【前回のあらすじ】
世間からの激しいバッシングにもめげず、妻あるバンドボーカリストとの愛を貫こうと決意するベッキー。しかし、ボーカリストは、そのバンド名と同じく、全く不実な男だった。世間からの攻撃が自分に向いてきたのに恐れをなした男は、あろうことか「別れちゃおうかな~」などと周囲にうそぶく。男の裏切りを知らされたベッキーは、深く傷ついた心を抱えたまま、何もかも打ち捨てて夜行列車に乗り込み、冬の嵐が吹きすさぶ津軽半島へと独り向かうのだった……。
……違う。そういう話じゃない。オレはいったい何書いてるんだ。おかしいぞ、手が勝手にヘンな文章を書いてしまう。そうか、これが噂の「自動書記」というやつか。誰がオレに乗り移ってるんだ。ああ、何と恐ろしいぃぃぃぃぃ。
ということを書くから私の文章に説得力が失われるのだ、と改めて反省する今日このごろ。というわけで(どういうわけだか)、前回の続きです。ちゃんとまじめに書きます。
「弱者」を痛めつけるヘイトスピーチ
昨日の「建国記念の日」、新潟県平和運動センター主催の講演会に行ってきました。テーマはタイムリーなことに「ヘイトスピーチとは何か」。講師は、『ネットと愛国』などの著書で知られるジャーナリストの安田浩一さん。非常に興味深いお話をたっぷり伺ってきました(この講演については、別に稿を起こしてご紹介します)。
皆さんご承知のとおり、ヘイトスピーチとは「人種・民族・国籍・社会的出自・性別・障がいなどにおける少数者=マイノリティの集団・個人に対する、その属性を理由とする差別扇動表現」です。安田さんはさらに「不平等・不均衡・非対称的な関係の中で生まれる憎悪」がヘイトスピーチだと言います。つまり、「強い立場」の者から「弱い立場」に置かれている人々に対する、その人の努力では解消できない属性を理由とした差別扇動表現がヘイトスピーチということになります。
ベッキーさんは反論できない「弱い」立場
そういう前提でベッキーさん叩きを考えてみると、けっこういろいろ腑に落ちるのです。ベッキーさんは、マスコミや世間からの攻撃に対して、反論することもできないようです(してもいいのですが、そうするとさらに攻撃が倍返しとなって帰ってきますからね)。となればもう、一方的な攻撃にさらされたまま泣き寝入り、という状況になります。
「有名芸能人はテレビ・ラジオなどのメディアに出演するなどして社会的影響力がある『強者』の立場にいる。だから、そういう人の『不倫』疑惑は、許されない社会悪として取り上げる価値がある」と考える人もいるのでしょうが、その理屈には無理があります。ベッキーさんは確かに有名芸能人ですが、私たちの生活や思想信条に影響を与える活動は何もしていません。あくまで、メディアという舞台で芸能活動をし、私たち視聴者を楽しませることで収入を得て生活している、という人です。前回も書きましたが、そういう芸能人に私たちは、別に倫理やモラルを求めてなんかいません。そういう立場の人が「不倫」したからといって、その人が反論できない状況にあるのをいいことに、鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立て攻撃するというのは、もう完全な「弱いものイジメ」であり、ヘイトスピーチと全く同じでしょう。「芸」そのものに対する批判なら、芸能人は甘んじて受けるべきですが、法に触れてもいない、犯罪行為でもないことについて、いちいち騒ぎ立て攻撃するのは、やはり私はおかしいと思います(ただし、芸能人でも、例えばニュース番組などに継続的に出演していて、政治・社会の事象に対して意見を述べているような人は、その発言が社会的影響力を持つことになりますから、ベッキーさんと同列に扱うことはできないのは当然です)。
ベッキーさんを叩けるほど清廉な人はいるのか?
