ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その38 先日の晩酌酒2種

2021-08-17 19:22:01 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
【先日の晩酌酒その1 笹印 低精白生酛純米 無濾過酒】
2回目ワクチン接種の前に、ツマが調達してきた「笹祝 笹印 低精白生酛純米無濾過酒」をいただきました。
このお酒、新潟が誇る食米のコシヒカリが原料米というのもすごい(コシヒカリでの酒造りは相当難しいらしいです)し、精白歩合が80%(2割しか削ってない)のもまたすごい。
冷や(常温のことね)でいただくと、濃醇すぎず軽すぎず、旨みと酸味のバランスが抜群の、旨すぎる食中酒。ぬる燗〜やや熱燗にしてもたぶん相当旨そう。
若社長が地域の生産者と連携しつつ意欲的な酒造りに取り組む笹祝酒造、これからも要注目です。すばらしい😍


【先日の晩酌酒その2 武甲正宗特別純米酒 無濾過生原酒 のんべえ】
2回目ワクチン接種の2日後、私もツマもこれと言った副反応が出ないのをいいことに飲酒を再開。で、いただいたのは、私の大学の大先輩が送ってくださった埼玉は秩父の酒「武甲正宗特別純米酒 無濾過生原酒 のんべえ」。
原酒ということでアルコール度数は18%と高め。味わいは、吟醸ではない純米の無濾過生酒なので濃醇ではあるものの、口当たりは思いのほかスムーズで、口に含むとふわっと広がる厚みのある旨みがたまらん。こりゃロックもいけるな、とグラスに氷を入れて吞んでみたら、これがもうとびきり旨い夏酒に変身。近年埼玉の酒の評価が高まっている理由がよくわかるナイスな美酒。旨い酒は全国にあり。すばらしい😍。



エッセイアーカイブ㉖ 学校や社会を「汽水域」に

2021-08-15 14:54:04 | エッセイアーカイブ
「汽水域」から学びの場や社会のあり方について考えたコラムです(「汽水域」は5号で終刊したため、このコラムもこれでおしまいとなります)。

 先日、何気なくTVを見ていたところ、岡山県の児島湾で獲れるウナギが話題となっていました。児島湾のウナギは、ほかの普通のウナギよりもずっと大きく成長し、また、蒲焼きなどの料理にすると、味も大変よいのだそうです。その理由は、児島湾が、河川水が流入する汽水域で、栄養に富んでいるためだから、ということでした。そういえば、島根県の宍道湖や本県の阿賀野川河口などで獲れるシジミをはじめ、スズキやボラなどさまざまな魚介類も、汽水域という環境の中で豊かに育つことが知られています。まさに、多様な生物を育み、複雑で豊かな生態系を保つ場所として、汽水域は存在しているわけです。

 ことわざで、「水清ければ魚住まず」というのがあります。きれいすぎる水だと、むしろ魚は生きにくい、水は多少濁っているくらいの方がいいのだ、ということから、あまりに清廉すぎる人は、逆に人から親しまれない、という意味で用いられています。なるほど、わたしたち人間の世界も、あんまりきれいすぎるというか、きちっと整いすぎている環境だと、かえって息苦しい。多少いいかげんな部分が残っているほうが、なんとなく安心する、ということは実際ありますよね。

 ところで、最近の日本社会を見てみると、そうした、いい意味でのいいかげんさというか、汽水域的な「濁り」が許されないような雰囲気が高まってきているような気がします。中国や韓国・北朝鮮は日本の敵でなければならず、その国々を多少なりともかばおうものなら「反日」のレッテルを貼って攻撃する、という風潮は、すっかり定着してしまった感がありますし、ネットの世界では、それが極端な形で増幅されてもいます。そのように、わざわざ「敵」と「味方」をくっきりと二分させ、「敵」と見なした人間は徹底的に攻撃する、という「空気」が、今日の日本社会には満ちあふれている、とわたしには感じられるのです。

