以前の記事で少し触れたが、「放送法の遵守を求める視聴者の会」なる組織が新聞に意見広告を載せた。
《私達の「知る権利」はどこへ?》と銘打ったこの広告は、TBS・NEWS23の岸井成格キャスターを名指しで批判している。岸井氏が番組内で安保法案について「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」とした発言が、「政治的に公平であること」を求める放送法第4条に抵触しているというのである。
そこで、今回は岸井氏を擁護する立場から記事を書きたい。
先に断っておくが、私は必ずしも岸井氏推しではない。むしろ、以前はかなり批判的だったといっていい。
私は夜のニュースは23派で、以前はサンデーモーニングもよくみていたので、彼のことはずいぶん前から見てきているつもりだが、その感想からいわせてもらえば、岸井氏は決して舌鋒鋭いタイプのジャーナリストではない。
政治部の記者は政治家に対して甘くなるとよくいわれるが、私は岸井氏をその代表格とみていた。彼のコメントは総じて政治家のスキャンダルや失言などに対して抑制的で、ときには擁護しているようにさえ聞こえ、しばしば生ぬるいと感じさせられたものだった。
しかし、たしかに最近の岸井氏は、厳しく安倍政権を批判している。特に、安保法制や原発再稼働についてはその傾向が顕著だ。
だが、私が思うには、それは岸井氏が変わったのではなく、“政治家に対して甘い”ジャーナリストでさえそういう厳しいコメントをせざるをえないぐらいに今の政治が劣化しているということなのではないだろうか。岸井氏を長いこと見てきたのと同様に、私もこの十数年間ぐらい人並みに政治報道に触れてきたつもりでいるが、その個人的な感覚からしても、いまの政治状況は本当にひどい。信じられないようなことが次々に起きている。そういう状況に、岸井氏も辛口のコメントをせずにいられないということなのではないだろうか。
また、件の意見広告では、各局のニュース番組における賛成意見と反対意見の比率を計算し、ほとんどの局で反対派の意見が圧倒的に多いことを批判し、「偏った情報しか与えない報道姿勢は、視聴者の「知る権利」への冒瀆ではないでしょうか?」ともいっている。
この“偏っている”という批判に対しては、もし仮にいまヒトラーが独裁政権を作ろうとしているとしたら、それを批判するべきでないのか、と私は問いたい。もし「中立」を保てなくなるから批判をしてはいけないというのなら、ヒトラーがせっせと独裁体制を作っているのを、黙ってみているしかないということになる。“中立”という言葉が悪政の隠れ蓑になってはならない。安倍政権がこの国の民主主義や立憲主義、平和主義を脅かしていると多くの人が考えている。そのように考えるならば、メディアは臆することなく堂々とそれを批判するべきだ。
さいわいなことに、言論の自由は安倍総理がもっとも重視する権利である。
今年「マスコミを懲らしめる」発言で問題となった文化芸術懇話会での議員らの発言を、安倍総理は「言論の自由」という言葉を使って擁護した。あの発言が言論の自由ということで許されるのなら、もう誰がなにをいっても完全に自由である。メディアは遠慮なく安倍政権をガンガンに批判するべきだろう。
もう一つ、偏向という批判に反論するために、一つの思考実験をしてみたい。
もし仮に、政府が「総理大臣は自由に人を殺してもいい」という法案を国会に提出したら、どうだろう? 99%のメディアは、それを批判するだろう。では、その批判は中立を侵したことになるのだろうか? どう考えてもノーである。そんな法案は批判するのが当然だ。
これは極端なたとえだが、要は、法案が批判されるのはその中身が無茶苦茶だからなのだ。政府が無茶苦茶な法案を出して無茶苦茶な審議をしているから圧倒的多数のメディアが批判しているのであって、それは程度の差はあれ「総理大臣は人を殺していい法案」と同じことである。現実の安保法案についていうと、これだけメディアの報道に“偏り”があるということは、それだけ無茶苦茶さのレベルが高い――つまり、「総理大臣は人を殺していい法案」に近い――ということであって、そこを勘違いしてはならない。問題の「放送法遵守を求める視聴者の会」の広告というのは、政府が「総理大臣は自由に人を殺してもいい」という法案を出してきて、みんなが当然のごとく「いやいや、それはおかしい」といっているのに対して「中立じゃない」と文句をつけているようなものなのである。しかも、その呼びかけ人として名を連ねている人たちがとても“中立”と呼べるような顔ぶれではないし、意見広告を載せたのも読売・産経と、安保法案に“一方的に”賛成し反対意見をことごとく黙殺してきた新聞であるのだから、片腹痛いというよりほかはない。つまりは、この人たちは、自分が気に食わないものを攻撃するために“中立”という言葉を恣意的に持ち出しているにすぎないのである。
