ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

シロウト考え休むに似たり(19) 佐渡汽船の経営危機について考えちゃったりする

2020-12-05 16:59:32 | シロウト考え休むに似たり

◆佐渡汽船の経営がヤバイことになっているそうです。毎日新聞によると、「新型コロナの感染拡大に伴う乗船客の大幅減を受け、同社の経営は悪化。20年9月末時点での債務超過額は連結ベースで10億7200万円に上っており、同12月期通期は約38億円の最終赤字を見込んでいる」とのことで、同じ記事で花角県知事は「佐渡汽船には最大限の経営改善努力をしてもらうという前提での支援。経営コンサルタントとの協議を含め、しっかりと具体策を練ってほしい」と述べたということです。

◆私は会社経営には全く疎いのでアレですが、佐渡汽船は、単なる民間企業というより、佐渡と本土とを結ぶ公共交通機関というか道路そのものだと思っていました。国道だって県道だって市道だって、みんな行政が維持管理を担っています。それは当然で、道路は物流や人の移動のベースになるものだからです。道路管理を民営化しろ、という議論がもしあるとしたら、それはそもそもおかしい、と誰もが思いますよね。だから、佐渡汽船の赤字を企業努力でなんとかしろ、という話は根本的におかしいのでは、と私は思ってしまいます。だって、 何しろ道路なんですから。それがないと佐渡島民は本土とそもそも行き来できないわけですから。道路管理は行政の仕事なんですから。

◆とすると、佐渡汽船の赤字は、必ずしも佐渡汽船だけの責任は言えないのではないでしょうか。佐渡と本土との人の行き来を増やす仕事は、佐渡市と新潟県のお仕事なんですから。もちろん佐渡島で観光資源を多く持っている佐渡汽船も一定程度担ってはいると思いますが、それよりか行政の地域振興政策の方がやはり重要でしょう。

◆したがって、知事が言うような、佐渡汽船に赤字解消の方策立案を押しつけるようなやり口は、私はどうにも納得がいきません。こんな私の思いは間違っているのでしょうか。できれば、この問題にお詳しいかたにご教授いただけると大変嬉しいです。

#佐渡汽船


シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その3)

2019-09-18 22:03:29 | シロウト考え休むに似たり
 (承前)おそらく、この緊急上映会に来たのは、もちろん私も含めて、ヘイトスピーチや差別事象、権力による様々な不正が蔓延する今のご時世に危機感を持ち、そういう社会をもたらしている現政権をなんとかしたい、と思っている人々だと思います。ですから、上映会後の、脚本家の井上淳一さんと主演俳優の韓英恵さんと劇中で殺されちゃうキャラクターのモデルの蓮池透さんによるフリートーク、井上さんがあえて言う「この映画は「反日映画だ」という挑戦的な謂い、英恵さんの、差別を乗り越えようとする静かな意思、蓮池さんの「転向」(もちろん民主的な方向へのですよ)は、映画とは別に、とても盛り上がりました。問題は、この上映会に来た人は、おそらく今の日本では〝少数派〟なのだろう、ということです。しかし、そんなことに臆さず、全国に上映会を仕掛ける井上淳一さんの腹のくくり方は、間違いなく「パンク」です。
 そんなわけで私は、枝葉のディテールにこだわらずテーマを一直線に突き進むこの映画を一言で表するにあたり、「パンクファンタジー」というフレーズを思いつきました。
 改めて繰り返しますが、私はあんまり映画を見ないので、映画を批評する言葉を持っていません。したがって、この三回にわたるこの文章はあくまで私の〝感想文〟に過ぎず、この映画を適切に語れているかどうかは分かりません。ただ、とても面白かった、ということは、見た方々に共通している感想ではないか、とも思っています。いつか、TVでもやってくれないかなあ(ムリかな😜)。

シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その2)

2019-09-16 12:20:17 | シロウト考え休むに似たり
 (承前。多少のネタバレはご容赦を)私が〝いたたまれなさ〟を感じたのは、普段はSNSや日常会話で偉そうなことをいっていても、いざというときには何もできない自分、というものを、これでもか、と自覚させられたからです。ヤバいことには関わりたくない、という気持ち、そして、「日本人」として生育してきたことに起因する根源的な差別意識は、間違いなく私の心にもあります。その〝醜さ〟を、目の前に突きつけられたような気がしたのです。従って、その後の物語の展開はさぞ苦い味わいになっていくのだろう、と思って身構えたのですが、違いました。
 
 韓英恵さん演じる、殺された少女の双子の妹は、(おそらく、いたたまれなさから)姉の葬儀を遠くで見ていた、笠井しげさん演じる少年を巻き込み、疾走を始めます。旧日本軍が処分し損なった毒ガスを、一風変わった青年から分けてもらった妹(以下「少女」)は、少年とともに、拉致被害者の家族とおぼしき男(間違いなく蓮池徹さんがモデル。当時は拉致被害者家族会の重鎮でした)の講演会場に赴き、北朝鮮への非難と日本への愛国心を煽る男めがけて、毒ガスの入った瓶を投げつけて殺します。「(日本なんか)愛してねえよ、バーカ!」と叫びながら。その後は、もう一直線です。姉が殺された駅の地下道でも毒ガスの瓶を炸裂させ、そこを歩く市民を殺します。そして、残り3本の使い道を探し、二人は駆け抜けます。そう、二人はここで、完全なる「テロリスト」となるのです。
 