 全く困ったことだ、と思うのですが、実は、このような「〝区分〟して〝排除〟する」という日本社会のやり方は、今に始まったことではありません。差別をはじめとして、ハンセン病患者の隔離政策、アイヌ民族への差別など、これまでにさまざまな形で行われてきています。学校だって例外ではありません。「障がい」児の隔離教育などはその典型ですが、私たちが勤務する高校だって、「学力」により区別され、生徒それぞれの学力に応じた学校に通うのがあたりまえ、ということになっています。そういうことに疑問を持つ人は、ほとんどいないでしょう。で、その結果、自分たちが属する集団の常識が社会全体の常識であると思い込み、自分たちとは異なる人間観・人生観を持つ人がいることを想像することができない人間がどんどん生み出されることになっている、といったらさすがに言いすぎでしょうか。

 でも、実際問題として、たとえば、「障がい」のある人々とのかかわり方がよくわからない、という人は大勢います。「障がい」者が隔離され、「健常者」の見えないところに押し込められているためです。その結果、「障がい者」に対する差別意識も払拭されない、ということにもなっています。あるいは、いわゆる「学力」の高い「進学校」の生徒が、そうでない学校の生徒を見下す、という話も聞きます。つまり、多様性のない社会は必然的に差別的なものにある、ということです。

 知り合いの若い新聞記者が、自分の高校生活についておもしろいことを語っていました。大阪出身のその人は、中学校の先生の勧めに従って、地元の新設校に進学したのでそうです。そこは、学力の高い生徒から低い生徒、いわゆる「ヤンキー」な生徒まで、さまざまな生徒が集まった学校で、その人は、勉強が不得意な同級生に勉強を教えていたということで、高校生活は、いろんなタイプの生徒がいてとても楽しかった、と言っていました。いい話だと思います。

 居心地のよい社会というのは、さまざまな人がいる中で、自分の居場所が確かにある、と感じられる社会なのではないでしょうか。そこは、自分と「違う」誰かを一方的に排除するような場ではないでしょう。学校も社会も、そのような場でなければならないのではないか、とわたしは思うのです。そういう場であれば多様性も保障されますから、豊かな関係性の中で新しい発想や活力も生まれてくることでしょう。

 新潟高教組の文芸・オピニオン誌としての「汽水域」は、この五号で終刊を迎えることとなりました。私たちが現に生きているこの世界そのものを「汽水域」としていくことが大切なのだ、と私たちは考え、この雑誌を作ってきました。そんな思いが、多少なりとも読者にもなさんに伝わっているとしたら、とてもありがたく、うれしいことだと、心から思います。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」5号 2014年11月発行 より】

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その37 最近の晩酌酒4種

2021-08-08 23:09:15 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
【最近の晩酌酒その1 えぞ乃熊純米吟醸R2BY中取り生酒】
大学進学を機に新潟から東京に移り住んで40数年になる高校時代の文芸部の大先輩Mさんからお送りいただいた北海道は旭川・高砂酒造の「えぞ乃熊純米吟醸R2BY中取り生酒」。日本酒度−3でスペックは中甘口。口に含むと爽やかな甘さが広がり、濃醇なうまみも感じる、いわゆる新潟タイプの対極にある味わい。北海道の酒は何となく辛口の印象があるも、見事に先入観を裏切られました。北海道産の濃い味のチーズや塩辛などと合わせるとさらに美味しくいただけそう。旨い酒は日本全国にあり。すばらしい😍。

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【最近の晩酌酒その2 大洋盛 紫雲生貯蔵酒】
先日県北方面に出かけた際調達してきた、村上・大洋酒造の「大洋盛 紫雲生貯蔵酒」。紫雲の旨さは何度もアップしていますので今さらですが、生貯蔵のこの酒も、この暑すぎる夏の夜にしっかり冷やしていただくと格別の旨さ。すばらしい😍。
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【最近の晩酌酒その3 大洋盛 紫雲 純米大吟醸活性にごり】
これも県北方面に出かけたときに調達した、村上・大洋酒造の「大洋盛 紫雲 純米大吟醸活性にごり」。あの旨すぎる紫雲の純米大吟醸でしかも活性にごり。旨いに決まってますがな。しっかり冷やして地物の魚の刺身などと合わせるともう旨くてたまらん。すばらしい😍。

