ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

エッセイアーカイブ㉑ 出自を暴くという差別

2021-07-28 17:49:49 | エッセイアーカイブ
新潟県人権・同和センターニュースに書いたコラムはこれが最後。他者の出自を暴くことの差別性を考えました。

 先ごろ行われた東京都議会選挙の結果総括の中で、ある有力野党の党首がその党の国会議員から、「選挙に敗北したのは党首の国籍問題も大きな原因の一つだ」と追及される、という「事件」がありました。その党首は外国にルーツを持っている方ですが、その国と日本との「二重国籍」を、自らの党の議員が問題化したというわけです。その党首は結局、自らの戸籍の一部(国籍部分)を開示させられる、という結果となりました。

 有力な公党の国会議員でもある党首に突如降りかかったこの件は、世間の大きな話題となりました。当然ながら、国会議員に立候補する時点で、選挙管理委員会が立候補者の法的要件として国籍を確認しているわけで、それだけでもこの党首が国籍を問題にされる理由はないわけですし、そもそも、戸籍は個人の最大のプライバシーの一つですから、みだりに暴かれてはならない、と私は考えますが、SNS等のWeb上などでは意外なことに、この党首への批判もけっこう多いことに驚きました。

 しかし、戸籍や出身地を暴くというのは、「鳥取ループ」の例を挙げるまでもなく、差別では典型的な事例です。残念ながら、日本社会には未だに、その人自身ではなく、出自や身元のほうに注目するという差別意識が残っています。だから、差別記載が満載の「壬申戸籍」は閲覧が原則禁止となっているわけです。

 それを、あろうことか人権を最も遵守しなければならない国会議員が、自分の所属する政党の党首の戸籍を明らかにしろ、と言う。これは、解放運動がこれまで懸命に積み上げてきた成果を一瞬にして崩壊させる暴挙であり愚挙である、と指摘せざるを得ません。この事例を見た人々の一部から、「それなりの理由づけがあれば、(気になる人物の)戸籍開示を要求してもいいんだ」と考える人が出てきても不思議はないでしょう。そういう意味で、この事件は将来に重大な禍根を残すことになるのでは、と私は思います。

 ふるさとは、本当は懐かしい思い出とともに語られる大切なもののはずです。しかし、迷信と偏見に基づく不当な差別にさらされ続け「ふるさとを隠す」ことを余儀なくされてきた方々もいる。そうした方々への「認識的な想像力」を、自らの差別意識を再確認しながら持つことが必要なのだ、と、改めて思わされる事件でした。 

【人権・同和センターニュース38号 2017年7月号 より】

エッセイアーカイブ⑳ 文学と差別表現について高校生に語りました

2021-07-27 10:34:27 | エッセイアーカイブ
高校文芸部員の皆さんに、文学と差別表現について語ったお話です。

 高校で長く文芸部指導をやっていることもあり(いやまあ作品の中身の指導などはできませんよ。生徒さんの方が私よりはるかに才能がありますから)、たまに、文芸部員に対して何か話してくれ、という依頼を受けることがあります。この夏も、県内各地から集まった高校文芸部員の研修会で、「文学と差別表現」というテーマで話をする機会をいただきました。

 まだまだ成長過程にある高校生文学者の皆さんは、ともすると、あまり深く考えずに、いわゆる「差別語」や「差別表現」を作品中に使ってしまうことがあります。そのため、「差別語」「差別表現」とはどういうもので、なぜ使ってはいけないのか、という話をする必要が生じるわけです。

 人を差別するためだけに存在している「差別語」や、人を侮辱するために使用する「差別表現」が許されないのは当然のことですし、差別の問題は小学校のときから「道徳」の授業や「総合的な学習の時間」などで、副読本「生きる」シリーズなどによって継続的に学んできているはずですから、文芸部に集う生徒さんたちも、そんなことは言われなくても分かっているとは思います。しかし、実際の生活の中で、実は自らが社会の中で差別者として存在している、ということを自覚している高校生はほとんどいないでしょう。だから、差別の問題を自分自身の問題として考える態度がなかなか身についていないことも確かです。そこで私は、私自身がかつてやらかした差別言動や、私自身が障がい者として受けた差別体験なども話しながら、「他人の痛みや苦しみを、自分に置き換えて想像してみよう」などと語りかけてみたりするのですが、はたしてどこまでわかってもらえているのかどうか。