 二人の移動手段は、自転車。肉体そのものを極限まで使い切って疾走する二人。ハッピーエンドになんかなるわけがないことは、もうストーリーの途中で分かりますが、その疾走感は、ものすごく痛々しく、しかし爽やかです。少年は、気弱で、常に無口、主体性がほとんど感じられないキャラクターだったのですが、疾走の中で表情が徐々に変わっていきます。「どうやったら世界は変わる?」という問いかけの答えを探すために。二人がカラオケで、PUFFYの「アジアの純真」を、険悪な雰囲気で熱唱します。映画のタイトルにもなっている歌です。二人の微妙な関係性が明確になる場面です。いわゆる「ネトウヨ・反韓」の人々は、日本が「アジア」の一員だと思っているのかな? などという思いを、私はこの歌を聴きながら思いました。
 
 途中で挿入される、二人に毒ガスを分け与えた青年のエピソードは、「世界を変えること」が、自分を抑圧しているものを打ち壊すことだ、という意味と、そもそも世界を変えることの困難さとを、さりげなく伝えます(青年の名前が、傑作ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の監督と同名なことに、何らかの意味を感じてしまうのは私だけかな?)。
 二人のラストシーンは、当然そうなるだろう、という終わり方でしたが、実は、それでは終わらない。その後の、ある意味、脚本家・監督の〝ヤケクソ〟じゃないのか、とも思えるような展開も、この物語にはふさわしい、と感じました。
 
 この物語、もし小説なら、姉妹の家族や、在日韓国・朝鮮人が被っている様々な差別の実態、少年の家族の不安や社会からの指弾、社会の混乱なども書き込むところでしょうが、この映画は、そういう〝枝葉〟を一切削ぎ落とし、物語の本線だけで勝負します。そのシンプルさが勢いを生み、テーマをより浮き彫りにし、この映画を魅力的なものにしているのだろう、と思いました。
(ネトウヨ・反動差別右翼の方々からは大変嫌われているそうですが、彼らに嫌われるということは、よい映画である証拠、ということだと私は思っています)
(続きます)
 

シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その1)

2019-09-15 17:22:40 | シロウト考え休むに似たり
 9月13日の晩、新潟市中央区のクロスパルに、映画「アジアの純真」を観てきました。シネ・ウインドのツネちゃんや賢作さんたちが緊急上映会を企画したので、そこに行ってみたわけです。
 私は、実はあんまり映画を観ないので、映画を語る言葉を持っていません(というか、小説にしろなんにしろ「批評」というのはとても難しい、と思っています)。ですから、ここに書く文章もあくまで私の「感想文」に過ぎず、およそ「批評」の水準にない、ということはあらかじめご容赦ください。
 この映画、冒頭から私の心になんとも言えない〝いたたまれなさ〟を感じさせます。2002年の小泉総理訪朝と金正日総書記の拉致を認めての謝罪、拉致被害者の生存者の帰国と死亡発表、そんな中で北朝鮮非難が日本国中で湧き上がり、朝鮮学校の児童・生徒が登下校中に暴行を受ける事件が相次ぐ、そういうご時世で、一人の朝鮮学校の女生徒が駅の地下道近くで暴漢に襲われる。その少女は、主人公の一人である少年がチンピラ少年たちに絡まれているのを助けてくれた少女だった。その少女が暴漢に殺されていくのを、見て見ぬふりで通り過ぎる日本人たち。主人公の一人である少年も、恐ろしさに何もできず、ただ見ているだけ。その少年の無様な姿、視線ををそらして行き過ぎる人々を見て、私は思うのです。「ああ、この少年はオレだ」、と。
 ひどい差別があっても、見て見ぬふり。それどころか、その差別を肯定し、あろうことか面白がって拡散していくヤツ、さらにえげつない差別言動を行うヤツも大勢いる。それは2019年の今の日本の姿です。10年前に公開されたこの映画の中の状況は、現実の私たちの社会では、今むしろ悪化して存在しています。
(続きます)

シロウト考え休むに似たり(17)「新潟酒蔵約88カ所めぐり」を提案しちゃったりする、の修正

2017-09-10 11:44:30 | シロウト考え休むに似たり
 ばらくてブログ読者の皆さま(って、いらっしゃるんだかどうなんだか)、たいへんご無沙汰です。
 前回の投稿以来、約半年ぶりの新規投稿です。
 ここしばらく、スポーツ選手で言うところの「イップス」状態に陥り、長い文章が書けない状況が続いておりました(今もかなりアヤシイ)。短いものは、フェイスブックやツイッターに投稿していましたが、そんなわけで、長い文をアップするブログが更新できませんでした。全く申しわけありません。
 今回は、リハビリを兼ねて、2月に投稿した「シロウト考え(16)」を一部訂正する文章をアップします。

 2月投稿の「新潟酒蔵約88か所めぐりを提案しちゃったりする」は、おかげさまで多数の支持を得ましたが、「御酒飲帳」購入の部分には批判を受けました。
 「御酒飲帳の購入」について、私は以下の提案をしていました。

