ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

窯変かえうた地獄 その9 なみだの操新潟弁

2016-04-22 12:54:49 | 窯変かえうた地獄
窯変かえうた地獄
なみだの操」(殿様キングス)新潟弁

おめさんのために 守り通した
おなごの操
今さらよそのしょに 捧げられねわね
おめさんの ぜって邪魔はしねすけに
近まに置いてもろいてんだて
別れるぐれぇなら 死にてわね
 おなごらすけ


 流行歌の新潟弁変換は、カンタンにやれそうなのですが、新潟方言全体の特徴として、関西や東北・九州のような、単語レベルで全然違う、というわけではないため、一曲まるまる新潟弁、というのは実はけっこう難しいのです。
 以前紹介した「神田川」「さよなら」そしてこの「なみだの操」は、その点新潟弁変換しやすい歌なので、このようなものができあがりました。
  ……しかし、この歌を知ってる世代は確実に50歳以上だろうなあ。若い人には全然伝わらないんだろうなあ、そもそも新潟県民(ひょっとして新潟市民?)以外にはまるでわかんないだろうなあ、と思う今日このごろ。
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ブログでトグロ巻きR その7 電力会社の労働組合は、本当に「労働組合」なのか?

2016-04-20 17:44:58 | ブログでトグロ巻きR
※ばらだるま編集人会からのお願い ばらだるま2号製作費にかかるご寄付を募っています※
 ◆お願いしたい金額……1口1000円以上、何口でもOK。
  ○1000~2999円をご寄付くださった方には、ばらだるま2号を1冊進呈します。
  ○3000~4999円をご寄付くださった方には、ばらだるま2号を2冊進呈します。
  ○5000円以上をご寄付くださった方には、ばらだるま2号を3冊進呈します。
 ◆振込口座は、今のところ以下のとおりです
  郵便振替口座 00550-4-37823 ばらくて編集人会
 このほか、銀行もしくは信用金庫で、新しい口座を開設したいと考えております。開設ししだい追ってお伝えします。



新潟地震を覚えています

 熊本大地震が収束しません。多くの人々が未だに避難生活を余儀なくされ、車中泊によるエコノミークラス症候群で亡くなる方も出ています。しかも、九州の活断層を横断するように震源が移動し、気象庁も「今後どうなるかわからない」という始末。本当に大変なことになってしまった、と思います。
 私は、2歳9か月のときに新潟地震を経験しました。そんな幼児の頃の記憶などないだろう、と思われるかもしれませんが、実は、今でも鮮明に記憶しています。そのころ私は、今で言う新潟市東区の上木戸に住んでいました。祖母と一緒に庭先にいた昼下がりに、激しい揺れが来ました。私は一人では立っていられず、祖母にしがみつきながら泣き叫んでいたように思います。地震が収まってからも、玄関を開けると、当時の上木戸は田畑が広がり、人家もほとんどなかったため、昭和石油の石油貯蔵タンクが爆発・炎上した、その黒く巨大なキノコ雲がそのまま見えていました。忘れようとしても忘れられない「思い出」の一つです。

震源近くにある原発を心配するのは当然ですが

 で、九州の大地震です。今回の地震は、いわゆる「中央構造線」沿いの活断層が連続的に動いて引き起こされたようです。その北東側には伊方原発が、南西側には川内原発があります。こういう大地震が原発の近くで発生した以上、少なくとも地震が収束するまでは稼働をやめるべきだ、という声が上がっているのは至極当然です(そういう声に対し、いわゆる「ネット右翼」というか現政権支持者と思しき「ネット住民」たちは、「地震をすぐに原発と絡めるのは、サヨクの政治利用でけしからん」とか「原発の電気がなくなったら復旧もできないではないか」などと口汚く罵っていますが、地震の震源域との距離を考えれば、原発を心配しない方がおかしい、と思うのですがねえ)。

