私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

熊次郎の和歌を

2012-10-21 10:47:53 | Weblog

 富くじと芝居の入場券のセットで、多くのお金をこの宮内に落とさせたのですが、ただ、それだけであったなら、芝居小屋が開かれている宮内の春秋の大市の時にしか人は集まりません。常に、この宮内に人があふれるためには、どのような企画をすればと言うことを熊次郎は考えます。そして考え付いたのが、前に挙げた、吉備津神社の祭神吉備津彦命の祖先「天児屋根命」と同じ血筋と言う関係を持ち出して、強引にもと言った方がいいと思われるのですが、京の九条関白家と深く関わりを持って、ある熊次郎独特の企画をもくろむのでした。
 そこら辺りの入れ智恵を誰がしたのかは明らかではないのですが、此の熊次郎の学問では到底及びもつかないことではなかったのかと思われます。推測ですが、当時の宮司、藤井高尚の書物「松の落葉』を目にした熊次郎独自の判断ではなかっただろうかと私は思っています。なお、此の熊次郎は、相当高度な読み書きができました。

 熊次郎が詠んだとされる歌が残っています。
        もとの座に  世からもなほる 三番叟
                       よろこびありや 所繁昌

 これを読むと、当時の宮内では ヤクザの親分まで、当たり前のように平気で和歌を詠んでいたのです。これも高尚の手紙からも伺われるのですが、宮内では、相当の文化人だけではなしに、下層な芸者や遊女と言われた人々の間にも、日常の生活の中に気軽に和歌が読まれていたということです。それくらい、この宮内の文化は高等であったのだと今でも語り草になっているのです。だから、やくざの熊五郎親分が作った歌だとしても、この宮内に有っては、そんなに右往左往して驚くべきことではなかったのです。

 さて、この岡田屋熊次郎のもくろみとは、宮内をより<所繁盛>させる為に設けた「宮内の常打ちバクチ場」作りなのです。芝居とはまったく関係なく、太古の昔から続いている人間のギャンブル好きという特性を巧みに利用した私設「博打場」を作くることだったのです。そうすることによって、宮内は、朝から、毎日、決まって、大っぴらに賭博が開けて、芝居がなくても、多くの客をこの宮内に集めることが出来るのです。でも、賭場と言うのは博打をする所ですから、当然、当時でも、ご禁制です。官憲の目が行き届いて、開く事すらできません。それを熊五郎は可能にしたのです。関白九条家と結び付いて、幕府や庭瀬藩などの官憲の目を気にせずに堂々と賭場を開けたのです。
 なお、高尚の家とこの熊次郎の家は一町も離れてない所に有ったにもかかわらず(ほんの数軒の家を隔てているに過ぎませんが)高尚はこの熊次郎の賭場について、見て見ぬふりをしていたのではと思われます。その社会悪について彼の書物でも何も触れていません。ある程度、それを社会の必要悪として容認していたのではと思われます。それに対して、熊次郎は、そのような高尚に対して、その胸中に有る想いを存分に知っていたのでしょうか、「悪いことは分かっていながら見過ごしてくれているな」という感謝心を持っていたのではと思います。そんな熊次郎の思いは、吉備津神社の回廊沿いにある石燈籠にも表れています。沢山ある石燈籠の中に熊次郎の寄進した燈籠はありませんが、彼の娘の寄進したものは見ることができます。熊次郎が吉備津神社と言うより、此の高尚という人に対する尊敬の念が現れた結果ではないかと思われるのです。敬愛していたのだと思います
 この吉備津神社の境内にはないのですが、その代わりといっては何ですが、吉備津神社領ではない片山と東山の境には彼が寄進した大きな石燈籠が、でんと、その姿を大空に向けて建てられています。その燈籠を目にすると、此の熊五郎と言う人の人柄の大きさといいましょうか、そのこころを、何か無言で、指し示しているようにも思われるのですが???

 「どうしてこんな所に熊五郎の石燈籠があるのだろうか。何故、吉備津神社の中にはないのだろうか」と、問いかける人が多くいますが、その理由を私は何時もこのように説明しています