新潟県人権・同和センターニュースに書いたコラムはこれが最後。他者の出自を暴くことの差別性を考えました。
先ごろ行われた東京都議会選挙の結果総括の中で、ある有力野党の党首がその党の国会議員から、「選挙に敗北したのは党首の国籍問題も大きな原因の一つだ」と追及される、という「事件」がありました。その党首は外国にルーツを持っている方ですが、その国と日本との「二重国籍」を、自らの党の議員が問題化したというわけです。その党首は結局、自らの戸籍の一部(国籍部分)を開示させられる、という結果となりました。
有力な公党の国会議員でもある党首に突如降りかかったこの件は、世間の大きな話題となりました。当然ながら、国会議員に立候補する時点で、選挙管理委員会が立候補者の法的要件として国籍を確認しているわけで、それだけでもこの党首が国籍を問題にされる理由はないわけですし、そもそも、戸籍は個人の最大のプライバシーの一つですから、みだりに暴かれてはならない、と私は考えますが、SNS等のWeb上などでは意外なことに、この党首への批判もけっこう多いことに驚きました。
しかし、戸籍や出身地を暴くというのは、「鳥取ループ」の例を挙げるまでもなく、差別では典型的な事例です。残念ながら、日本社会には未だに、その人自身ではなく、出自や身元のほうに注目するという差別意識が残っています。だから、差別記載が満載の「壬申戸籍」は閲覧が原則禁止となっているわけです。
それを、あろうことか人権を最も遵守しなければならない国会議員が、自分の所属する政党の党首の戸籍を明らかにしろ、と言う。これは、解放運動がこれまで懸命に積み上げてきた成果を一瞬にして崩壊させる暴挙であり愚挙である、と指摘せざるを得ません。この事例を見た人々の一部から、「それなりの理由づけがあれば、(気になる人物の)戸籍開示を要求してもいいんだ」と考える人が出てきても不思議はないでしょう。そういう意味で、この事件は将来に重大な禍根を残すことになるのでは、と私は思います。
ふるさとは、本当は懐かしい思い出とともに語られる大切なもののはずです。しかし、迷信と偏見に基づく不当な差別にさらされ続け「ふるさとを隠す」ことを余儀なくされてきた方々もいる。そうした方々への「認識的な想像力」を、自らの差別意識を再確認しながら持つことが必要なのだ、と、改めて思わされる事件でした。
【人権・同和センターニュース38号 2017年7月号 より】