「原発は地震にも耐えられる」と考えるのは、楽天主義にもほどがある

 そもそも、今回の地震があろうがなかろうが、5年前の東日本大震災による福島第一原発の破局事故を経験してしまった私たちは、原発という物件は、一度事故を起こしてしまったら取り返しのつかない事態が半永久的に続く、ということを学んだはずです。
「ネット右翼」(の方たちは、自らを「ごく普通の市民です」と言っています。あんな「普通の市民」いるかい?)をはじめとする、現政権を熱く支持しているらしい皆さんは、福島第一原発の事故については、「あれは津波のせいで壊れたのであって、地震には耐えている」と主張し、「だから川内も伊方も大丈夫だ」となるわけですが、データ分析等により「おそらく地震で壊れていたはずだ」と考える学者も大勢いますから、日本の原発はどんな地震にも耐えられる、と主張するのは、はっきり言ってものすごい楽天主義であろう、と心配性な私などは思います。
 だいたい、仮に事故が(運よく)起きなかったとしても、そのうち必ず廃炉にしなければならないときが来ます。ウランやプルトニウムを「燃やした」あとの高レベル放射性廃棄物や様々の低レベル放射性廃棄物の処理方法も決まっていませんし、処理できるのかどうかがそもそも疑問です。後始末の問題が全く解決されていない、「トイレなきマンション」と揶揄されている所以です。そういう問題を、現に今原発を稼働させ、その電力を享受している私たちではなく、遠い未来の子孫に押しつけて平気、というのは、歴史というものをあまりに侮った振る舞いではないか、と思います。

「死ぬかも知れない仕事」を組合員に強要する電力会社の労働組合は、果たして「労働組合」と言えるのか?

 そんな原発の運転や維持管理を担っているのは、沖縄電力を除く各電力会社の社員やその下請けの労働者なわけです。電力会社には、それぞれ大変大きく有力な労働組合があります。
 労働組合の一義的な存在意義は、労働者の権利を守り発展させる、ということです。具体的には、組合員が物質的・精神的な「豊かさ」を感じられる生活を享受できる賃金や、健康で文化的な生活を営める労働条件を経営側・理事者側に保障させる、というのが仕事です。経営側や社会・政治との距離の取り方は組合によってずいぶん異なるのも事実ですが、基本的に、どの労働組合も、労働者の生命と生活を守り、そのことで社会に貢献する、という目標については共通していると思っています。私も、現在を含めて三つ「正職員」の仕事をしてきましたが、必ず労働組合には入っていました。それは、上記のような労働組合の意義を積極的に認めているからです。私たちの社会を形成する人々の大多数は労働者ですから、そういう労働組合運動が、ひいては社会全体の幸福を担って行く力になる、とも思っています。
 とすると、電力会社の労働組合は、果たして私の思う労働組合なのか、という疑問が、ふつふつと湧いてくるのです。
 だって、彼らは社員や下請け労働者、そして市民の命を守ろうとしてないんだもん
 場合によっては死んでしまうかもしれない任務に就きなさい、と構成員に命令できる(してしまう)組織というのは、軍隊・警察、もしくは暴力団組織や、ショッカーなどの悪の秘密結社くらいでしょう。しかし、電力会社の労働組合は、原発推進という会社の方針をそのまま丸呑みし、たとえばメーデーで私たちが「原発反対」とコールしてデモ行進しているその後ろで「原発推進」と叫んでいるような組織です(統一メーデーとなった近年は、お互い自粛しているようですが)。それはつまり、組合が組合員に対し、「場合によっては死ぬこともある、いや、おそらくかなりの確率で死ぬ仕事をしなさい」と言っているも同然だ、と私は考えます。そういう意味で電力会社の組合は、経営側と一体化して、高い給料は保障するから、その引き替えに命を差し出せ、と社員に要求する組織だ、と言われてもしかたないのではないでしょうか(これは言い過ぎかな)。

