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日本人は正しいか――集団的自衛権を考える⑤

2015-02-21 01:39:49 | 政治・経済
 集団的自衛権について考えるシリーズの第五回である。今回は、はじめに一つの思考実験をしてみたい。
 いま、二人の男が村の広場でむかいあっているとする。
 お互いに、銃を持っている。
 以前から畑の境のことで揉めていて、もしかして相手が撃ってくるかもしれないと考えている。
 このときに、実際に銃の引き金が引かれるのを防ぐもっとも有効な方法はなんだろうか?
 ひとつは、自分の優位を主張することだ。俺の銃のほうが性能がいい、俺のほうが射撃の腕がある、お前が撃てば、お前も確実に死ぬ――などである。だが、相手がそれを納得してくれるという保証はない。その主張が真実味を持つためには、日ごろから高性能の銃を手に入れ、射撃の腕を磨いておく必要がある。さらに、たとえ自分の優位が事実であったとしても、相手がそれを正しく認識してくれるかどうかは別問題である。相手は相手で自分の優位を主張するだろうし、本当にそうだと信じているかもしれない。ここに面子といったことがからんでくるともっと厄介で、自分のほうが劣っているとわかっていても、引き下がれずに挑みかかってくるかもしれない。こういったことを考えると、自分の優位を主張するというのはあまりよい方法ではない。
 では、仲間を集めておくというのはどうだろうか?
 いざ争いになったときには、助っ人にきてくれるようにあらかじめ隣近所で自分と近しい関係にある人や利害の一致する人たちに頼んでおくのである。衝突が起こりそうになると、その仲間たちが、加勢するぜといってやってくる。そうしておけば、相手もうかつに手を出せなくなるかもしれないし、戦いになっても勝てる可能性が高まるかもしれない。
 だが、この方法もあまりよいものではない。こちらが隣近所に声をかけていれば、相手も当然同じことをするだろう。その結果、衝突が起こりそうになると、互いのもとにわらわらとガンマンが集まってくることになる。これでは、おさまるものもおさまらないというものだ。
 のみならず、このやり方はもう一つの問題をはらんでいる。それは、世の中はギブアンドテイクだということだ。なにかあったときは助けてくれ、と頼めば、当然その頼まれた相手も同じことをこちらに要求するだろう。それを受け入れれば、彼が村の誰かと衝突しそうになったときには助太刀に行く義務を負う。近しい関係にある隣人が攻撃されたら、そこに駆けつけなければならない。この一人にしてみれば、自分の義務が増えるといういすぎないが、みんなが同じことをしはじめると一人の問題にとどまらない。結果として、この村全体がきな臭くなってくる。どこかで二人の衝突が起こりそうになると、そこへそれぞれの仲間であるガンマンたちがやってきて、集団と集団のにらみあいになってしまう。互いの仲間が増えれば増えるほど、大きな衝突の起きる可能性は増していく。わかりやすく、仮に村にA、B、C、D、Eという五人がいて、それぞれF、G、H、I、Jと対立しているとしよう。A~Eの五人が仲間になって、誰かが攻撃を受けたときには加勢に行くという約束をし、それに対抗してF~Jの五人も同様の約束をしたとする。この場合、それぞれのメンバーが戦闘に巻き込まれる可能性は単純計算で5倍になる。
 いうまでもなく、以上の話は国家の安全保障のたとえである。
 二つの国家が緊張状態にあるときに、いったいどうやったら実際の衝突を回避できるのか、という問題だ。二つ目の例が、集団的自衛権と呼ばれるものだ。それで衝突を回避できればいいが、そうなる保証はどこにもない。先の例に関して、五人がそのような約束をすることで抑止力が生じるから単純に衝突の可能性が5倍にはならない、という人もいるかもしれないが、私にはそれも疑問だ。以前の記事「ローマ人は正しいか――集団的自衛権を考える①」でも書いたが、歴史をみれば、同盟を結んでけん制しあうというやり方では現に戦争を防ぐことができていない。抑止力云々というのは、人間がそれを正しく評価して合理的に振舞うとうい前提があれば成り立つかもしれないが、残念なことに人類は愚かだ。特に集団になったときにはそうで、理屈で考えて正しいようには行動しないことが非常に多い。また、これも以前書いたことだが、お互いに同盟を結ぶというやり方は、実際に戦闘が起きたときには、より大きな被害をもたらすだろう。二人の撃ち合いよりも、集団で撃ち合ったほうが被害が大きくなるのは自明である。はじめは二人の人間の衝突だったのに、そこへ加勢するぜ、と次々にガンマンたちがあらわれ、互いに銃撃戦をはじめる。そして気がつけば、最初の二人以外の者たちの戦いのほうがむしろ激しくなっている。これは、英雄譚でもなければ悲劇ですらない。もはや喜劇だ。
 では、どうすれいいか?
 引き金が引かれることを防ぐための、私が考える最善の方法は、次のようにいうことである――「私のほうから撃つことは絶対にない。うちの家訓でそう決まっているし、実際にこれまで自分の側から撃ったことはない。だからそっちも銃を降ろせ」と。私は、これにまさる方法はないと考える。ちなみに、“最善”というのは、これで必ず防げるという意味ではない。これでなお撃ってくるような相手なら、ほかのどんな手段をとろうと結局撃ってくるという意味である。それで撃ってくるほど好戦的な相手であれば、こちらの装備がいかにすぐれていようが、仲間がどれだけいようが、おそらく攻撃してくる。そういう意味で、「こちらからは撃たない」ということをはっきりさせる以上の安全保障はない。
 そして、勘のいい方はもう気づいておられるだろうが、これがまさに戦後の日本のあり方なのである。憲法9条というのは、そういう意味を持っている。逆説的かもしれないが、こちら側から攻撃することはない、ということこそがもっとも有効な安全保障なのだ。それは、決して地政学的に安定しているとはいえないこの極東地域で日本が半世紀以上にわたって戦争に巻き込まれなかったという歴史が証明している。
 そして、ここで重要なのは、実際に自分の側から撃ったことがないという事実である。そうでなければ、信用ができない。たとえばアメリカやイスラエルのような国が「こっちから攻撃はしないから核開発をやめろ」といったところで、説得力がない。実際に憲法9条を守ってきたからこそ、憲法9条に意味があるのだ。こういうと、日本が戦争に巻き込まれなかったのは米軍が駐留していて抑止力が働いているからだという人がいるかもしれないが、私にいわせればまったく逆である。米軍がいる“から”どころか、憲法9条があるからこそ、米軍が駐留している“にもかかわらず”日本は戦争をせずにすんでいるというのが私の見方だ。
 集団的自衛権の行使を認めるということは、「むこうから攻撃をしてくることはない」という信用を失っていくことにつながると私は考える。それは、長い目でみたときにはむしろ日本の安全保障にとってマイナスではないか。