 ただ、これだけは伝えたい、と思っていることはあります。それは、「差別は、される人はもちろん、する人も確実に不幸にする」ということ、「自分と違う人がいる、ということはとても豊かでおもしろいことだ」ということ、そして、「差別のない社会をめざすことは、誰もが生きやすい社会をめざすということだ」ということです。

 自分の中の差別的部分を見つめることができず、差別や偏見を心に抱えたままでいる人は、その分、自分の人生の「広がり」や「可能性」が狭まります。はっきり言えば、「幅も魅力もない、つまらない人間」になってしまう、ということです。それは、社会も同様です。差別を温存したままの社会は、多くの人が暮らしにくい、息苦しい社会となります。自分と違うさまざまな人がともに存在しているからこそ、人間性も社会も豊かなものになると、私は確信しています。
 前途ある若者たちに、そのようなことをうまく伝えられたら、と、私は心から思っているのです。

【新潟県人権・同和センターニュース2015年11月号 より】

エッセイアーカイブ⑲ 新潟県人権・同和センターニュースコラム⑤ 他者を差別する〝自由〟はあるのか

2021-07-26 12:04:34 | エッセイアーカイブ
いわゆる「ヘイト・スピーチ」に代表される差別表現から、「表現の自由」について考えます。

 イスラム過激派によるフランスの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃・殺傷事件は、いわゆる「テロ」の恐怖を世界中に拡散させたという点で、たいへん重大な事件だと私も思います。人の命を奪うことは、人権侵害の最たるものです。したがって、あのようなテロが決して許されないのは当然です。
 そのうえで思うのですが、それでは、「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を掲載したことには、何も問題がないのでしょうか。

 宗教的に寛容な(というか無節操な)私を含めた日本人にはわかりにくいのですが、一神教社会、とりわけイスラム教社会では、宗教はすべての前提になっています。その社会に所属する人々にとって、自分の存在と宗教は切り離せないものです。「外部」の人間がその宗教を、「言論の自由」を楯にとって一方的におとしめるような(と受け取れるような)表現を行うということに、私は違和感を覚えるのです。

 差別をはじめとして、女性差別や人種差別、障がい者差別などあらゆる差別は、「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」(東京人権啓発企業連絡会HP)です。シャルリー・エブドの風刺画は、そういう意味では「立派な」差別表現なのではないか、と私は思います。

 「フランスには、公共空間から一切の宗教性を排除するという、厳格な政教分離『ライシテ』という原則があり、シャルリー・エブドの風刺画もそれに基づいたものであることを理解すべきだ」という意見もあるようですが、その理屈は、フランス社会に属していない人々、特に、〝西欧社会から抑圧されている〟と感じているイスラム社会の人々には、簡単には理解されないのではないか、と思います。そもそも「風刺」とは、抑圧されている側でなく、抑圧する側に向けられるべき手法なのではないでしょうか。

 「表現の自由」はもちろん大切なことです。しかしそれは、「他者を差別する表現」まで自由に行ってよい、ということではないでしょう。日本でも、在日韓国・朝鮮人などに対しての、ヘイト・スピーチやWeb上での匿名の誹謗中傷、果ては大手出版社からも刊行されている本や雑誌での差別的言辞が横行していますが、そうした表現が「表現の自由」を楯に行われている現状は、やはり看過できません。「人権侵害救済法」の制定が急がれる理由がここにあるのだ、と私は考えます。

【新潟県人権・同和センターニュース2015年3月号 より】

エッセイアーカイブ⑱ 新潟県人権・同和センターニュースコラム⑤ NAMARAは〝お笑い〟で差別を乗り越える

2021-07-25 11:13:14 | エッセイアーカイブ
笑いを武器にして差別をなくそうと活動する、新潟のお笑い集団NAMARAのお話です。

 お笑い集団NAMARA代表の江口さんとわたしが初めてお会いしたのは、一九九六年の冬のことです。

 当時、東京での仕事を辞め、新潟に帰ってきたばかりの江口さんは、真夜中の酒場で、「新潟でお笑いをやりたい」と熱く語っていました。
 その後江口さんは、「有言実行」を貫き、さまざまなイベントを仕掛けては仲間や芸人を募り、やがて、今のNAMARAを築き上げます。