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【最近の晩酌酒その4 緑川 生】
先日、高校生の前で久しぶりに喋る仕事をして声が枯れたという話をしたら、ツマが勤め先から買ってきてくれたのが魚沼市小出は緑川酒造の「緑川 生」。新潟タイプのエースとも言うべき緑川の、純米吟醸スペックの生酒で、爽やかでキレイな切れのよい味わいはさすがの一言。のどの調子もよくなった気がします。地物の枝豆と実家の母親が漬けたなす漬けで味わうと、しみじみとああ新潟の夏、という感。すばらしい😍。

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エッセイアーカイブ㉕ 「ダメな自分」を出発点に

2021-08-05 20:33:12 | エッセイアーカイブ
福島第一原発の破局事故を受けて、いろいろ自らの言動を反省しつつ考えてみたコラムです。

 日本のことわざや慣用句を眺めてみると、相反する内容が対になっているようなものがけっこうあります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と「羹に懲りて膾を吹く」とか、「対岸の火事」と「他山の石」とか、「後は野となれ山となれ」と「立つ鳥跡を濁さず」とかはそのような例ですが、前者が「性懲りもない人間のダメさかげん」を述べたものだとすれば、後者は「まともな人間がとるべき道徳・マナー」を述べたものだと言えるでしょう(「羹に……」は慎重すぎるのも考えもの、という意味なのでちょっと違いますね)。

 で、わたしのような小人(しょうじん)は、ともするとつい前者の方向へ行ってしまいがちです。わたしも、いろんな失敗をやらかしてはそのたびに反省して「もう二度とやらないぞ」と誓ったりするのですが、大して時間も経たないうちにすっかり忘れきって、また同じ失敗を繰り返してしまうのは実によくあることで、全く情けないとわれながら思います。ただ、そういうのはどうもわたし個人の性格的な問題というわけでもないようです。

 東電福島第一原発事故後の電力会社や原発推進派の政・財・官・学・マスコミの皆さんの言動は、まさに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の典型でしょう。この皆さんは、あれだけの事故を起こし、放射能汚染によって福島県に壊滅的な打撃を与え、国際的な問題にもなっているにもかかわらず、ぬけぬけと「ベトナムに原発を輸出する」とか「原発がなければ日本の経済は立ちゆかない」とか「低線量の放射能は体によい」とかの発言をしていますが、そこには、懲りない人間の能天気さがストレートに表れていて、いっそすがすがしい感じすらします。またそれが、日本の政治や経済を支える「大物」な方々の発言だったりもするわけで、そのことも、ダメなのはわたしだけではないんだ、という「安心感」を与えててくれます。

 ことわざでは、「出る杭は打たれる」・「長いものには巻かれろ」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」も意味上の対になっているようです。日本社会は、「虎穴」に入り込んで冒険をして「出る杭」となって疎まれるより、「長いものに巻かれ」たがるメンタリティのほうが強いらしく、特に原子力関係者の世界はそんな感じであることが、今回の事故以後の経過でいやというほど明らかになりました。科学的な正確さより仲間うちの雰囲気を壊さないことのほうを大切と考えるその感覚は、仲間や親分が言うのならば黒いものでも白なのだ、というあり方であり、任侠の世界にも通じる「絆」を感じます。そういえば今日本では「絆」という言葉が大流行ですが、それはそういう意味でもあったのか、と改めて納得しました。

 3・11後の社会をどのように変えていくべきなのか、ということを考えると、わたしたち一人ひとりが、そういう「ダメな自分」を見つめ直すことが大切なのだろう、と思います。少なくとも、3・11の被害を直接には経験しなかったわたしたちは、そういう反省からすべてを始めていかないと、3・11の記憶が薄れていくにつれて、結局また「喉元過ぎれば……」ということになってしまうのではないでしょうか。

