江戸時代の山陽道について調べてみました。 当時の地図など、余り詳しくは分りませんが、藤井俊先生の「吉備津神社」(岡山文庫52)によると、江戸中期ごろになると本陣、脇本陣が一軒づつ置かれ、はたごの数も70軒,その他茶屋も相当あったようです。飯盛り女も相当数いたようです。今はその面影は何処を捜してもなく、ただ、道に沿って続く軒の低い家並の中に、往時の面影をしばしとどめているに過ぎません。吉備津神社の付近の宮内と並んで、江戸時代の山陽道の中で、一番隆盛を極めていた宿場町であったということです。
この板倉の町には、当時芝居小屋が、例の「あたごさん」の下手に立てられていたと言う事です。この芝居小屋の火災予防のために、この祠が作られたのではないでしょうか。
このあたごさんの上手の家を最近になって壊したところ、軒垂木にやけだだれた跡が見られたと、その屋のご主人が言っておられました。
古老の話ですと、この地にはもう一軒の芝居小屋もあったと言う事です。宮内にも一軒あったそうですから、この地がいかに繁昌していたかがうかがえると思います。