 NAMARAの芸人さんには、いろいろな人がいます。テレビやラジオなどで活躍する芸人さんたちを、多くの方が目にしたり耳にしたりしていることでしょう。
 その中で、最近もっとも活躍している芸人さんとして、「脳性マヒブラザーズ」がいます(※1)

 「脳性マヒブラザーズ」は、「しゃべれない脳性マヒ」のDAIGOさんと、「歩けない脳性マヒ」の周佐さんとの漫才コンビです。お二人の漫才を見聞きしたことがある人もいると思いますが、これが本当におもしろい。NHK・Eテレの「バリバラ」で全国区の芸人となり、最近は、映画にもなかなかよい役で出演するなど、今ノリにノっているコンビなのです。

 最近刊行された新潟高教組の文芸誌「汽水域」五号(※2)のNAMARA座談会で、お二人がNAMARA芸人になる経緯が書いてあるのですが、江口さんは、DAIGOさんが「漫才師になりたい」といって来たとき、「いいよ」と受け入れたそうです。さらに、「でも、君は何言ってるかわからないから、君の言葉を通訳してくれる相方を連れてきて」と言ったら、DAIGOさんは周佐さんを連れてきたのだそうです。

 江口さんは同誌で、こんなことも言っています。
 「どんな人だって、その人に個性に合わせてやれることがある。たとえ、一人ではできなくても、組み合わせによってどうにでもなるんですよ」。

 「障がい者」だから、被差別出身者だから、女性だから、学歴が「低い」から、LGBTだから、外国籍だから……。そのような理不尽な理由で差別・排除される、という厳しい現実が、今のわたしたちの社会にはまだまだありますが、江口さんは、そのような立場の人たちを、「お笑い」という武器で包み込み、その人たちが「自分らしく生きられる場所」を作り出そうとしているのです。

 江口さんとNAMARAの活動からは、差別をなくしていくためのもう一つの道筋が見えるような気がします。

※1 脳性マヒブラザーズは、2018年11月をもって解散しました.
※2 「汽水域」5号は2014年11月発行。発行は新潟県高等学校教職員組合です。

【人権Cニュース32号 2014年12月号 より】

エッセイアーカイブ⑰ 新潟県人権・同和センターニュースコラム④ 真の〝愛国者〟の条件

2021-07-24 14:06:48 | エッセイアーカイブ
下品・卑劣な自称「愛国者」のふるまいから、人権について考えるコラムです

 他の記事がすべて埋まり、いよいよこのコラムを書こうとしていたところに、東京都議会での女性都議へのセクハラ暴言事件というニュースが飛び込んできました。妊娠・出産や不妊に悩む女性への支援を訴えた女性都議に対し、議員席にいた男性都議が「自分が早く結婚したらいい」「(子どもを)産めないのか」などのヤジを浴びせかけたというものです。女性都議の所属する会派の抗議とともに、多くの人々からの批判が殺到したことから、発言者が所属すると思われる政党の幹事長が「早く名乗り出ろ」と促し、数日後にようやく、都議の一人が「自分が言った」と認めて女性都議に謝罪するという事態となりました。

 この事件は、女性に対する差別やセクハラは許されないことであるという常識が、未だに社会に定着していない、という実態を浮き彫りにしました。東京都民の幸福を実現するために先頭に立って働かねばならない都議が、女性たちの置かれた現状を理解せず、このような無神経発言をする、ということが、そのことを如実に物語っています。ヤジを飛ばした都議の本音は、「女が社会に進出してえらそうなことを言ったりやったりするのは生意気だ。家でおとなしく家事と子育てをしていればいいんだ」ということなのでしょう。そういう人物が、よりによって選挙で議員に選ばれてしまうという社会の現状も、同時に見えてきます。