「死」が前提の仕事を認める労働組合はありえない

 もちろん、命の危険のある仕事はこの社会にいくらでもあります。高所作業や大規模土木工事、鉱山労働などは常に危険と隣り合わせです。しかし、これらの危険業務と原発労働とでは決定的な違いがあります。原発労働以外の危険労働については、安全対策の徹底によって、危険度は相当に軽減されます。強風や地盤の崩壊等で危険すぎる場合は、そもそも作業をさせることはないでしょう。だいたい、「放射能」などという得体の知れないものにさらされることはほとんどありません。
 では、原発はどうでしょう。「安全」に稼働している状況でも、放射性物質を取り扱っている以上、ちょっとした事故で放射線が漏れ出している事故は枚挙にいとまがありません。さらに、福島第一原発のような破局事故が起こったらどうでしょう。原発が壊れてしまったら、放射線被害は逃れることができません。「安全対策」などできるわけがないのです。でも、社員のみなさんは、原発を稼働させているという会社の責任を、社員として背負わなければなりません。まさか組合員ではなくなった管理職だけでその収束作業を行うわけはありません。軍隊と同様に、エライ人は安全なところで「何とかしろ」と命令し、現場の社員が放射能まみれの危険な現場で働かざるを得なくなるでしょう。当然、被曝その他のひどい目に遭い、命を失う社員も出てしまうことでしょう。ついでに言えば、原発事故に巻き込まれてしまった多くの市民も、命や生活を奪われてしまう、ということにもなるわけです
 そういう原発を、国や経営側と一体となって「推進する」といってしまう「労働組合」というのは、論理的にも倫理的にもあり得ないのではないでしょうか。組合員の命を守れない(守る気がそもそもない)、市民の命や生活をを守る意志がない組合が「労働組合」を名乗ること自体、全くちゃんちゃらおかしい、と私は思います。
 とまあ、このようなことを書いてしまいましたが、これは、電力労組も変わってほしいからなのです。電力労組の中にも、私たちと同様の問題意識をお持ちの組合員はきっといると私は思っています。おそらく社内的な事情で、そういう声を上げることは相当困難なのだと推察していますが、それでも、そういう組合員が声を上げてくださることで、電力労組のあり方が多少なりとも変わり、真の意味での「労働組合」に近づいてくれるのではないか、と思うのです。次の原発破局事故が起こってしまう前に、電力労組が変われば、日本も必ずよい方向へ変わります。こんなことを期待というか夢想する、今日このごろの私なのです。

 今回も、勢いに任せて書き殴った結果、なにやら乱筆乱文のランラン文章となった気がしますが、どうかお許しを(許してくれない人もきっといるだろうなあ)。
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ばらだるまインフォメーション ばらだるま2号の製作を開始します(その2)。

2016-04-18 23:14:50 | Weblog
 3月14日、当ブログにて、ばらだるま2号の制作開始を告知させていただきました。
 先日、執筆をご依頼したい皆様に原稿依頼もさせていただいたところです。
 ということで、改めてばらだるま2号制作について告知させていただきます。

1.発行時期
 2016年9月末(目標)。

2.定価
 500円
(税込予科。なるべく500円を維持したいと考えております)

3.特集テーマ
 「新潟の山に登る」
 といっても、なにしろ「ばらだるま」ですから、ストレートに受け止めちゃいけません。どんなものが出るかは刊行してからのお楽しみですが、まあ、あんまり期待しないでお待ち願います。

4.執筆者(予定)
 ばらだるま1号の執筆者+α
 前述のとおり、先日皆様にご依頼したところです。

5.製作費
 製作費については、前回のインフォメーションでお伝えしたとおり、編集人も手元不如意で、なかなか厳しい情勢です。
 そこで、今回は、
(1)広告を募ります
 具体的には、表2・表3・表4を全面広告スペース(もしくは1/2広告スペース)とし、通常ページでは1/4(もしくは1/3)ページ広告を確保します。
◆表2・表3・表4の1ページ全面で3万円
◆同1/2ページで2万円
◆通常ページの1/4スペースで5000円