 この号で何人かの方々が言及している、自民党の石破茂衆議院議員の「原発保持は潜在的核保有」発言はもちろん容認できませんが、まじめな石破さんらしいものだとは思います。しかし、それは「今の社会状況」しか見ていない考え方でもあります。原発が抱え込む膨大な放射性物質を無害化する技術はありません。とすれば、「今の必要性」だけで物事を考え、面倒なことは「後は野となれ山となれ」と先送りし、まだ生まれてもいない子孫に丸投げするのではなく、3・11の災厄の記憶をきちんと教訓化して語り伝え、そのうえで理想的な未来のありようを認識的に想像し、社会をなるべくそれに近づける努力を積み重ねていくことが、3・11後の日本を生きるわたしたちに課せられている責任なのではないか、と思うのです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」4号 2012年3月発行 より】

エッセイアーカイブ㉔ 「偽善者」のすすめ

2021-08-04 20:28:17 | エッセイアーカイブ
これもかなり屈折したタイトルのコラムですが、中身は真っ当です(たぶん)。

 若いころは、「募金」が大嫌いでした。人前でこれ見よがしにいかにも「よい人」であるかのように振る舞うというのは偽善的だ、「善行」は人前でやるものではない、などと思っていました。もちろん、ふだんの生活でもそういう態度です。友人たちと話をするときでも、わざと相手の欠点を声高にあげつらったり、きつい言い方をあえてしたりしていました。それを、「わたしは口が悪いんだ」とうそぶいて開き直り、そのくせ、「わたしは口は悪いが、それは相手のことを思ってのことで、本当はよい人間なのだ」ということを言外に匂わせたりもしていたのでした。早い話が、「偽悪者」を気取っていた、というわけです。 

 で、その結果どういうことになったか。といえば、当然ながら、人間関係はどんどん壊れ、友人もどんどん失い、気がつけばわたしをめぐる状況は、たいそう困ったものとなってしまっていたのでした。 わたし自身、孤独が好きなわけでもなければ人から憎まれることを愛好していたわけでも決してありません。ただ、「偽悪者」というスタイルが格好よい生き方である、と思い込んでいただけなので す。しかし、その結果があまりにとほほな事態を招いたため、わたしはやむなくこれまでの生き方を総決算し、反省する必要に迫られました。自分のどうしようもな い過去を、振り返りたくはないのですが振り返り、叫び出したいような恥ずかしい記憶のフラッシュバックに耐えながら、なんとか世の中でやっていける人間になろうと修正を重ね、とりあえず今日までたどりついています。 

 で、今は思うのです。「偽善だっていいじゃないか」と。たとえそれが、安普請な自分をその実態以上によく見せたい、というつまらない虚栄心や、自分の利益だけを考えたあさましい利己心からの振る舞いであっても、そのことで世の中が多少なりともよくなり、困難を抱えた人のためになるのなら、それは結果としてみれば立派な「善行」です。心の中なんて見ることはできません。たとえ腹の中でどんなどす黒いことを思っていたとしても、エスパーでもない限り他人にはわかりません。だったら、「偽悪者」として生きて、買わなくてもいい恨みを人から買うより、「偽善者」でかまわないから世のため人のためになることをして人々から褒めそやされるほうが、楽しい人生になるに決まっています。褒められてうれしくない人はそういませんから、「善行」 を繰り返すことにもなるでしょ う。するとそのうち「偽善者」だったはずの人が本物の「善人」になる、ということだってあるのではないでしょうか。 

 東日本大震災で、多くの芸能人や有名人が多額の寄付を寄せたり、救援ボランティア活動を行ったりしています。そのことを「売名行為だ」と冷ややかに見る人もいるようです。でも、いいではないですか。その「売名行為」が、 今現在苦しんでいる人々を救うための一助となるのですから。そういう意味で、「偽善」もまぎれもない「善」である、とわたしは思うのです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」3号 2011年4月発行 より】

エッセイアーカイブ㉓ 「一匹狼」のふしぎ

2021-08-03 19:14:03 | エッセイアーカイブ
新潟県高等学校教職員組合の文芸誌「汽水域」2号に書いたエッセイです。前回同様ひねくれたタイトルですが、中身は真っ当(たぶん)です。

