昨日書いた「本当でしょうかね????」という一文に対するお叱りのメールを、筆敬氏から頂戴しました。
「なんべん いやあ わかるんけえなあ、もうちいたあ ようしらべて かかにゃあ おえりゃあへんが」と、ちょっとあきらめ加減のメールです。
昨日の私の例の「簸川は旭川だ???」という事についての反論です。筆敬氏は、その論拠として「おめえは、土肥経平がけえた『「寸簸之塵』をみたこたあねんか」と、その本にちゃんと「簸川」は朝日川の事だと説明している。それを「本当でしょうか????」とは何だ。といわれるのです、そしてご丁寧にも、その一文を送ってくれました。
それによると、
「簸川は此の国岡山の府下を流るゝ川也。大川とも西川とも御野川ともいひて、今朝日川ともいふ。簸川は古名なり。」
と書かれています。
神代の事として言い伝わっている素盞鳴尊が大蛇を斬ったのは、この備前にある簸川、即ち、現在の旭川だと書いてあるのです。此の時、素盞鳴尊が使って大蛇を退治した剣も、備前国石上布都霊神社にお祭りしてある、と、いうのです。経平は、「ひかわ」と呼ばれていた川は、事実、備前にも出雲にもあるが、備前の方が「簸川」と書いて、出雲にあるのは「肥川」と書き現わされているとして、だから、大蛇退治が行われた「簸川」は備前でなければならないと断定しています。
更に、彼は、その「簸」という字が使われた理由として、その昔、吉備の国は「寸簸」と書いて「きび」と読ませていて、元々、そこを流れる大河ですから、「寸簸川」と書いていたのですが、いつの間にか、その「寸」が省かてれ「簸川」となったのだと。又、此の外、そなん事本当かいなと思わせるような面白い論拠となる説を、この本にまことしやかに書いています。
それは、古事記には「備前(きびのみちのくちの氷川(ひかわ)」と書かれているが、あれは稗田阿礼が聞き誤って「氷川」と書いたのであって。本来は、この「簸川」でなくてはならないのだ。と
そのように書いて結論として、
「是にても、此簸川は備前にて出雲にあらざる事思うべき也。簸川・肥川とて両国におなし唱の川あるより、かくは神代巻に混じしるし給ふなるべし。」
と書かれてありました。
それにしても毎度ですが、このメール氏 なんでも ようしっとりんさるなあ!!!!!ちょっと待てよ。・・・・・・・・・・では、メール氏がなんとも言ってこなかったのを見ると、あの吉備の酒のこたあ あれでよかったんかいなあー