◆巡礼者は「御酒飲帳」を購入して酒蔵を巡る

 巡礼者はあらかじめ、ぐい呑み(できれば一合入るやつ)つきの「御酒飲帳」を購入し、酒蔵で提示し、御神酒をいただいたら「御酒印」を押してもらう。全88カ所(もしくはそれ以上)をクリアしたら「完了証」および何かありがたいもの(なるべくどうでも良いもの)をもらえる。
 「御酒飲帳」の価格は、完全コンプリート用で3万円程度。半分とか1/3とかの、安く買えるものも用意する。販売は、協力してくれる酒屋さんや酒蔵にお願いする(この企画の意義の明確化のため、コンビに等では売らない)。一蔵ごとに参加する方は、その都度200円なり300円なり支払う、ということにする。


 こて、どこがまずいのかというと、とにかく価格設定が高すぎる、ということ。
 酒以外も含め、似たようなことをしてるところの手帳価格は、だいたい1000円から2000円で設定していて、各現場で改めてカネを落とす、ということになっています。そもそも、3万円などというバカ高い価格設定ではだれも買わんだろう、というキビシイご指摘をうけたわけです。
 それは全くごもっとも、と思う次第なので、その部分を以下のように直したいと思います。

 巡礼者はあらかじめ、ぐい呑み(できれば一合入るやつ)つきの「御酒飲帳」を購入し、酒蔵で提示し、御神酒をいただいたら「御酒印」を押してもらう。全88カ所(もしくはそれ以上)をクリアしたら「完了証」および何かありがたいもの(なるべくどうでも良いもの)をもらえる。
 「御酒飲帳」の価格は、完全コンプリート用で1000円~2000円程度。半分とか1/3とかの、安く買えるものも用意する。販売は、協力してくれる酒屋さんや酒蔵にお願いする(この企画の意義の明確化のため、コンビに等では売らない)。
 参加くださる酒蔵さんは、御神酒もしくはこの企画に合わせたお酒を適正価格で振る舞う(200〜500円を想定しています)、ということにする。


 これなら、参加する新潟清酒ファンからもご納得いただけるのではないか、と思うのですが、いかがでしょう。皆さまからのさらなるご意見をお待ちしております。 


シロウト考え休むに似たり(16) 「新潟酒蔵約88カ所めぐり」を提案しちゃったりする

2017-02-05 23:03:31 | シロウト考え休むに似たり
 寒中お見舞い申し上げます。大変久しぶりのブログ更新となりました。お待ちいただいた読者の皆様には大変申しわけありませんでした(って、だれも待っちゃいないか)。
 てなわけで(どういうわけだか)、2017年の一発目は、とっても酒くさい提案です。

 昨年末の新潟水辺の会の宴会で、新潟県立大学の山中知彦先生、NPO全国水環境交流会の山道省三さんとお知り合いになる機会を得まして、そこで、新潟の酒の話などで大いに盛り上がりました。そこでこの三人、酔っ払った勢いで「新潟には酒蔵が約90蔵あるので、「四国霊場88カ所めぐり」をパクって新潟酒蔵88カ所めぐりなんかやったら面白いのでは、とさらに盛り上がったのです。
 で、山中先生は早速昨年末、ご自分のブログでこの企画についてのご提案をアップ。酒が醒めてしばらく経ってからもしっかり覚えておられたということは、けっこう先生の心のどこかに刺激を与えたのだな、と私も思いましたので、言い出しっぺの一人(酔った勢い)の責任として、私もこの企画を、より具体的に提案してみたいと考えました。とはいえ、実現するには新潟県酒造組合や各酒蔵の協力、具体化するための各方面のご協力が不可欠なので、実現性はまあアレなわけですが、そこはそれ、ヨッパライのたわごとということで、どうかご容赦を。
 
 ちなみに、私が考える酒蔵巡礼企画はこんな感じ(山中世生のHPもご覧ください。http://labre.blog.fc2.com/)。

◆巡礼者は「御酒飲帳」を購入して酒蔵を巡る

 巡礼者はあらかじめ、ぐい呑み(できれば一合入るやつ)つきの「御酒飲帳」を購入し、酒蔵で提示し、御神酒をいただいたら「御酒印」を押してもらう。全88カ所(もしくはそれ以上)をクリアしたら「完了証」および何かありがたいもの(なるべくどうでも良いもの)をもらえる。
 「御酒飲帳」の価格は、完全コンプリート用で3万円程度。半分とか1/3とかの、安く買えるものも用意する。販売は、協力してくれる酒屋さんや酒蔵にお願いする(この企画の意義の明確化のため、コンビに等では売らない)。一蔵ごとに参加する方は、その都度200円なり300円なり支払う、ということにする。

◆各酒蔵は、巡礼者に「御神酒」を振る舞う

 参加してくださる酒蔵は、おそらくどこも地元の神社等に奉納する「御神酒」を造っているはずなので、それを巡礼者に提供していただく。振る舞う量は、五勺でも一合でも、各蔵の判断でOK。それに巡礼者は文句を言ってはいけません。

巡礼者は、原則公共交通機関もしくは徒歩で巡る。貸し切りバスなど仕立てて大勢で巡るのはダメ。

 何しろ、「御神酒」をいただく「巡礼」なわけですから、そこはラクしてはいけません。蔵によっては交通の便がとても悪い立地のところもありますが、そういうところに何とか工夫して行くのこそ巡礼です(観光バスなどで乗り付けられる酒蔵なんか、そもそもほとんどありません)。
 そもそも、この酒蔵めぐりの意義は、新潟の酒蔵がどういう環境や風土で酒造りをしているかを知り、新潟の酒についてさらに理解を深める、ということですから、通常の「観光」とはあえて一線を画するのがよいと思うのです。