 をいただければと考えています(応相談)。
(2)ご寄付を募ります
 広く世間の皆様方からご寄付を募り、そのお金を中心に製作費としたい、ということになりました。まあ、大げさでない「クラウドファウンディング」みたいな感じで資金調達したい、ということです。
◆お願いしたい金額……1口1000円以上、何口でもOK
 ○1000~2999円をご寄付くださった方には、ばらだるま2号を1冊進呈します。
 ○3000~4999円をご寄付くださった方には、ばらだるま2号を2冊進呈します。
 ○5000円以上をご寄付くださった方には、ばらだるま2号を3冊進呈します。

◆振込口座は、今のところ以下のとおりです
 郵便振替口座 00550-4-37823 ばらくて編集人会
 このほか、銀行もしくは信用金庫で、新しい口座を開設したいと考えております。
 開設ししだい追ってお伝えします。

 ということで、皆様の応援をいただきながら、制作を進めていきたいと考えております。
 どうか、よろしくお願いしますm(_ _)m。
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シロウト考え休むに似たり(11)予備校の新聞広告を見ていろいろ考えちゃったりする(その2)

2016-04-09 14:15:21 | シロウト考え休むに似たり
このご時世、「有名難関大学に入る=幸福」ということにはならないのでは

 しかし、今のこのご時世、わざわざ予備校で勉強して「有名難関」大学に入れたからといって、その先のバラ色の人生が確実に保障される、というわけではないのが難しいところです。「東大出ててもバカはバカ」などという言い回しもすでに社会に定着しています。
 ついでに言えば、地方の県の多くの受験校では(新潟ももちろん含む)、東大をはじめとする「難関」大学合格率を上げることに血道を上げていますが、あれもどうなんでしょう。うかつに首都圏や関西圏あたりの「難関」大学に生徒を入れてしまうと、そのまま大都会に職を確保して居着いてしまい(何しろ有名企業や大企業は大都会に集中しています)、地方には「優秀」な人材がいなくなる、ということになっちゃうのでは。と思っていたら、もうすでにそういう傾向ははっきりしている、と、どなたかが雑誌で書いていました(どこかの県の元知事だった気がします)。
 「難関」大学に生徒を進学させることが目的化し、その結果、地域を支える優れた人材がどんどんいなくなり、その地域はどんどん衰えてしまう、というのは、なんだかタチの悪いブラックジョークみたいですね。

地域の維持・活性化のためには、地元の大学や専門学校をもり立てるべきでは

 そもそも、今の大学の学費は高すぎます。はっきり言って異常です。私がN大学文理学部の学生だった1980年代前~中盤、学費は初年度で60万円(入学金20万円含む)、2年目からは40万円でした。それから30年以上経過し、物価上昇率はそれほどでもないのに、学費はなぜか約3倍になっています。年間100万円を軽く超える学費や、首都圏のバカ高いアパートの家賃や食費など衣食住の経費を、子どものためにきっちりつぎ込める家庭は、今日の経済状況では多くないでしょう。当然ながら学生さんたちの多くは日本学生支援機構の奨学金(という名の教育ローン。約7割の受給者は年約3%の有利子奨学金です)を受給し、アルバイトもこなしながら大学生活を送っています。学生の本分たる「学び」がきちんとできているのか、とても心配ですし、そこまで苦労して大学を卒業しても、果たして望むような就業ができるのかも、実は不透明です。
 それなら、地元にだって大学や専門学校はあるんですから、地元の学校をもり立てていくほうが、地元に貢献できる人材育成や地域の維持・発展、そして地方自治の観点からもはるかに有意義だと思います。
 それを、やれ偏差値が低いだの、やれ誰でも入れるだの、大会社には就職できないだの、とわざわざ地元の大学を貶めてどうしますか。どんな有名大学に入学したって、そこでちゃんと学ばなければ、みんな「バカ」に戻るんです。「難関」大学に入学したって、そのことが「偉い」わけじゃない。どんな大学でも専門学校でも、「学びの場」であることに変わりはありません。そこでちゃんと学ぶことの方がずっと大事です。きちんと学べば、どんな人でもしっかりと成長し、本人の人生が豊かなものになり、結果として社会や地域も活性化していくと思うのです。
 だから、みんなで地元の大学や専門学校をもり立てていきませんか。もちろん、大学・専門学校自体の、教育内容をよくする努力が前提にはなりますが、県民みんなで県内の大学・専門学校とその学生を、金銭的な援助も含め、さまざまな形で応援していく。そして、地元の大学・専門学校でしっかり学び、力をつけ、地元という「足下」を見つめ、理解する学生を増やす。その学生が、就職や起業という形で地元に残り、地元を活性化させる。そういうことの積み重ねによって、中央に依存しない、「東京」の思惑に振り回されない、自立した地域を作り出すことができるのではないか、と思う今日このごろです。
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シロウト考え休むに似たり(11)予備校の新聞広告を見ていろいろ考えちゃったりする(その1)

