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エッセイアーカイブの3本目は、新潟東高校文芸部誌「簓」の第2集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。
今でも言いにくい恥ずかしい過去
やたらと個性的な先輩方の、怒濤のような勧誘にのせられて、ついふらふらとM高校文芸部に入部したわたしでしたが、しかし、だからといって、部活動に対する姿勢もいいかげんだったわけでは決してありません。いや、むしろ、小説であろうが詩であろうが俳句だろうが短歌だろうが都々逸だあろうがなんでも書けるし、面白い作品をどんどん書いて、読者をあっと言わせてやるぜ、というくらい自信満々な気分でした。
M高校の文芸部誌『筏』は、ン十年前から続く由緒正しい文芸誌です。ま、わたしが入部したときの先輩方は、前回書いたとおり、いわば「居抜き」で部を乗っ取った面々ですが、誌名はそのままこれまでのものを引き継いだというわけです。やはりM高文芸部出身だった顧問の先生が、「『筏』の名を残さなければオマエらの活動は認めんっ」と言ったとか言わないとか(ちなみに、今もまだその名前が残っているかどうかは定かではありません)。
当時の『筏』は、そのレベルはさておいて、いちおう純文学路線の作品が並んでいました。わたしはそれら先輩方の力作を読みながら、不遜にも、「これくらいならオレにだって簡単に書ける」などと思ってしまうのでした(わははは)。
その不遜さが遺憾なく発揮されたのが、わたしたちの入部早々に行われた合評会でした。『筏』の最新号を、部員や読者が一堂に会して批評しあうという、いかにも文学的な会です。ここでわたしは、よせばいいのに、先輩方の書いた作品を、コテンパンに批判しまくってしまったのです。
そもそも、まだ作品を一作も書いていないぺーぺーの一年生が、そのような批判をすること自体おこがましいのですが、そのときのわたしは、とにかく根拠のない自信を自分に抱いており、「自分以外はみんなバカ」くらいなことすら思っていたような気がします(冷汗)。そんなわけで、とにかく先輩方の作品を、あそこがよくないだの意味がわからんだのこの見解には異論があるだのと、もうむやみやたらにぶった切ってしまったのです。
それでも、懐が深いというかなんというか、先輩方はそんなわたしをあたたかく(というかほとんど珍獣扱いで)見守ってくれたのでよかったのですが、「そこまで言うのなら、きっとオブナイはよほどすごい作品を書いてくるに違いない」というムードが広がったことも確かです。わたしは、自分で自分を後に引けない状況に追い込んでしまったというわけですが、そのことを自分では全く自覚していなかったというのが、当時のわたしの、なんというかダメダメなところでした。今から考えれば。
◇ ◇
さて、高校生活も三か月余りが過ぎ、わたしたち一年生が初めて参加する『筏』作りも始まりました。十月に催される文化祭の前には発行する必要があるので、締切は夏休み明けということになります。なにしろ自信満々なわたしは、「これまで、だれよりもたくさん本を読んできた。当然、文才だってだれにも負けるはずがない。ひとたび原稿用紙に向かい、鉛筆を走らせれば、たちまち傑作が生まれるのだ。わははは」てなことを考えて、悠然と構えていました(ちなみに、当時「たくさん読んだ」という本は、ドイルやクリスティ、クィーンなど、創元推理文庫の数々の洋モノの探偵小説、ハヤカワ文庫のSF小説、北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズ、などなど。純文学など全然読んでいませんでした。ちっとも文学的じゃないですね)。
しかしまあ、締切も迫ってきたので、一つ小説でも書こうかと、おもむろに文具店に赴き、コクヨの四百字詰め原稿用紙を百枚も買い求め、机にそれを広げて、気分はもう小説家です。
ところが。
当初の予定では、鉛筆を原稿用紙に下ろしたとたん、すらすらと傑作が現れてくるはずだったのですが、これがちっとも進まない。いつまでたっても原稿用紙は白いまま。何か適当な言葉を最初に書けば、それに続くストーリーも生まれてくるだろうと思って試みても全然文章は続かない。それでも初めのうちは、そのうちなんとかなるだろう、とゆったり構えていたのですが、締切がどんどん迫ってくるというのに、やっぱり全然書けない状態が続いたのです。
こんなはずではなかった、と焦り始めたのですが、締切の時がやって来たにもかかわらず、とうとうわたしは作品を仕上げることができなかったのでした。
それでも、心優しい先輩方は、「まあ、次にがんばればいいよ」などと慰めてくれたのですが、ただ一人、二年生のN先輩だけは違いました。わたしをにらみつけると、怒気をはらんだ口調でこう言い放ったのです。
「なんでえ、偉そうに人の作品の批判ばっか言いやがるから、どんな作品を書いてくるかと思えば、書けなかっただと? ふざけんなよ、おめえなんか、単なる口先野郎じゃねえかっ」
もちろん、返す言葉などありません。何しろ、言われていることはそっくりそのまま事実なのですから。すっかりへこんだわたしはこのときようやく、自分が才能あふれる人間でも何でもない、単なるバカ野郎であることを、嫌というほど思い知らされちゃったのでした(とほほほ)。
その後、多少は(わははは)反省したわたしは、その次の号から、とにかく小説をひねり出して、卒業までの三年間にに五本書き上げ発表しました。もちろん、どれもこれも初めに思っていたような傑作にはならず、それどころか、今ではあらためて見るのもイヤなほど低レベルな作品(とすらいえないような気もします)しか書けませんでした。それでも、「単なる口先野郎」のままでは終わりたくない、という気持ちで、必死で原稿用紙に向かったのです。
◇ ◇
はっきり言って、高校生のときの自分は、思いだしたくないほど恥ずかしい人間だった、とつくづく思います。「若い」ということは確かにすばらしいことですが、それは一面「バカい」ということでもあります。若くてバカだったころの自分を振り返ると、今でも赤面を禁じえません。そう思うと、「年をとる」ことも、「バカさ」が減っていくという意味では、そう悪くないものだ、と自分を慰める今日この頃のわたしなのです。
新潟東高等学校文芸部部誌「簓」第2集(2006年3月4日発行)顧問エッセイより