◆巡礼の受け入れ期間と場所は、酒蔵の都合に合わせる

 これはまあ当然ですね。繁忙期に来られたって、仕事の邪魔になるばかり。通年で、というのも無理です。繁忙期を避けた、3日~1週間程度の期間を決めて、その時期に受け入れる、というのが現実的でしょう(もちろん、対応可能な蔵は1か月でも半年でもOKですとも)。上越・中越・下越・新潟・佐渡などエリア分けして、それぞれで時期を調整する、という手段も考えられます。受け入れ期間は雑誌等のメディアや酒造組合や各蔵のHP等であらかじめ公開してもらい、それを確認して行くようにしましょう。
 受け入れの場所も、新潟の多くの酒蔵は規模が小さく、蔵の敷地内での対応が難しいところも多いわけですので、そこは酒蔵の都合に合わせましょう。酒蔵近くの道の駅や公民館、公園等の公共施設、もしくは酒蔵とかかわりの深い神社・仏閣(御神酒といえばここですよね)を利用するのも手です。

◆年に1回イベントを打つ

 「新潟酒蔵88カ所めぐり 御酒飲帳の会」(名称はてきとう)というイベント(もちろん宴会メイン)を、年に1回やる、そこで、全蔵元もしくは一定数の蔵元を制覇した人を表彰し、完了証と記念品(たぶん酒)を進呈する、というのはどうでしょう。同好の士との交流(酒飲んでクダ巻くだけかも)は、この企画の意義をさらに深めるのではないかと思います。もちろん、可能な範囲で酒蔵や酒屋さんからも参加していただければ、さらに盛り上がることでしょう。

 また、この企画の具体化のために、以下のようなことも考えてみました。

◆実行するための組織を作る

 どんなに良い思いつきでも、実行できなければ絵に描いた餅。ここは、山中先生をはじめとする言い出しっぺを中心に、この企画に賛同してくれそうな方々に声かけをすることから始めなければなりません。そこで、さらに細部をもんでいくことが大切になります。私のこの提案も、実際にやるとなったらけっこう穴だらけだろうと想像できます(だってヨッパライの発想なんだもん)。ですから、しっかりした組織できちんとした案を作ることが重要です。

◆酒造組合に仁義を切る

 これはまあ当然ですね。ヨッパライだけで暴走したってしょうがないですから。しっかりした企画書を用意し、酒造組合からもご協力をいただきながらすすめるのが基本中の基本です。

◆酒蔵の参加は、可能な蔵の自由参加で

 新潟県酒造組合のHPによると、新潟の酒蔵は現在91蔵あるそうです(一部、清酒の製造をしていない蔵もあります。また、現在製造しているかどうかわからない蔵もあるようです)。そのほか、地ビールの醸造所も、日本第1号のエチゴビールをはじめ7蔵あります。そういう地ビール蔵も含め、できればすべての蔵元に参加してもらいたいのですが、なかなかそういうわけにもいかないでしょう。蔵によっては、規模が小さすぎてそんな巡礼(というかヨッパライ連中)の対応などできない、というところもあるでしょうし、こんな企画など全くくだらない、と考える蔵元もいらっしゃるとも思います。ですから、参加はあくまでも任意。ご協力いただける蔵でやりましょう。

◆マスコミにも協力をお願いし、可能なら共同企画者として宣伝をお願いするほか、スポンサー探しを手伝ってもらったり、スポンサーになってもらう。

 話が具体化し始めたら、マスコミ対策が重要です。酒造組合や酒蔵を前面に出しつつ、全国にこの情報を拡散してもらい、「清酒王国・新潟」の新企画を全国に広めてもらいましょう。また、新潟地酒愛好家の団体や集団にもご協力をいただきましょう。新潟の酒好きは、たぶんけっこう乗ってくるのではないか、と私は思っています。


 どうでしょう。もちろん、これはまだ「思いつき」段階ですから、いろいろ問題もあると思います。まあ、いかにもヨッパライが酒の席で酔いにまかせて思いついた、超酒くさいアイディアなわけですが、なんだかちょっと面白いな、という気もしているのです。新潟の酒が、どういう場所で、どういう風土で作られているのかを自分の足で歩いて知ることは、新潟の酒文化を身をもって知る、ということでもあります。それは、新潟の大切な食文化の一つである酒造りを、未来へ持続させていくための力の一つにもになっていくのではないか、とも思うのです。

シロウト考え休むに似たり(15) 教育の政治的中立について考えちゃったりする

2016-07-24 19:46:11 | シロウト考え休むに似たり
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 7月上旬からひどい夏風邪をひき、ずっと体調が悪い状態でしたが、最近になり、ようやく回復してきました。夏は好きな季節なので、なんとか元気を出していろいろやっていこうと思っているところです。
 てなわけで、久しぶりのブログ更新は、「シロウト考え」の第15回。「教育の政治的自由」を考えようと思います。


 自民党が、学校での教員の授業で、いわゆる「政治的中立」を逸脱している事例があったら教えてね、というフォームを党のHPにアップしたところ、たった1か月で結構な数の密告が寄せられたそうで。この件については、自民党さん、よっぽど教員を信用していないというか、「悪の結社・日教組」の教育支配、などというイメージを強烈に抱いていることがたいへん良くわかる、という意味でおもしろいですね。

「悪の結社・日教組」という幻想を、自民党の皆さんはまだお信じで?