2016-04-09 13:33:54 | シロウト考え休むに似たり
 春の新聞広告は、予備校が目立ってましたね。「東大・京大合格者」だの「難関大学入学者」だの「国公立医学部合格者」だのがうれしそうな表情で、その予備校で自分はいかに学習し合格できたか、などということをコメントしています。苦しい浪人時代を乗り越え、希望の大学に合格できたわけですから、それは大変めでたいことです。

もともと勉強が得意な人が「難関」大学に合格するのは「当たり前」なのでは

 しかし、高卒後2年間の労働者生活を経てから、某巨大大衆大学を4年半かけて卒業した私は、そういった広告を見るたび、どうにもやさぐれた気分になります。
 それは、私の学力が不足していて、「有名難関ブランド大学」に入学できなかった恨みやひがみである、というわけでは決してありません( ← ほとんど説得力がない)。私が気になるのは、その予備校で学習したことにより「難関」大学に合格した、という若者のほとんどが、全国でもよく知られた有名受験高校や、少なくとも各地方を代表するような受験高校の出身であるということです。
 それって、もともとお勉強が得意な人たちが、たまたま浪人しちゃったんで予備校に通い、恵まれた学習環境の中で明確な目標意識を持ち、その学力を十分に発揮した結果だってことですよね。
 そんなのあたりまえじゃん。
 そういう生徒ばかり集めてりゃ、そりゃ「難関」大学に合格する生徒は多いでしょうとも。
 でも、それでは、その予備校の指導力が優れてる、という証明や宣伝にはならんでしょう。

明らかに「学力」が足りなかった人を伸ばせてこそ、その予備校の実力を証明できるのでは

 とはいえ、少子化が進行し、大学入学人口もどんどん減っている昨今、予備校の経営もたいへんそうです。代々木ゼミナールなど、新潟校はなんとか生き残りましたが、全国の多くの予備校をたたんでしまいました。「生き残り」を考えたら、とにかく「難関」大学合格実績を強調するしかない、ということは、それなりに理解はできます。そういう実績を強調するためには、初めから学力があることがわかっている生徒を確保した方が話が早い、という意識が予備校各社にはあるんでしょう。
 しかし、もし予備校各社がその実力をアピールしたいのなら、そういう「合格してあたりまえ」な学生を前面に出すのではなく、受験界では全く無名な高校や、いわゆる「偏差値」が低くて大学受験とは無縁そうな高校出身の学生の学力を伸ばし、そういう学生をおおぜい希望の大学に入れている、というような実績を宣伝すべきではないでしょうか。もしそういう宣伝がなされたならば、高校時代までは学力が不足していたために不遇を託っていた若者が、その予備校で人生をやり直してみよう、と思ったり、その予備校で勉強して一発逆転してやろう、的な野望を持ったりする若者が増えたりし、結果としてその予備校の経営も安定する、ということになるのではないか、という気がするのですが。(この項つづく)
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