◆以前このブログにて「顧問エッセイ」をアップしていましたが、さみだれ的なアップで自分でも整理整頓ができていなかったので、このほど過去のエッセイを削除し、改めて順を追ってアップしていくことにしました。
◆「エッセイアーカイブ」のカテゴリーを新たに起こし、豊栄高校文芸同好会誌・新潟東港文芸部誌、新潟高教組教研誌「汽水域」の編集人コラム、新潟県人権・同和センターニュースの編集後記から、順にアップしていきます。まあ、おヒマな折にでもお読みください。
◆てなわけで(どういうわけだか)、今回は豊栄高校文芸同好会誌「凪」創刊号の顧問エッセイをアップします。
私の「文芸部」物語
オブナイ秀一
私がM高校に入学したのは、一九七七年四月のことです。
信濃川右岸、昭和大橋のたもと近くにあるM高校の校舎は一九三九年に建てられた当時のままの木造で、床は歩くとギシギシと音を立て、その床に塗られていたワックスは、独特のにおいを漂わせていました。それはとても印象が深く、今でも時折思い出します。
一学年は一〇クラスあり、一クラスには四五人の生徒がいました。それが三学年あるわけで、単純に計算すると、一三五〇人の生徒がいたということになります。まあ、マンモス校の部類に入るでしょう。
入学直後のある日の昼休み、私の所属する一年四組の教室に、三年の先輩たち数人がいきなりドカドカと入ってきました。まだ中学生気分が抜けきれない私たちには、その先輩方はたいそう大人っぽく見え、また、恐そうでした。静まり返る私たちに向かって、その先輩方は言いました。
「新入生諸君。われわれは文芸部である。文学を愛好する諸君は、ぜひ文芸部に入りたまえ」。
早い話が、「文芸部」という部活動入部の勧誘であったわけですが、その先輩たちの姿はといえば、およそ「文学」という格調高いものからはほど遠い感じでした。むしろ、応援団か何か、もっとマッチョな部活動ではないか、とその外見からは思われました。その先輩たちは、私たちのとまどいを知ってか知らずか、さらにこう続けました。
「文芸部は、たいへん自由で楽しい部である。春は花見を楽しみ、夏はハイキング、秋はもみじ狩りなど、イベントもめじろ押しである。また、ボウリング、卓球などのスポーツも楽しめるのである。諸君。ぜひ文芸部に入部したまえ」。
それだけ言ったかと思うと、先輩たちはあっという間に教室から出ていき、また隣のクラスで同じことをやっていました。私たちのクラス全員、しばらく茫然としていたのは言うまでもありません。「今のはいったいなんなんだ?」という不審と疑問が、みんなの頭の中に渦巻いていたからです。
だって、「文学的な話」が、全然ないんだもん。
少なくとも「文芸部」なら、「これこれこういう文学的な活動を行なっている」という説明があってしかるべきだと思うのですが、その先輩たちの話には、そういう説明は一切全く皆目さっぱりありませんでした。それでよく「文芸部に入部したまえ」などと言えたものだとは思うのですが、新入生にインパクトを与え、入部を促すのが目的なのだとすれば、それはそれなりに効果はあったのかもしれません。そんな文芸部を「面白そうだ」と思って入部を決めてしまった生徒が、私を含めて五人はいたわけですから。
◇ ◇
文芸部の部室は、三年生用玄関の脇の階段下の小部屋でした。五~六人も入ればいっぱいになるようなその部屋に、いつも一〇人近くの部員がたむろしていました。部員は、三年生が一〇人くらい(部員なのかそうでないのかよくわからない人も含む)、二年生が一人、そして私たち一年生が五人。音楽・芸術系以外の文化系の部活動としては、なかなかの大所帯であったと思います。ただ、女子の部員はほとんどいませんでした。文芸部というと、女子がその活動の中心となっていることが多いという印象がありますし、また実際そうであることも多いのですが、M高校は違いました。ほとんど男。だから部室はいつも、たいそう男臭い部屋でした。その理由は実はものすごく単純で、早い話が、その頃のM高校には、女子がほとんどいなかったのです。
私が入学した年は、同期に四五二人の生徒がいたのですが、そのうち女子は約三〇人だけでした。それは私たちの代だけの特別な現象というわけではなく、とにかく私たちの高校は、女子に人気がありませんでした。