 しかしまあ、普通に考えればわかると思いますが、そんな偏った思想をむき出しで授業を行う教員が、どれほどいるというのでしょう。少なくとも私は、日教組が超強かったとされる1970年代に小学校から高校までの学校生活を過ごしましたが、そんな先生はいなかったと記憶しています(新津出身の友人たちの中には、政治色の強い授業を受けた、という人もいますので、そういう教員もいたかもしれないですが、それは当時でもかなり少数派だったのではないでしょうか)。いわんや現代の教員に、そんな極端というか「空気」を読めない人はまずいない、と言ってもいいと思います(自らの「思想信条」にかかわる意見表明を、むき出しの形で生徒さんたちに示すようなやり方は、昔の左翼の言い回しにいう「革命的警戒心」がまったくない、ということでもありますからね)。
 だいたい、自民党の皆さんや「自称保守派」の皆さんが蛇蝎のように忌み嫌う日教組、今の組織率は25%くらいですよ。日本全国、管理職を除く教員の4人に1人しかいない。しかも、組織率が高くてしっかりしている日教組加盟の組合の運動や方針はだいたい保守的で、日教組の中でも「右派」に位置していますし、「たたかう」組合を標榜しているところはだいたい組織率がとても低くなっています。日教組本体も、極端に反政権な組織方針なんて全く打ち出していません。だから自民党や「保守派」の皆さん、日教組なんぞ、実質的には何の力も持っていないのですよ、現実は。ですから、変な妄想は抱かずとも大丈夫ですとも。

政党=「パーティー」が政治的中立を言うことのおかしさ

 佐藤優さんがご著書で、「政党=パーティー」というのは、思想・信条や政策を同じくする人たちが集まって作るもので、偏りのない政党などあり得ない、という趣旨のことを書いていて、私はその指摘を大変納得しました。つまり、政党自体、初めから十分に偏っているわけですし、当然ながら自民党だって外から見れば、全く中立でも何でもない。その自民党が行う教育批判も、当然ながら偏っているわけです。
 これはもう多くの人がすでに指摘していますが、自民党さんの政策に沿った見解を「正しい」として授業で展開している教員がいても、自民党さんは絶対に批判なんかしないことでしょう。自分たちに都合のよい「政治教育」はOKで、自分たちに批判的なそれは許せない、という思いを、ここまでロコツに表明しちゃう自民党、昔の鷹揚だった自民党からは、相当離れたところに立っているようです。というか、今の自民党って、本当に自民党なんでしょうか。だって、国民の「自由」や「民主」主義が大嫌いなんですもん。自分たちに逆らう連中の「自由」や「民主主義」なんぞ認めないという考えなのですね。選挙の街頭演説のときにアベ首相が、自分を批判するプラカードを持った人々に向かって「そんなことをして皆さん恥ずかしくないんですか」という恥ずかしいことを言ってたのをTVで見ましたが、そういうことなら納得です。

「中立」な政治教育のやり方とは?

 今は、選挙権年齢が18歳に引き下げられたのに合わせて、各学校でも「主権者教育」が行われています。では、政治的に中立な主権者教育の授業は、どうすればいいのでしょう。で、私は、こんなふうにやったらどうだろうと考えました。「私の支持政党は○○党だ。その理由は△△だからだ。しかし、それが正しいとは限らない。絶対に正しい政策や理想というのはこの世には存在しないからだ。他の先生方や皆さんの保護者には、当然私と違う意見の方もいる。そういう人たちのお話も聞きながら、皆さんで自分の考えに合った政治家を選んでもらいたい」。
 私は、これなら問題ないのでは、と思うのですが、自分の考えを表明している時点で、もうダメですかね。でも、ここで言いたいことは、「世の中にはいろんな人がいて、多様な意見がある。それをよく吟味して、自分にとってよいと思う政策を提案している政治家を選ぼうね」ということなんですが、やっぱりダメかな。自民党にチクられて、叱られたり処分されたりクビになったりしちゃうかな。皆さんのお考えも、ぜひおうかがいしたいと思う今日このごろです。

シロウト考え休むに似たり(14) 「信仰」としての原発推進について考えちゃったりする

2016-07-04 22:39:05 | シロウト考え休むに似たり
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 東京電力の新潟県限定のCM、各方面から批判されてますねえ。先月の朝日新聞でも取り上げられてました。にもかかわらず、件のCMは未だに各テレビ局で放映され続けてます。何が何でも原発再開をめざす東電の「腹のくくり方」が感じられます。
 あのCMでは、マジメそうな東電社員の皆さんが、「万が一」の事故が起きたときのために、一生懸命さまざまな作業をやっている映像を流しつつ、「福島第一原発のような事故を二度と起こさない決意で……とりくんでいます」というナレーションが流れます。ここで私が注目するのが「決意」という言い回しです。
 「決意」って、つまり心構えというか、精神論ですよね。