 関節リウマチと診断されて、今年でちょうど二十年になります。入院・手術なども経て、今は立派な(?)障害者手帳の保持者となりました。

 組合の本部に勤めている関係で、県外の出張なども比較的多いのですが、そこでありがたく感じるのは、電車やバスの車内で親切な方々にたびたび席を譲っていただけることです。杖を使用しているので、一目で「障がい」があるとわかるためでしょうが、そのような親切に出会うたび、「自分のことしか考えないヤツが多くなった」などと言われる現代社会も、実はそう捨てたものではないなと感じます。

 それにしても、他人からのそうした親切に頼らなければ、わたしなどはもう生きていけないわけですが、それはもう仕方ない、自分にとって必要なことは、たとえ相手にとって迷惑かもしれなくてもお願いするしかない、と割り切って考えるようにしています。
 ただ、こうも思うのです。人口が圧倒的に増え生活を支える技術も多様化した今日、人間にとって必要な物事もその分増加し細分化され、大勢の人々のさまざまな仕事の集積によって社会が成り立っています。だから、人は例外なく誰かの世話になって生きています。「自立して生きる」といっても、自分の生活に必要なさまざまなモノをすべて自力で一から作り上げるのは絶対に不可能です。結局誰かが作ってくれたものを使って、着て、食べて、住んで、暮らしているわけです。

 だからわたしは「一匹狼」を標榜する人に違和感を覚えます。どうやら、組織に属さず独立した生き方をしている人、あるいは、組織に属していても仲間集団に加わらず一人での行動を好む人のことを指す言葉のようですが、自分の「生」にかかわることのほとんどすべてを他者に依存している人が「一匹狼」などというのは、なにか悪い冗談としか思えないのです。

 もちろん、「自立して生きる」ことは社会の成員としてとても重要です。しかし、それと同時に、「自分は一人ではなにもできない存在だ」ということの自覚をもつことも必要なのではないでしょうか。

 「ひとに迷惑をかけてはいけない」と大人は子どもに教えます。それ自体は誤りではありません。しかし、さらに子どもたちには、「自分の力ではどうすることもできないことは、誰でも遠慮なく他人の力を借りていいのだ」ということも伝えたいと思うのです。人は、一人では生きられないからこそ群れをつくり、社会を形成し、助け合いながら命をつないできました。そのことを忘れ、自己の独立性や優位性をことさらに主張して生きるのは、自身の他者への依存に無自覚な、ある種傲慢な態度でしょう。そういう態度が、ひいては社会的「弱者」に対する差別やいじめにつながっていくのではないか、とも感じます。

 わたしは、障がいを得たことによって、いくつかのことを失い、不便を感じることも増えましたが、同時に、人は互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら生きる存在であるということを自覚できるようにもなりました。人間的に生きるということは、つまりはそういうことではないか、などと思ったりもしています。

 というわけで、多くの方々に迷惑をかけながら(笑)できあがった「汽水域」二号、楽しんでいただければ幸いです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」2号 2010年3月発行 より】

エッセイアーカイブ㉒ 百姓魂でいこう

2021-08-02 22:17:16 | エッセイアーカイブ
今回から、新潟県高等学校教職員組合が2009年から12年にかけて発行した文芸誌「汽水域」に書いたコラムを5本アップしていきます。私はこの雑誌の編集委員の一人です。2009年の創刊号エッセイは「『百姓魂』でいこう」。ひねくれたタイトルですが、中身は全うです(と思います)。おヒマな折にでもお読みください。

 わたしは野球ファンなのですが、WBCに出場する日本代表チームの愛称が「サムライジャパン」というのがどうにも気に入りません。なぜ「サムライ」でなければならないのか、ということをついつい考えてしまうからです。