あえて言いたいのですが、ベッキーさんの「不倫」を「許せない」などと攻撃している人たちは、日々そんなに「マジメ」で「清廉」な、「間違ったこと・いけないこと」などしない人生を送っているのでしょうか? そんなわけはないでしょう。少なくとも私は違います(とほほ)。そういう「安普請」な人間が、えらそうに、弱い立場の人のしくじりを攻撃しまくるのって、なんだかとっても気恥ずかしい。厳しい批判の矛先を向けなければならない人は、別にいるでしょう。「人を呪わば穴二つ」と言います。自分にかかわりのない他人のことをいちいち気にする前に、社会をよくするために大切なことは何か、ということを多少なりとも考えつつ、自分の生き方をもう少しちゃんとしたものにしたい、とあらためて思う今日このごろです。
世間からの激しいバッシングにもめげず、妻あるバンドボーカリストとの愛を貫こうと決意するベッキー。しかし、ボーカリストは、そのバンド名と同じく、全く不実な男だった。世間からの攻撃が自分に向いてきたのに恐れをなした男は、あろうことか「別れちゃおうかな~」などと周囲にうそぶく。男の裏切りを知らされたベッキーは、深く傷ついた心を抱えたまま、何もかも打ち捨てて夜行列車に乗り込み、冬の嵐が吹きすさぶ津軽半島へと独り向かうのだった……。
……違う。そういう話じゃない。オレはいったい何書いてるんだ。おかしいぞ、手が勝手にヘンな文章を書いてしまう。そうか、これが噂の「自動書記」というやつか。誰がオレに乗り移ってるんだ。ああ、何と恐ろしいぃぃぃぃぃ。
ということを書くから私の文章に説得力が失われるのだ、と改めて反省する今日このごろ。というわけで(どういうわけだか)、前回の続きです。ちゃんとまじめに書きます。
「弱者」を痛めつけるヘイトスピーチ
昨日の「建国記念の日」、新潟県平和運動センター主催の講演会に行ってきました。テーマはタイムリーなことに「ヘイトスピーチとは何か」。講師は、『ネットと愛国』などの著書で知られるジャーナリストの安田浩一さん。非常に興味深いお話をたっぷり伺ってきました(この講演については、別に稿を起こしてご紹介します)。
皆さんご承知のとおり、ヘイトスピーチとは「人種・民族・国籍・社会的出自・性別・障がいなどにおける少数者=マイノリティの集団・個人に対する、その属性を理由とする差別扇動表現」です。安田さんはさらに「不平等・不均衡・非対称的な関係の中で生まれる憎悪」がヘイトスピーチだと言います。つまり、「強い立場」の者から「弱い立場」に置かれている人々に対する、その人の努力では解消できない属性を理由とした差別扇動表現がヘイトスピーチということになります。
ベッキーさんは反論できない「弱い」立場
そういう前提でベッキーさん叩きを考えてみると、けっこういろいろ腑に落ちるのです。ベッキーさんは、マスコミや世間からの攻撃に対して、反論することもできないようです(してもいいのですが、そうするとさらに攻撃が倍返しとなって帰ってきますからね)。となればもう、一方的な攻撃にさらされたまま泣き寝入り、という状況になります。
「有名芸能人はテレビ・ラジオなどのメディアに出演するなどして社会的影響力がある『強者』の立場にいる。だから、そういう人の『不倫』疑惑は、許されない社会悪として取り上げる価値がある」と考える人もいるのでしょうが、その理屈には無理があります。ベッキーさんは確かに有名芸能人ですが、私たちの生活や思想信条に影響を与える活動は何もしていません。あくまで、メディアという舞台で芸能活動をし、私たち視聴者を楽しませることで収入を得て生活している、という人です。前回も書きましたが、そういう芸能人に私たちは、別に倫理やモラルを求めてなんかいません。そういう立場の人が「不倫」したからといって、その人が反論できない状況にあるのをいいことに、鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立て攻撃するというのは、もう完全な「弱いものイジメ」であり、ヘイトスピーチと全く同じでしょう。「芸」そのものに対する批判なら、芸能人は甘んじて受けるべきですが、法に触れてもいない、犯罪行為でもないことについて、いちいち騒ぎ立て攻撃するのは、やはり私はおかしいと思います(ただし、芸能人でも、例えばニュース番組などに継続的に出演していて、政治・社会の事象に対して意見を述べているような人は、その発言が社会的影響力を持つことになりますから、ベッキーさんと同列に扱うことはできないのは当然です)。
ベッキーさんを叩けるほど清廉な人はいるのか?
あえて言いたいのですが、ベッキーさんの「不倫」を「許せない」などと攻撃している人たちは、日々そんなに「マジメ」で「清廉」な、「間違ったこと・いけないこと」などしない人生を送っているのでしょうか? そんなわけはないでしょう。少なくとも私は違います(とほほ)。そういう「安普請」な人間が、えらそうに、弱い立場の人のしくじりを攻撃しまくるのって、なんだかとっても気恥ずかしい。厳しい批判の矛先を向けなければならない人は、別にいるでしょう。「人を呪わば穴二つ」と言います。自分にかかわりのない他人のことをいちいち気にする前に、社会をよくするために大切なことは何か、ということを多少なりとも考えつつ、自分の生き方をもう少しちゃんとしたものにしたい、とあらためて思う今日このごろです。