事故を起こさない「決意」はしてるけど、それでもダメならゴメンなさい、ということか

 ということは、論理的には、このようなことになるような気がします。
 「私たちは、原発事故を二度と起こさないように決意し、日々、想定しうる最大の災害等に対処するため、できる限りの努力をしています。が、その想定を上回る事態が出来したときは、もう私たちにできることはありません。だから、そうなったら、もはや私たちの責任ではありません」。
 これは東電だけのことではなく、活断層や火山がすぐ近くにある川内原発を再稼働させた九州電力や、川内原発と同様に、すぐ近くに活断層が通る伊方原発を持つ四国電力、高浜原発の廃炉期限延長を狙う関西電力、ひいては全国の電力会社が共通して考えていることでしょう。
 原発立地は、幸運にも事故を起こさなかったとしても、廃炉後も強烈な放射能のために、人間がほぼ永遠に立ち入れない「禁足地」となってしまうわけですから、「便利なものにはリスクはつきもの」などといった浅薄なリスク論で片づけられるものではありませんし、そもそも、私たちはすでに、福島の破局事故を経験してしまったわけです。あってはならないことですが、ミサイル等で狙われたら、実際上対処のしようがないとも言われていますし、上から降ってくるもの、例えば航空機の墜落などには耐えられないそうです。そんなヤバイものに頼らなくても、安全で低リスクの自然エネルギー発電も、実は十分に商業ベースに乗る成熟技術となっています(これは飯田哲也さんのお話を参考にしています)。にもかかわらず、電力各社はなんでこんなにも原発を維持したいのでしょう。

原発推進=「祟り神信仰」なら腑に落ちる

 ここまで考えてから、私は、ふと、このようなことに思い至りました。
 原発を推進したい、と考えている電力会社や関係者は、事故を起こしたときの取り返しのつかない事態や科学的・技術的な限界といったものとは関係なく、いわば「信仰」の対象として原発をとらえているのではないか。そしてそれは、古来からの日本人の宗教的伝統の一つである「祟り神」信仰なのではないか
 菅原道真を祀った天神さま(天満宮)を代表として、日本人は、人々に災いを為すさまざまな事象(を引き起こす祟り神)を、怒りを静めつつその神威の恩恵=御利益を得るため崇め奉り、人々から寄進を募って立派な社を築き、神の御利益に感謝し讃える祭りを行ってきました。その延長線上に原発も存在している、と考えると、いろいろ腑に落ちるのです
 御利益(この場合は莫大なエネルギーと売電収入)を得るために多大な寄進(つまり原発を運転するための税金や会社の予算の投入)を募り、立派な神殿(原子炉や原発建屋)を築き、御利益の部分だけを大きく喧伝してその「信仰」を社会に広く伝えていく。原発を推進する人々は、そのような心性を持っているのではないか、とわたしは考えるに至りました。

原発「信仰」は、21世紀の「邪教」なのではないか

 原発推進が「信仰」だとしたら、原発を推進する人々にその危険性を指摘したり、未来の人々に対する無責任な態度であると論難しても、それはほとんど無意味なことになります。何しろ、「宗教的心性」を、その信仰を持たない人間が外側から変えることは、たいへん難しいことですから。
 もちろん、どんな神を信仰しようが、それが他人の迷惑になりさえしなければ、べつにかまいません。日本における「祟り神」の皆さまは、基本的に日本の風土に即した自然神ですから、少なくともお怒りになったとき、放射能をまき散らして広い大地を永遠に破滅させるような恐ろしいマネまではしません。しかし、原発の持つ危険性の取り返しのつかなさたるや、その微々たる御利益などはるかに上回ります。そういうヤバイ物件を「ご神体」としてあがめ奉る「原発教」は、果たして私たちがその存在を認めてよいものなのでしょうか。


 諸星大二郎さんの漫画で、日本の某国際空港には、人々の目に触れないところに神社があり、そこには、選ばれた社員が高給と引き替えに神官となり、日々飛行機事故が起こらないよう祈りを捧げなければならず、神官がそのことに疑問を持ったりしたときには必ず飛行機事故が起こる、という筋の作品がありました(とり・みきさんにも同様の作品があったと思います)。それと同様なことが、現実の原発にしっかり在る、という事実に、私は驚きます。
 19世紀の産業革命以来、科学技術は飛躍的進歩を遂げ、非科学的な迷信や信仰はすっかり影が薄くなったと思っていましたが、実際には、21世紀の今日でも、そういった心性はしっかり生き残っている。しかも、その心性は、最も強大なエネルギーを生み出してくれる引き替えに、最も恐ろしい災厄をもたらすものを扱う、最高の技術を発揮すべき電力会社に強く残っている。そういう意味で、電力会社や経済界、そして有力政治家たちが厚く信仰する「原発教」は、人々を「滅びへの道」へと導く「邪教」なのではないか、と不安に思う今日このごろの私なのです。

シロウト考え休むに似たり(13)ブラック企業(労働)と労働組合運動を考えちゃったりする

2016-06-05 22:36:16 | シロウト考え休むに似たり
 新年度の業務繁忙状況が6月になっても解消されず、今日も今日とて仕事を家に持ち帰り、晩酌はしっかり済ませつつ、その後は酔っぱらったアタマを無理やり働かせながらパソコンのキーボードをパカパカ叩く日々が続いている今日このごろ、皆さまにおかれましてはいかがお過ごしでございましょうか、というわけで久しぶりのブログ更新でございます。

労働条件は社会の進歩で自然によくなる?