《私達の「知る権利」はどこへ?》と銘打ったこの広告は、TBS・NEWS23の岸井成格キャスターを名指しで批判している。岸井氏が番組内で安保法案について「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」とした発言が、「政治的に公平であること」を求める放送法第4条に抵触しているというのである。
そこで、今回は岸井氏を擁護する立場から記事を書きたい。
先に断っておくが、私は必ずしも岸井氏推しではない。むしろ、以前はかなり批判的だったといっていい。
私は夜のニュースは23派で、以前はサンデーモーニングもよくみていたので、彼のことはずいぶん前から見てきているつもりだが、その感想からいわせてもらえば、岸井氏は決して舌鋒鋭いタイプのジャーナリストではない。
政治部の記者は政治家に対して甘くなるとよくいわれるが、私は岸井氏をその代表格とみていた。彼のコメントは総じて政治家のスキャンダルや失言などに対して抑制的で、ときには擁護しているようにさえ聞こえ、しばしば生ぬるいと感じさせられたものだった。
しかし、たしかに最近の岸井氏は、厳しく安倍政権を批判している。特に、安保法制や原発再稼働についてはその傾向が顕著だ。
だが、私が思うには、それは岸井氏が変わったのではなく、“政治家に対して甘い”ジャーナリストでさえそういう厳しいコメントをせざるをえないぐらいに今の政治が劣化しているということなのではないだろうか。岸井氏を長いこと見てきたのと同様に、私もこの十数年間ぐらい人並みに政治報道に触れてきたつもりでいるが、その個人的な感覚からしても、いまの政治状況は本当にひどい。信じられないようなことが次々に起きている。そういう状況に、岸井氏も辛口のコメントをせずにいられないということなのではないだろうか。
また、件の意見広告では、各局のニュース番組における賛成意見と反対意見の比率を計算し、ほとんどの局で反対派の意見が圧倒的に多いことを批判し、「偏った情報しか与えない報道姿勢は、視聴者の「知る権利」への冒瀆ではないでしょうか?」ともいっている。
この“偏っている”という批判に対しては、もし仮にいまヒトラーが独裁政権を作ろうとしているとしたら、それを批判するべきでないのか、と私は問いたい。もし「中立」を保てなくなるから批判をしてはいけないというのなら、ヒトラーがせっせと独裁体制を作っているのを、黙ってみているしかないということになる。“中立”という言葉が悪政の隠れ蓑になってはならない。安倍政権がこの国の民主主義や立憲主義、平和主義を脅かしていると多くの人が考えている。そのように考えるならば、メディアは臆することなく堂々とそれを批判するべきだ。
さいわいなことに、言論の自由は安倍総理がもっとも重視する権利である。
今年「マスコミを懲らしめる」発言で問題となった文化芸術懇話会での議員らの発言を、安倍総理は「言論の自由」という言葉を使って擁護した。あの発言が言論の自由ということで許されるのなら、もう誰がなにをいっても完全に自由である。メディアは遠慮なく安倍政権をガンガンに批判するべきだろう。
もう一つ、偏向という批判に反論するために、一つの思考実験をしてみたい。
もし仮に、政府が「総理大臣は自由に人を殺してもいい」という法案を国会に提出したら、どうだろう? 99%のメディアは、それを批判するだろう。では、その批判は中立を侵したことになるのだろうか? どう考えてもノーである。そんな法案は批判するのが当然だ。
これは極端なたとえだが、要は、法案が批判されるのはその中身が無茶苦茶だからなのだ。政府が無茶苦茶な法案を出して無茶苦茶な審議をしているから圧倒的多数のメディアが批判しているのであって、それは程度の差はあれ「総理大臣は人を殺していい法案」と同じことである。現実の安保法案についていうと、これだけメディアの報道に“偏り”があるということは、それだけ無茶苦茶さのレベルが高い――つまり、「総理大臣は人を殺していい法案」に近い――ということであって、そこを勘違いしてはならない。問題の「放送法遵守を求める視聴者の会」の広告というのは、政府が「総理大臣は自由に人を殺してもいい」という法案を出してきて、みんなが当然のごとく「いやいや、それはおかしい」といっているのに対して「中立じゃない」と文句をつけているようなものなのである。しかも、その呼びかけ人として名を連ねている人たちがとても“中立”と呼べるような顔ぶれではないし、意見広告を載せたのも読売・産経と、安保法案に“一方的に”賛成し反対意見をことごとく黙殺してきた新聞であるのだから、片腹痛いというよりほかはない。つまりは、この人たちは、自分が気に食わないものを攻撃するために“中立”という言葉を恣意的に持ち出しているにすぎないのである。