新潟県高等学校教職員組合の文芸誌「汽水域」2号に書いたエッセイです。前回同様ひねくれたタイトルですが、中身は真っ当(たぶん)です。
関節リウマチと診断されて、今年でちょうど二十年になります。入院・手術なども経て、今は立派な(?)障害者手帳の保持者となりました。
組合の本部に勤めている関係で、県外の出張なども比較的多いのですが、そこでありがたく感じるのは、電車やバスの車内で親切な方々にたびたび席を譲っていただけることです。杖を使用しているので、一目で「障がい」があるとわかるためでしょうが、そのような親切に出会うたび、「自分のことしか考えないヤツが多くなった」などと言われる現代社会も、実はそう捨てたものではないなと感じます。
それにしても、他人からのそうした親切に頼らなければ、わたしなどはもう生きていけないわけですが、それはもう仕方ない、自分にとって必要なことは、たとえ相手にとって迷惑かもしれなくてもお願いするしかない、と割り切って考えるようにしています。
ただ、こうも思うのです。人口が圧倒的に増え生活を支える技術も多様化した今日、人間にとって必要な物事もその分増加し細分化され、大勢の人々のさまざまな仕事の集積によって社会が成り立っています。だから、人は例外なく誰かの世話になって生きています。「自立して生きる」といっても、自分の生活に必要なさまざまなモノをすべて自力で一から作り上げるのは絶対に不可能です。結局誰かが作ってくれたものを使って、着て、食べて、住んで、暮らしているわけです。
だからわたしは「一匹狼」を標榜する人に違和感を覚えます。どうやら、組織に属さず独立した生き方をしている人、あるいは、組織に属していても仲間集団に加わらず一人での行動を好む人のことを指す言葉のようですが、自分の「生」にかかわることのほとんどすべてを他者に依存している人が「一匹狼」などというのは、なにか悪い冗談としか思えないのです。
もちろん、「自立して生きる」ことは社会の成員としてとても重要です。しかし、それと同時に、「自分は一人ではなにもできない存在だ」ということの自覚をもつことも必要なのではないでしょうか。
「ひとに迷惑をかけてはいけない」と大人は子どもに教えます。それ自体は誤りではありません。しかし、さらに子どもたちには、「自分の力ではどうすることもできないことは、誰でも遠慮なく他人の力を借りていいのだ」ということも伝えたいと思うのです。人は、一人では生きられないからこそ群れをつくり、社会を形成し、助け合いながら命をつないできました。そのことを忘れ、自己の独立性や優位性をことさらに主張して生きるのは、自身の他者への依存に無自覚な、ある種傲慢な態度でしょう。そういう態度が、ひいては社会的「弱者」に対する差別やいじめにつながっていくのではないか、とも感じます。
わたしは、障がいを得たことによって、いくつかのことを失い、不便を感じることも増えましたが、同時に、人は互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら生きる存在であるということを自覚できるようにもなりました。人間的に生きるということは、つまりはそういうことではないか、などと思ったりもしています。
というわけで、多くの方々に迷惑をかけながら(笑)できあがった「汽水域」二号、楽しんでいただければ幸いです。
【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」2号 2010年3月発行 より】