 私は今、高校の教員業界に籍を置いているわけですが、80年代後半だったか90年代に入ってからだったか、組合加入を勧誘されたどなたかが、このようなことをおっしゃっていたそうです。「労働条件というのは、世の中が進歩すれば自然によくなる。お前らが成果だといっている労働条件の進歩は、別に組合がなくても得られているものだ。だから、組合なんぞ必要はないんだ」。まあ、確かに、バブル経済華やかなりしころは、仕事はどの業界も確かに忙しかったようですが、その分それなりに、賃金もどんどん上昇し、休暇制度や残業制限などの労働条件もよくなっていったという記憶があります。

労働組合運動の弱体化がブラック企業を生んだ

 では、21世紀も15年を過ぎた現在、労働者の労働環境はどうなっているでしょうか。上記の方がおっしゃったように、労働条件はさらによくなったでしょうか。
 そんなことはないですよね。というか、むしろ、20世紀のときよりもひどくなっている、というのが実態ではないでしょうか。労働基準法などの労働法規はあってなきがごとしの「ブラック企業」や「ブラック労働」がはびこり、月100時間を軽く超える(中には月300時間を超えている)サービス残業を強いられている労働者も多数いるということが明らかになっています。当然ながら、そういう企業には労働組合など存在していないでしょうし、疲弊したそういう労働者は、たとえば労働局や連合などの相談窓口に駆け込むなどということも思いもよらず、過労で倒れたり、過労死したり、精神的に追い込まれて自死してしまう、ということになっている人も大勢いらっしゃるということです。
 これはつまり、労働運動=労働組合運動が弱体化した結果、阿漕な企業がその本性を露骨に現し、自分たちの悪辣ぶりを指摘されないのをいいことに、やりたい放題やっている、ということでしょう。労働(組合)運動の弱体化は、1980年代の中曽根「行革」のころから進行し始めた、という気がします。国鉄の分割民営化により、総評労働運動の中核組合である国鉄労働組合(国労)は「みごとに」解体されました。その結果、もちろんそれ以前からそういうムードはあったにせよ、労働運動全般が沈滞化を進行させていきました。総評・同盟の解体と、ナショナルセンターが連合・全労協・全労協に3分裂してしまったことが、さらに労働運動の弱体化を加速させました。その末路が、今日のブラック企業・ブラック労働の跳梁跋扈だ、といっても言い過ぎではない、と私は思うのです。

シロウト考え休むに似たり(12)「保守」と「革新」を考えちゃったりする

2016-05-08 15:31:01 | シロウト考え休むに似たり
オブナイは「左のふりした右」?

 最近ツマから、「あなたって、左のふりしてわりと右だよね」と言われます(前回更新の「窯変かえうた地獄」をご参照ください)
 まあ、確かに、身に覚えがないこともありません。大学時代は新左翼系音楽サークルに所属し、勤め人になってからはずっと労働組合運動にかかわっているクセに、読んでいる雑誌は「月刊日本」(保守のオピニオン誌ですね)だったり、鈴木邦男さんや中島岳志さんの著書や、あろうことか西部邁さんの『大衆への反逆』とか『保守の辞典』とか、福田恆存の『保守とは何か』などの「保守本」を愛読しちゃっていますから。

主張がかぶっている「保守」と「革新」のオピニオン誌

 でも、こんなことを言ったら仲間内から怒られそうですが、そういう本、おもしろいんですよ、マジで。というか、私は、左派のオピニオン誌「週刊金曜日」も創刊号から講読しているのですが、ここ最近、「月刊日本」と「週刊金曜日」の主張が、結構かぶっていることが多いのですよ。
 例えば、「月刊日本」の5月号の表紙見出しはこんな感じ。
 「安倍を討て! 野党共闘のススメ」
 「安倍総理よ、竹中平蔵を解任し、新自由主義と決別せよ」
 「『保育園落ちた日本死ね』の衝撃」
 で、週刊金曜日の見出しを見ると、
 「アベノミクス失敗」(1078号)
 「TPPで日本は地獄」(1075号)
 「市民連合の破壊力」(1072号)
 もう、どっちがどっちだかよくわからない。
 まあ、「月刊日本」は、「Will」とか「正論」とかいったファナティックな反動保守雑誌は全く違う、たいへん理性的な雑誌ですから、皆さんの思う保守雑誌とはちょっと趣が違うもの事実ですが。

ちゃんとした「保守」の思想に共感しています。

 西部邁さんは、『大衆への反逆』(文春学藝ライブラリー)で、「保守主義」についてこのように説明しています。ちょっと長いですが引用します。
 〈保守主義の本来の含意は進歩にたいする徹底した懐疑ということにあったはずである。革新にもとづいて進歩していくということを信じるには、それをつくり出す当の本人たちが余りにも不完全なのではないかという自己懐疑が、保守主義の神髄だったはずである。変化にたいする消極性と裏腹になって、保守主義者の積極性はまずもって自分および自分たちへのひたすらな懐疑として示されるのである。〉
 この考えに立って、西部さんはソ連型社会主義のみならずアメリカ型民主主義も、歴史に学ばず「人間の進歩」を疑わないという点で「左翼」である、と定義し批判しています。また、長い時間を経て(=歴史の淘汰に耐えて)今日に伝わる「共通の英知=伝統」を尊重するのが保守思想である、とも言います(ように思います)。
 率直に言って、私は、そういう西部さんの考えに共感しています。というか、西部さんや中島さん、鈴木さんの書物を読むにつけ、私は自分の立ち位置を「保守」である、と思うようになっています(絶対「右傾化している」とか言われそうだなあ)。

