仁徳天皇と黒日売との悲恋について累々と綴づてきましたが、そのヒロイン黒日売のお墓だと言い伝えられている古墳について、司馬江漢の「画図西遊譚」に説明が出ています。
その説明には
「十五六間ばかり山に登れば穴あり。二間ほど内に入りて八間四方天井石一枚にて、其の左右も一枚なり。穴の高さ七八尺。是より国分寺五町あり」と、あります。
そこで、早速、この黒姫塚だと言い伝えられている山手の国分寺のすぐ傍にある古墳に行って写真を写してまいりましたので、下の写真と見比べながら読んで下さい。
江漢先生のお書きになった図や説明よりもやや違ってはいますが、旅行記なんてものは、芭蕉の奥の細道でもそうですが、大体にして大まかな描写が普通なのではないでしょうか。前の造山古墳でもそうです。
そんなんことは兎も角も、まあ、この古墳は、説明板によりますと、6世紀後半に作られたものだそうです。それに対して、黒日売の生きた時代は、5世紀の中ごろ(古事記)だと言われていますから、この古墳が作られた時代と黒姫の生きた時代とは、大体100年~150年位の差異があります。(王代一覧より)
そんなことが原因になっているのでしょうか、この古墳に付けられていた「黒姫塚」という名は、何時しか消えてしまって、現在は、一般には、「こうもり塚」と呼ばれています。山手案内の為の道標板にも「こうもり」という字があちらにもことらにも見ることが出来ます。