 この事件を引き起こした都議は、当初は「自分ではない」と否定していました。この都議はいわゆる「愛国者」を自負していて、「日本人」であることに強い誇りを抱いている人のようです。私は、日本人のよい性質として「謙譲の精神」「謙虚な態度」があると思っています。「自分が強い・優れている」と声高に言いつのるのは見苦しい行為であり、また、自分の行為に誤ったことがあれば、潔く認めて反省するのがまともな人間のすることだ、と教えられてきました。とすると、この都議は、差別発言を公の場で平然と行い、しかも、その差別性を強く批判されると、少なくとも初めのうちはうやむやにしてごまかそうと考えたわけですから、その態度は私の知っている「日本人の美徳」からはかなり遠い、と指摘せざるを得ません。

 最近の自称「愛国者」には、そういう「下品」で「卑劣」な人が多すぎるのではないでしょうか。真の「愛国者」なら、他者の痛みへの想像力と共感をもつことは必須条件だと思うのですが。人権同和教育・行政がまだまだ必要な理由は、こういうところにもあるのだな、としみじみ思います。 

【新潟県人権・同和センターニュース31号 2014年7月号 より】 

エッセイアーカイブ⑯ 新潟県人権・同和センターニュースコラム③ 自分の中の〝醜さ〟と向き合えるか

2021-07-23 11:03:09 | エッセイアーカイブ
ヘイトスピーチやSNS上での差別書き込みなどについて考えます。

 街頭で在日韓国・朝鮮人や中国人へのヘイトスピーチを繰り返したり、インターネット上で差別的な書き込みをしたりする人々の主張は、早い話が、「日本は中国や朝鮮半島を侵略などしていない。中国への出兵は国際情勢の中でやむを得なかったためで、もちろん〝大虐殺〟などしていない。朝鮮半島への植民地支配にしても、インフラ整備をはじめ、当時の朝鮮半島社会の近代化に貢献しこそすれ、侵略したなどというのは言いがかりだ。日本は悪いことなど何一つしていない」ということのようです。

 ちょっと考えればわかりそうなことですが、「私は正しいことしかしたことがない。間違ったことなど何一つしていない」などと言う人がいれば、「そんなわけないだろう」と、普通は思います。同様に、どんな国だって、間違ったことや他国の迷惑になるようなことを多かれ少なかれしています。大事なのは、そのことをきちんと反省し、同じ失敗を繰り返さないよう努力することだと思うのですが、どうも、自分や自分の属する国のやらかした失敗や過ちを認めることができない、という人が最近日本ではとても増えているようなのです。しかし、自分の持つ「醜さ」と向き合うことができず、社会的に弱い立場に置かれている人々を手っ取り早く攻撃して溜飲を下げるという態度は、まともな人間の取る態度でないことは確かです。

 そもそも、全く残念なことですが、日本社会は今でも、差別をはじめとするさまざまな差別を温存しています。そんな国が、かつて、中国や朝鮮半島の人々に対して一切の差別なく、よいことばかりしていた、などというのは、さすがに無理があるのではないでしょうか。

 ネット社会が発達するにつれ、正しい情報をさまざまな書物などから苦労して集めるより、ウェブから得るほうが手軽で手っ取り早い、と考える人々が増えています。しかしそのことが、正確さよりも、自分にとって都合がよい、あるいは気持ちよい、という情報ばかり受け取る人ばかり増やし、さらにそれが新たな差別を生み出すという現状になっているとしたら、それは即ち「日本社会の知性と人権の危機」と言わざるを得ません。歴史や情報についての地道な啓発・教育を怠ってはいけない理由がここにあるのだと、私は思います。
【新潟県人権・同和センターニュース30号 2014年4月号 より】 

エッセイアーカイブ⑮  新潟県人権・同和センターニュースコラム② 〝違い〟に対する違和感の克服

2021-07-22 14:59:01 | エッセイアーカイブ
 前回に引き続いて、「自らの差別意識」について考えるコラムです。

 「私は今まで差別をしたことなど一度もない」と言い切れる人が実際にいる、と知ったときは、正直驚きました。私などは、心の中に、とても他人に語ることのできないようなドロドロした差別意識を持っているという自覚があるので、「わたしは差別とは無縁だ」と言える人というのは、何か異次元の、私とは全く違う世界で生きている人なのではないか、と感じたわけです。