その理由は、もちろん当時からいろいろ取りざたされていました。川向こうに大きな女子高があるから、女子はみんなそこに行く、というのもその一つではありました。しかし、もっとも説得力のある理由は、「とにかく学校が古くて汚い」ということでした。
前述のとおりM高校は、一九三九年に創立した当時のままの木造校舎で、それはそれはレトロな風情の学校でした。今思えば、あの校舎がそのまま現在まで残っていたとしたら、きっとそれなりに人気が出たのではないか、という気もします。しかし、当時の女子学生にとっては、単に「古くさく、ボロッちい」校舎にすぎなかったのでしょう。なにしろ、「女子のトイレの便器の下から、怪しげな手が伸びてくる」などというウワサがもっともらしく語られたりもしていましたし、だいたい、いくら今から二〇数年前とはいえ、トイレがくみ取りで、水洗化されていない、というのは、なるほど公共施設としては問題がありました。確かに女の子は来たくないであろうなあと、私たちもつい納得してしまったものです(この説の信頼性は、後に校舎が新築され、校舎がどんどん新しく変わっていくにつれ、女子生徒がどんどん増え、今では過半数を占めているという事実からも証明されています)。
ともかく、その男臭い文芸部室で、私たちがやっていたことといえば、ひたすらトランプでした。当時、新しいトランプゲームとして一世を風靡していた「大富豪」を、部員一同熱中してやっていたのです。もちろん、文芸部なのですから、文学について語り合うことも当然あるわけですが、それはたいがいトランプをしながらだったことを思い出します。
また、定期考査の後など、時間のゆとりのあるときには、みんなでボウリング場へ赴き、ボウリングを楽しんだりもしていました。私も何回かやっているうちに上達し、一八〇点という高得点をとったこともあります。卓球部が活動していないスキをねらって、卓球をしたりもしていました。部室で作品を書いている人など、だれもいませんでした。
◇ ◇
と書くと、文芸部というのは名ばかりで、単なる遊びのサークルではないかと言われそうですが、こんなノリではありながらも、文芸部の本筋、文芸誌の制作も、もちろんちゃんとやっていました。みんなで締め切りまでに作品を持ち寄り、文芸誌を発行する。それを、年二回やっていたわけですから、なかなかエネルギーがありました。のべつ遊んでばかりで、いつ書いているのかわからないのですが、とにかく作品はできている。私はそんな先輩たちを見て、いつも不思議に思っていました。
つまりは、みんな、とにかく文学が、というか文章を書くことが好きだったのでしょう。たくさんの詩を書く先輩がいました。恋愛小説ばかり書く先輩がいました。文字の半分が漢字という難解な小説を書く先輩がいました。漢詩らしきものを作る先輩もいました。今から思えば先輩たちは、遊びながらも、それを文章を書くためのパワーに変えていたのでしょう。
そして私は、そんな先輩たちのエネルギーに圧倒され、バイタリティーに感心し、見よう見まねで小説らしきものを書くようになったのです。結局、卒業までに五本の小説を発表しました。今改めてそれを読み返すと、とても正視できるようなものではなく、ただただ恥ずかしさが込み上げてくるだけの、箸にも棒にもかからないようなシロモノなのですが、それでも捨てることはできず、今も家の押し入れの奥に大事にしまってあります。
◇ ◇
それから年月がたち、私は生徒から教員へと立場を変え、また高校へと戻ってきました。昨年度から豊栄高校に赴任し、そして今年、縁あってというかなんというか、生徒有志とともに、「文芸同好会」を立ち上げることになってしまいました。
文芸同好会に集った生徒たちは、必ずしも文章を書くのが上手だとか、国語の成績がいいとかいうわけではりません。ただ、自分の思いを表現したい、という気持ちだけは、みんな人一倍持っています。だからこそ、そんな生徒たちが自らを表現できる、そして、自分を伸ばしていける、そんな集まりに、文芸同好会がなればいいなあ、などと思っている今日このごろです。
高校生の時、私は文芸部で、作品を書くだけでなく、いろいろ余計なこともさせてもらいました。そして、いろいろなことを得ることができました。というわけで、豊栄高校文芸同好会に集う皆さんも、自分にとって必要な、そして一生大切にできる、いろいろなものを手に入れられればいいな、と、心から思うのです。
【豊栄高校文芸誌「凪」創刊号(2002年11月発行)より】