元祖 ひまうま本舗

「ひまうまの世間は、鬼ばかり?」後身blog

この世とあの世の間。

2024-04-28 07:30:53 | 独り言




臨済宗大徳寺派の僧である一休宗純は言った。「自分はこの世とあの世の間で、一休みしているだけなのだから、何があろうと我が道を行く」と。確かに、この世とあの世の間が現世なれば、そう言う事になる。なればその間位は楽しく暮らしたい。その「楽しく」が趣味だが、レコード鑑賞が高じてオーディオに走り、大した装置は無いが、だからこそ工夫に懲り、益々レコードの収集にのめり込んだ。SP盤の収集を始めたのも、そもそもは、元の音が聴きたかったからだ。正確なプロセスを経て再生された、その音は生録特有のゴリゴリした質感で魅了された。テープがマスターになる前のカッティングとは質感が違うのだ。その後は磁気録音を見直し、カセットデッキの修理(整備)をするようになった。こちらのblogで報告するような現状だ。此処、最近は、必要に迫られたので、8ミリ映写機の修理を始めたが、これとて今までの蓄積が無ければ、今はない。何事も積み重ねなのだ。と思うのも、小生の前職(本職?)が技術屋だったので尚更だ。尽きない趣味は、そんな蓄積のおかげだ。



唐突だが、中日スポーツに「松尾貴史が河村たかし市長の「祖国のために命を捨てるのは道徳的」発言を名古屋弁で批判」てな記事があった。"名古屋弁で批判"と言うのが如何にも芸人(声帯模写)ぽいが、どうも戦後の日本人は、あのGHQ政策の後でも、度重なる中華系や朝鮮系左派の政治プロパガンダで洗脳され、【愛国心】が相当歪められたものになっているようだ。その記事では、河村たかし市長が「(命は)捨てない方がよい。誤解してもらってはいけない。『捨てよ』とあおっているわけではないが、残念ながら戦争は起こる」と釈明した事も報じているが、どうもソッチ系の人には、わざわざこう説明をしなければならないもどかしさを感じる。そこで勘違いをしてはならないのは、「国家在っての(国民の)命 」だと言う事。それこそ戦争が起こり、占領でもされたら命(財産)の保障はない。だからこそ守る。そこでもし、「家族が敵兵に襲われたらどうする?」てな事も否定出来ず、その時は誰しも家族を救おうとするのではなかろうか?その最終地点が国家だ。国家の安全保障が揺らぐと国民が守れなくなる。そこで国民が逃げてどうする?有事になったら海外逃亡も出来ない。それらの保障が敵国に封じられたら何も出来ないからだ。「命を掛ける」とは、その時だからこそなのだ。「無条件降伏をして、白旗振ればいいんだ」なんて能天気な事を言った映画監督が居るが、そこに自身の【命】も関わるのは頭に無いのか?即ち「無条件降伏」とは、国家のあらゆる権利を失うと言う事なのだ。この記事は「朝日新聞デジタルによると、河村市長は22日の会見で、空襲で名古屋城天守が焼失した5月14日を「なごや平和の日」に定める意義を問われ」た際とある。尚、敵国に協力した工作員は、有事になった途端に殺される。それは祖国を簡単に裏切る者は、敵であっても同じで、結局は自分の命が惜しいだけなのだ。なので重い話が出来ず、軽薄な印象しか残らないのだろう。



松尾貴史が河村たかし市長の「祖国のために命を捨てるのは道徳的」発言を名古屋弁で批判
https://news.yahoo.co.jp/articles/efd1282707668330d1013f7da37c7c6a09186803

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