ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

エッセイアーカイブ⑦ 音楽とバイトでビンボーも楽し

2021-07-05 17:34:40 | エッセイアーカイブ
エッセイアーカイブの7本目は、豊栄高校文芸同好会誌「凪」の第5集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。

音楽とバイトでビンボーも楽し

 さて、高校卒業後、せっかく採用された安定した職場をあっさり二年で辞め、親からは勘当されながらも、東京の大学(東京大学ではないよ)に勇躍赴いたわたしは、高校の先輩から紹介された四畳一間、風呂なし、トイレ共同、家賃二万二千円なりのアパートに潜り込み、いよいよ花の東京生活をスタートさせたのでした。
 桜の花は全て散り果て葉桜となり、季節は早くも初夏の装いです。新入生ガイダンスも無事終わり、新学年の講義も始まり、N大文理学部のキャンパスは、学部中のサークルが中庭いっぱいにブースを出し、部員を募集していました。わたしも、自分に合ったサークルはないかと、さまざまなサークルの募集活動を眺めていました。途中、屈強な男子学生集団に囲まれ、「体育会空手部で、心と身体を鍛えないか」と誘われたときには、さすがに「鍛えすぎて死んだら困る」と思い、とっとと逃げ出しましたが、まあ、いろんなサークルから声を掛けられながら、「大学というところは、面白いところなんだなあ」と、その時点ではまだまともに講義を受けてもいないくせに、思ったりもしました。
 実はわたしは、そのとき、どうしても入りたいサークルがありました。わたしは高校時代から、ミュージシャンになるのが夢だったので、ぜひ音楽サークルに入部したいと考えていたのです。
 ところが、さすがは日本一巨大なN大だけあって、音楽サークルなど、まるで雨後のタケノコのようにあるのです。その中には、後に角松敏生などを輩出した名サークル「FSA」などのメジャーなものもありましたが、わたしが心引かれたのは、GパンにGジャン、アコースティックギターを抱えて歌っているのは六〇~七〇年代のメッセージ・フォーク(と書いても、今の高校生には分かんないだろうなあ)という集団でした。そのサークル「現代社会派フォークソング研究会(略して社フォ研)」に、わたしは即入部することに決め、気づいたときにはその場でそのメンバーと一緒になって歌っていたのでした。
 はっきり言って、もっと都会風な、早い話がオシャレな音楽サークルは他にもいろいろありました。それなのにわたしはわざわざ、最も古くさくてアヤシゲなサークルを選んでしまったわけです。まあ、正直、新潟の田舎から出てきたわたしは、ファッションなるものに全く縁のない家庭環境で育ったことも相まって、都会の流行や服飾などはまったくわからず、本当にダサダサの若者だったわけで、服装といい髪型といいあまりにも「かっこいい」人たちがやっているサークルには、正直気後れがして、入りたいとは思いませんでした。その点「社フォ研」は、そういった「かっこよさ」はまるでなく、わたしのようなものでもなじみやすかった、というわけなのでした。メインの楽器がアコースティックギターだけ、というのも、当時へたくそなギター引きだったわたしには魅力でした。さらに魅力的だったのは、このサークルからは、このころ私が憧れていた「学生運動」の匂いがプンプンしていた、ということでした。
 そんなわけで所属サークルも決まり、いよいよ楽しいキャンパスライフ、といきたいところですが、なにしろわたしにはカネがありません。何しろ、勤めを辞めて大学に進学するにあたり、親からは勘当されて当然ながら学費・生活費など一銭も出してもらえず、当面は二年の勤めで貯めた一〇〇万円(そのうち四〇万円は入学時の学費で消え、残りはあと六〇万円)と奨学金で生活しなければならないのです。まずはアルバイトの確保が、とりあえずのわたしの最優先事項でした。
 ただ、アルバイトといっても、当時の東京はあまりに多様な職種がありすぎて、自分に向いた職種を見つけるのも一苦労、最初の一月は、所持金を食いつぶすだけの日々でした。そこで、わたしはサークルの先輩・六年生の(医学部生にあらず。あくまで文理学部生)Iさんに頼みました。「何かいいバイト先はないですかねえ」。そのとたん、Iさんの目は、あやしく輝きました。「それなら、いいバイトがあるよ」。Iさんはその日の夜さっそく、わたしをそのバイト先まで連れていったのでした。
 そのバイト先は、大学のあった京王線下高井戸駅から数えて三つ目、新宿からは一つ目の駅「笹塚」にあった飲み屋でした。その日は顔見せということで、仕事は翌日からだと、Iさんはわたしにしきりに酒を勧め、わたしも気分よく酔っぱらいました(二年働いていたので、わたしはこの時点ですでに二〇歳です。念のため)。その酒が、わたしのそれからのアルバイト生活のすべてを決めてしまったのではないか、と今から考えると思います。(後日、Iさんはわたしに「あの店にお前を売ったんだ」と話していました。人買いかアンタは)そのときから、店はいくつか替えながら、わたしの四年半(わははは)にわたる飲み屋アルバイト生活が始まってしまったのでした。
 さて、そこから先の大学生活は、はっきりいってあまりにも忙しい日々でした。朝大学に行って夕方近くまで講義を受け、空いている時間はサークル室で音楽の練習や世間話、夕方になったらバイト先に赴いて調理場やホールの仕事で一二時近くまで。それを毎日繰り返しました。休みの日は疲れてただ寝てるだけ。旅行などもちろん行けず、近場の遊び場にも縁はありません。楽しいキャンパスライフとは、ほど遠い生活でした。
 ですが、だから辛いだけの大学生活であったか、といえば、決してそんなこともありません。好きな音楽をやり、好きな研究(だけ)をやり、バイトで金を稼ぎ、自力で大学に行く。そんな生活は、実はそれなりに楽しいものでした。それはきっと、自分の力で生きている、という実感が得られていたからなのだろうと、今は思います。

【豊栄高校文芸同好会会誌「凪」第五集(2004年11月3日発行)より】

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。