保守と共産党が共闘した宮城・泉市の合併反対運動

 30年近く前、仙台でブンヤをやっていたとき、私は仙台市と泉市の合併問題を担当していました。宮城県・仙台市・地元紙の河北新報は、当然ながら合併推進です。当時の仙台市は、政令指定都市「昇格」を目指し、泉市のほか、隣接する宮城町・秋保町などと合併し、「大仙台」を作ろうとしていたのです。
 その中で最も大きかった泉市(当時の人口で12万人くらいだったかな。ちょっとうろ覚え)は、実は合併について賛否が真っ二つに分かれていました。市議会議員で賛成していたのは、自民党の中でも土建業者・建設業者と密接な関係のある人たちと、社会党(当時)、公明党でした(泉市の社会党・公明党議員は、本当は何も考えてなかったのではないか、と思います)。で、反対していたのが、自民党の中でも、泉市の独自の伝統や風土を重んじる農村出身のベテラン議員さんたちと共産党でした。
 仙台市と泉市の合併については、結局、住民投票(市議会で住民投票条例が否決されてしまい、泉市役所が苦肉の策で発案した、公職選挙法に基づかない行政主導の「市民意向投票」でしたが、それでも意味があったと思います)によって賛成多数となって決着しましたが、その選挙運動(というのかな)で、同じ宣伝カーに自民党の市議と共産党市議が一緒になって合併反対を訴えていたのはたいへん印象的でした。
 この場合、合併して仙台市の一員となってともに仙台市の「格」を高め、「大仙台」となって「東京化・大都市化」を推し進めることがよい、と考えた人たちと、合併などせず、泉市の独自の行政手法(例えば、住宅地開発では、緑地・水面の保全など、仙台市よりはるかに厳しい開発指導要綱が定められていました)や伝統・文化を大切にすべきだ、という人たちとが対立したわけですが、さて、いったいどちらが保守でどちらが革新なのでしょう

自民党は「保守政党」ではなく「反動革新政党」

 と考えると、そもそも自民党は「保守」政党なのかどうか、という根本的な疑問が湧いてきます。
 それはおそらく明治期からの流れとも思いますが、自民党という「万年与党」は、少なくとも戦後政治では、経済発展のためなら何をやってもよい、と言わんばかりの政策を推し進めてきました。水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくや新潟水俣病などの公害病を発生させ、全国に公害を引き起こし自然破壊の限りを尽くし、アメリカと結託して後始末の方法もない原子力発電所を全国の過疎地にバカバカ作りました(その「おかげ」で日本人の多くがその恩恵を受けていたことも事実です。また、社会党や共産党などの野党も、経済成長という「成果」については、けっこう「寛容」だったとも思います。そういう意味では、自民党だけが悪かったというわけではありません)。
 その際、日本人の「精神性」の大本となっていた自然環境や農村・里山の風景は完全にないがしろにされ、とくに地方に受け継がれてきた伝統的な文化や伝承、方言などはどんどん消え去っていきました。
 それって、「保守」のやることではありませんよね
 外国ではどうなのかよくわかりませんが、少なくとも戦後の日本政治は、「保守」と「革新」とで、その政策が相当ねじれていたのでは、と思います。「自然を守れ、文化を守れ、原発は危ない、公害は許さない」と叫んでいたのは革新側で、「経済発展のためなら一定の犠牲は仕方ない」と突き進んで行ったのが保守の側だったのは皆さんご承知のとおりです。
 とすると、自民党は、およそ「保守」政党ではないですし、とくに現政権は、現実の政策について全く「保守」ではありません。アメリカが押しつけてくる、日本社会を大きく変質させるさまざまな提案を丸呑みするばかり、というのは、保守のやることじゃありません。
 というか、現政権って、国家観や憲法観は、およそ現代人とも思えない明治時代丸出しの反動的なものなのに、実際の政策は、それこそ自分たちに民主主義的憲法を「押しつけた」アメリカ様に、日本そのものを貢ぎ物として差し出すかのようなものばかり。ねじれている、というより、文字通りの意味で、「アタマがどうかなっちゃってるんじゃないの?」という感じですよね。まあ、「反動革新」とでも言えばいいんでしょうが。

だから私は「左のふりした右」でけっこうですとも(笑)

 そんなわけで、今は、「右」だの「左」だの「保守」だの「革新」だのといった色分けが、まったく無効となった時代である、と言ってもよいと私は思っています。そういうステレオタイプなものの見方はこの際捨てて、改めて自分の立ち位置を検証し、そのうえで、自分にとってよりよい社会のあり方について考えていきたい、とも思っています。ですから、「左のふりした右」だ、と言われるならば、それはそれでよい、とも思う今日このごろの私なのです。

 ……今回はテーマが私にはでかすぎて、いつも以上の乱筆乱文となりましたが、どうかご容赦をm(__)m。