 しかし、人間社会に生きている以上、差別意識から全く無縁でいられる人というのは、果たして存在するのでしょうか。

 社会を構成しているすべての人間はだれ一人として同じではなく、それぞれの個性を持って生きている以上、〝自分と違う〟人に対する違和感を持ったことがない、という人はいないはずです。その違和感が高じて、「あの人とはどうもウマが合わない」という意識も生じ、ひいては、いじめや差別にもつながっていく、という現実があるわけです。そのような違和感を覚えたことがない、という人は、やはり、かなり鈍感で無神経な人なのだろうと思わざるを得ないのです。あるいは、自分の心の中の〝醜さ〟としっかり向き合うことのできない人だとも思います。そういう人は、重大な差別問題に直面したとき、おそらく何もできないか、むしろ、極端な差別者としての相貌を見せるのではないか、という不安を覚えます。

 克服すべきなのは、そういった「自分とは違う」存在に対する違和感そのものなのではないでしょうか。〝違う〟ことは、決して不都合なことではありません。むしろ、人間社会をより幅広く豊かにしていく原動力です。社会を構成する人々がすべて自分と同じ性格や考えであるとすれば、そちらの方がよほどヘンでしょう。自分の中の、〝違い〟に対する違和感は、紛れもない差別意識だということをしっかりと自覚することが、差別をなくすための第一歩になるのだと思います。

 と、このように考えると、「差別」というのは実に〝不思議〟な差別です。日本社会の成員として本質的に〝違い〟のない人々を、意味不明な迷信もしくは偏見によって差別するわけですから。迷信や偏見に囚われ、それを真に受けて生きている人は、一般的には〝まとも〟な人とはいえませんが、そのような人がけっこう社会の中に大手を振って生きているというのも一つの困った現実です。しかも、そういう人たちがいるために、差別が未だに解消されないわけで、ただ単に〝困った〟では済まされない問題でもあります。

 しかし、迷信や偏見は、正しい理解と学習によって必ず解消されます。だからこそ、社会から偏見に基づく差別ををなくしていくために、学校や社会での同和教育が、きわめて重要な役割を果たさなければならないのだ、ということに、改めて気づかされるのです。

【新潟県人権・同和センターニュース29号 2013年11月号 より】

エッセイアーカイブ⑭  新潟県人権・同和センターニュースコラム① 「私は差別をしたことがない」という人の差別性

2021-07-21 19:21:36 | エッセイアーカイブ
 今回から、新潟県人権・同和センターニュースに書いた編集後記(コラム)をアップしていきます。前シリーズ「文芸部エッセイ」のゆるい内容とは違い、様々な差別事象について、思うところを書いた文章です。おヒマな折にでもお読みください。
 今回は①「『私は差別をしたことがない』という人の差別性」です。


 数年前、とある「障がい」者支援関係の集会に参加したときのことです。さまざまな興味深いお話のあと、主催者がこう問いかけました。
 「今日参加された方々の中で、これまで一度も差別をしたことのない人は、手を挙げてください」。
 わたしは、まさかそのような問いかけにまともに手を挙げる人などいないだろう、と思いました。もちろんわたしも、当然ながら手は挙げませんでした。
 ところが、いたのです。手を挙げた人が。それも何人も。年齢的には四十歳以上の方々ばかりだったと思います。その方々は堂々と、自信を持って挙手しているようでした。
 そしてそのことに、わたしが強烈な違和感を憶えたことは言うまでもないでしょう。わたしは心の中で思いました。(それって、本当に本当?)
     