 今の日本では、「サムライ」ということばは完全な褒めことばとなっているようです。苦難に耐え、成果を出した人物は「彼はサムライだ」といって褒め称えられます。反対に、「百姓」ということばは、場合によっては一種の差別語のような扱いを受けることもあります。江戸時代の人口比では、いわゆる武士階級の割合は総人口のわずか七%だったとか。人口の多くを占めたのはいわゆる百姓であったわけです。ですから、「サムライだねえ」と褒められたとしても、その人の先祖が百姓身分であった可能性は極めて高いわけで、なんだかおかしなことになってしまうようです。

 てなことを言うと、「『サムライ』というのは、その人物の人格や実力が優れていることを表すことばなのだから、つまらぬ揚げ足を取るな」と叱られてしまったりもするわけですが、それなら、武士というのは、それほどすぐれた存在なのでしょうか。

 確かに武士は、鎌倉時代から江戸時代にかけての支配階級でした。彼らは、「生産」を百姓にすべて任せ、自らは文字通り一切手を汚さず、「暴力」を背景に一方的に収奪するばかりの存在だったのです。それに対して百姓は、農業をはじめ、さまざまな生産活動に携わってきました。社会に必要なあらゆるものを、百姓は生産してきたといえます。作物を種や苗から育て、収穫する。そのままではなんの役にも立たない素材から、日常生活に不可欠なものを生み出す。そのような百姓が、日本社会を実質的に支えてきました。わたしは、そんな百姓のほうが、武士よりはるかに素晴らしい存在に思えてなりません。

 わたしたちの仕事である教育も、百姓と似たところがあるような気がします。成長の途上にある子どもたちに必要な学力を保障し、子どもたちの「育ち」の手助けをする。教育とはそのような営みです。とすれば、私たちに必要な心構えは、決して「サムライ精神」ではないと思うのです。

 教育で求められているのは、高みからものを見てえらそうなことをうそぶく「サムライ」を育てることではないでしょう。子どもたちが将来どのような職業に就くにしろ、自分の仕事や存在に誇りを持ち、他者の存在に敬意を払うことができる人間となってもらいたい。そのために必要なのが、実は「百姓魂」なのではないか、とわたしは思っています。

 多様な子どもたちの多様な人生の選択肢を保障するため手助けをするこの仕事が「百姓」仕事でなければなんでしょう。教員こそ、「百姓」でなければならない。わたしは自信を持って、そのように言いたいと思います。
 決して「武士」ではないわたしたちが作るこの「汽水域」。楽しんでいただけたなら幸いです。

【新潟県高等学校教職員組合教研誌「汽水域」創刊号 2009年3月発行 より】

おうたのかいオリジナル43曲目の楽曲をYouTubeにアップしました。

2021-08-01 20:01:43 | おうたのかいオリジナル
◆新潟おうたのかい、43曲目「金色の空」をアップします。
◆今回の曲も、2014年に手術とリハビリのため入院したとき作った曲の一つです。例のごとく渋谷珠子さん(たまちゃん)からいただいた歌詞にオブナイが曲を付けました。 
◆伴奏・アレンジはヤマハQY20で、内蔵パターンのピアノバラードを多少いじって作成しています。 
◆不思議で幻想的な絵が浮かぶたまちゃんの歌詞世界に合った曲を付けようと努力しました。ボーカルは置いておいて、それなりの曲に仕上がったのではないか、と自分では思っています。まあ、おヒマな折にでもお聴きいただけるとうれしいです。
◆YouTubeで「#おうたのかい #新潟おうたのかい 」等で検索してみてください。
URLは、 
となります。

◇歌詞を以下にアップします。 

金色の空  詞・渋谷珠子 曲・オブナイ秀一 

夢うつつ 空に立つわたし 
さよならは 金色の光の中で 
ぽつりと落ちる 
 悲しみはゆっくりと満ちる
 そっと手を振る 少し濡れた指先 

愛はるか 一番星光る 
呼ぶ声は 金色の光とともに 
薄れて消える 
 あの人は振り向いて笑う
 まばたきの間に 風がさらう幻 

夢うつつ 赤い星光る 
さよならは 金色の光の中で 
赤く広がる

https://youtu.be/GLjHXUOONrE