とても盛り上がりました。問題は、この上映会に来た人は、おそらく今の日本では〝少数派〟なのだろう、ということです。しかし、そんなことに臆さず、全国に上映会を仕掛ける井上淳一さんの腹のくくり方は、間違いなく「パンク」です。
 そんなわけで私は、枝葉のディテールにこだわらずテーマを一直線に突き進むこの映画を一言で表するにあたり、「パンクファンタジー」というフレーズを思いつきました。
 改めて繰り返しますが、私はあんまり映画を見ないので、映画を批評する言葉を持っていません。したがって、この三回にわたるこの文章はあくまで私の〝感想文〟に過ぎず、この映画を適切に語れているかどうかは分かりません。ただ、とても面白かった、ということは、見た方々に共通している感想ではないか、とも思っています。いつか、TVでもやってくれないかなあ(ムリかな😜)。

シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その2)

2019-09-16 12:20:17 | シロウト考え休むに似たり
 (承前。多少のネタバレはご容赦を)私が〝いたたまれなさ〟を感じたのは、普段はSNSや日常会話で偉そうなことをいっていても、いざというときには何もできない自分、というものを、これでもか、と自覚させられたからです。ヤバいことには関わりたくない、という気持ち、そして、「日本人」として生育してきたことに起因する根源的な差別意識は、間違いなく私の心にもあります。その〝醜さ〟を、目の前に突きつけられたような気がしたのです。従って、その後の物語の展開はさぞ苦い味わいになっていくのだろう、と思って身構えたのですが、違いました。
 
 韓英恵さん演じる、殺された少女の双子の妹は、(おそらく、いたたまれなさから)姉の葬儀を遠くで見ていた、笠井しげさん演じる少年を巻き込み、疾走を始めます。旧日本軍が処分し損なった毒ガスを、一風変わった青年から分けてもらった妹(以下「少女」)は、少年とともに、拉致被害者の家族とおぼしき男(間違いなく蓮池徹さんがモデル。当時は拉致被害者家族会の重鎮でした)の講演会場に赴き、北朝鮮への非難と日本への愛国心を煽る男めがけて、毒ガスの入った瓶を投げつけて殺します。「(日本なんか)愛してねえよ、バーカ!」と叫びながら。その後は、もう一直線です。姉が殺された駅の地下道でも毒ガスの瓶を炸裂させ、そこを歩く市民を殺します。そして、残り3本の使い道を探し、二人は駆け抜けます。そう、二人はここで、完全なる「テロリスト」となるのです。
 
 二人の移動手段は、自転車。肉体そのものを極限まで使い切って疾走する二人。ハッピーエンドになんかなるわけがないことは、もうストーリーの途中で分かりますが、その疾走感は、ものすごく痛々しく、しかし爽やかです。少年は、気弱で、常に無口、主体性がほとんど感じられないキャラクターだったのですが、疾走の中で表情が徐々に変わっていきます。「どうやったら世界は変わる?」という問いかけの答えを探すために。二人がカラオケで、PUFFYの「アジアの純真」を、険悪な雰囲気で熱唱します。映画のタイトルにもなっている歌です。二人の微妙な関係性が明確になる場面です。いわゆる「ネトウヨ・反韓」の人々は、日本が「アジア」の一員だと思っているのかな? などという思いを、私はこの歌を聴きながら思いました。
 
 途中で挿入される、二人に毒ガスを分け与えた青年のエピソードは、「世界を変えること」が、自分を抑圧しているものを打ち壊すことだ、という意味と、そもそも世界を変えることの困難さとを、さりげなく伝えます(青年の名前が、傑作ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の監督と同名なことに、何らかの意味を感じてしまうのは私だけかな?)。
 二人のラストシーンは、当然そうなるだろう、という終わり方でしたが、実は、それでは終わらない。その後の、ある意味、脚本家・監督の〝ヤケクソ〟じゃないのか、とも思えるような展開も、この物語にはふさわしい、と感じました。
 
 この物語、もし小説なら、姉妹の家族や、在日韓国・朝鮮人が被っている様々な差別の実態、少年の家族の不安や社会からの指弾、社会の混乱なども書き込むところでしょうが、この映画は、そういう〝枝葉〟を一切削ぎ落とし、物語の本線だけで勝負します。そのシンプルさが勢いを生み、テーマをより浮き彫りにし、この映画を魅力的なものにしているのだろう、と思いました。
(ネトウヨ・反動差別右翼の方々からは大変嫌われているそうですが、彼らに嫌われるということは、よい映画である証拠、ということだと私は思っています)
(続きます)
 

シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その1)

2019-09-15 17:22:40 | シロウト考え休むに似たり
 9月13日の晩、新潟市中央区のクロスパルに、映画「アジアの純真」を観てきました。シネ・ウインドのツネちゃんや賢作さんたちが緊急上映会を企画したので、そこに行ってみたわけです。
 私は、実はあんまり映画を観ないので、映画を語る言葉を持っていません(というか、小説にしろなんにしろ「批評」というのはとても難しい、と思っています)。ですから、ここに書く文章もあくまで私の「感想文」に過ぎず、およそ「批評」の水準にない、ということはあらかじめご容赦ください。
 この映画、冒頭から私の心になんとも言えない〝いたたまれなさ〟を感じさせます。2002年の小泉総理訪朝と金正日総書記の拉致を認めての謝罪、拉致被害者の生存者の帰国と死亡発表、そんな中で北朝鮮非難が日本国中で湧き上がり、朝鮮学校の児童・生徒が登下校中に暴行を受ける事件が相次ぐ、そういうご時世で、一人の朝鮮学校の女生徒が駅の地下道近くで暴漢に襲われる。その少女は、主人公の一人である少年がチンピラ少年たちに絡まれているのを助けてくれた少女だった。その少女が暴漢に殺されていくのを、見て見ぬふりで通り過ぎる日本人たち。主人公の一人である少年も、恐ろしさに何もできず、ただ見ているだけ。その少年の無様な姿、視線ををそらして行き過ぎる人々を見て、私は思うのです。「ああ、この少年はオレだ」、と。
 ひどい差別があっても、見て見ぬふり。それどころか、その差別を肯定し、あろうことか面白がって拡散していくヤツ、さらにえげつない差別言動を行うヤツも大勢いる。それは2019年の今の日本の姿です。10年前に公開されたこの映画の中の状況は、現実の私たちの社会では、今むしろ悪化して存在しています。
(続きます)

秋にしみじみ亀らまんオブナイ その1 9月1日の職場裏にツユクサが群生していました

2019-09-15 17:01:58 | 浮かれ亀らまんオブナイ
 残暑厳しき折の9月1日朝、職場の裏手にツユクサが群生していたのを今ごろアップします。ツユクサの青は、本当に「青」ですよね。最近はあまり見なくなった花ですが、昔は道ばたとかに当たり前に咲いていたという記憶があります。何となく懐かしさを感じる花です。