 残念ですが、差別を筆頭に、今の社会から差別がなくなっているとはとても言えません。それどころか、いわゆる「格差社会」がますます進行し、さらに、「強いものが勝つのは当たり前。負けるのは自己責任だ」という趣旨の主張を声高に言いつのる一部の政治家が大きな力を持つなど、現代社会はむしろ差別拡大の方向に向かっているとさえ言えるのではないか、と思います。
 そんな世の中で、「差別をしたことがない」という人は、本当にいるのでしょうか。そのように言える人は、ほとんど「神様」に近い高潔な人格者か、自分を勘違いしている人のどちらかではないでしょうか。
     
 人間は決して「神様」にはなれない以上、「自らの差別性」からは決して逃れられないのではないか、とわたしは考えます。少なくともわたしは、「自分は差別などしたことはない」などと言える人間ではありません。だからこそ、自分の中に必ず潜んでいる差別性に気づき、それを目をそらさずに見つめながら、厳しい反省を積み重ねる中で、一生をかけて差別を乗り越える努力をしなければならないのではないか、と思うのです。
     
 人権・同和センターの活動にかかわり、さまざまなことを学ばせていただく中で、あらためて、このようなことを思ったのでした。

【新潟県人権・同和センターニュース28号 2013年3月発行 より】

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その36 松乃井オンナの辛口

2021-07-21 18:14:09 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
先日の晩酌酒は、十日町は旧川西町・松乃井酒造場の「松乃井オンナの辛口」。落ち着いた旨辛口の味わいは、しみじみと舌や胃の腑に沁み渡る。派手さはないけど長くお付き合いしたいステキな酒。すばらしい😍



#松乃井酒造場 #松乃井 #松乃井オンナの辛口 #新潟の酒 #新潟の地酒 #十日町の酒 #十日町の地酒

おうたのかいオリジナル番外9曲目をYouTubeにアップしました。

2021-07-19 22:44:07 | おうたのかいオリジナル
◆おうたのかいオリジナルの、YouTubeにアップできる楽曲もそろそろ残り少なくなってきました。てなわけで(どういうわけだか)、今回は、番外編の9曲目をアップします。
◆この曲も、作曲担当のオブナイが2014年に入院していたときに詞も含めて作った曲です。伴奏はいつものようにヤマハQY20でシンプルに付けました。録音・ミックスダウンはTASCAMの古いデジタルMTRです。
◆私の場合、曲作りはいつも渋谷珠子さん(たまちゃん)の詞が先にあってそれに曲を付けるのですが、自分の詞の場合は、この歌もそうですが、曲と詞がほぼ同時進行となります。この歌も2014年の入院中に何とか形にしました。
◆しかしまあ、歌詞世界がもうトシヨリで、若さがないですね。とはいえ、私にしてはよく書けてる方なので、どうかお許しください。
◆てなわけで、お耳汚しとは存じますが、おヒマな折にでもお聴きいただければ幸いです。
(「新潟おうたのかい」「おうたのかい」「オブナイ秀一」等で検索してみてください。IYouTubeのURLは末尾にあります)

◇以下に歌詞をアップします。(たまちゃん詞と比較検討など決してしないで下さいm(_ _)m)
平凡 詞・曲 オブナイ秀一
雲がゆく 青い空を流れる そして消えてゆく
ゆるやかな 時の流れを感じながら 昨日の日々を思う
風はゆく 春のにおい溶かして 通り過ぎてゆく
穏やかな日々 まっすぐ明日を信じた
夢を見ていた
 色あせた写真に 写るものは
 若さだけ信じた 幼い自分
 ありふれたものなど 欲しくはなかった
 わけもなく夢は かなうと信じてた
夏はゆく 燃えた季節 ゆっくり熱を冷ましてゆく
信じたものは 幻のように消えた まるでちぎれ雲のように
風はゆく 夏の気配残して 秋へと流れる
様々なつまずきや別れ 繰り返して
今を生きてる
 古ぼけた扉の 向こう側に
 かなわぬまま捨てた 夢の切れ端
 ありふれた暮らしの 中で手にした
 大切なものを 抱きしめて生きている
 色あせた写真に 写るものは
 夢だけを信じた 幼い自分
 平凡な暮らしの 中で思うこと
 それでもあの日に 戻りたいわけじゃない
秋はゆく 実りの時 すべてが鮮やかな彩り
暮らしの中で見つけた 新しい夢 見てもいいかな

https://youtu.be/JN6WrV-No8A