アメリカのフロリダ州で発生した銃乱射事件が大きく報道されている。
犠牲者が49人と史上最悪規模になったことに加えて、性的マイノリティに対する差別やイスラム過激派など“タイムリー”な要素が重なったためということなのだろうが、銃乱射事件というニュース自体は、かなり頻繁にある。それで銃規制が議論になるわけだが、いまなお本格的な銃規制はなされずにいる。
いうまでもなく、それは全米ライフル協会(NRA)という強力なロビイ団体が銃規制を阻止しているからだ。
彼らの銃規制反対の根拠となっているのは、アメリカの憲法修正2条である。この修正2条において、アメリカでは銃を所持する権利が国民に認められている。それは、「抑圧的な政治に対して抵抗する」ということを出発点にしているアメリカの歴史からくるものであり、国民一人ひとりが自分の身を守るために銃で武装する権利がある――つまり、「自衛のため」ということでそういうふうになっている。ものの本によれば、ある自治体が住民に銃の所持を義務付けた事例もあるそうだ。「銃の所持を許可する」ではなくて、「銃の所持を義務づける」というのだからすさまじい。
それぐらい「自衛のため」の銃の所持が米国では当然のことになっているのだが、では本当に銃が自衛のために役立っているのかというと、きわめて疑わしい。およそ3億丁の銃が年間3万人もの死者を出しているという現実がある。
銃乱射事件があると、逆に「こういう事件があるから自衛のために銃が必要だ」という議論が出てくるそうだが、乱射事件が起きたときに、その場に居合わせた銃の所持者が応戦して乱射犯をしとめたという話も聞かない(私が知らないだけでそういう例もあるのかもしれないが、いずれにせよきわめてレアなケースだろう)。アメリカの犯罪がほかの国に比べて少ないというようなこともない。米国内にあふれている銃が実際に自衛のために役に立っているケースが果たしてどれほどあるかというのは疑問である。先に書いた銃の所持を義務付けた自治体にしても、それによって一時的に犯罪は減少したが、時間が経つに連れて次第にもとに戻っていったという。
これは、抑止力論に似ている。
先日、当ブログでは、抑止力は幻想にすぎないという記事を書いたが、抑止力論は、「銃を持つ権利によって安全が保障される」という議論とまさに相似形だ。世の中に広く銃を行き渡らせれば、世の中は安全になるのではなく危険になる。抑止力論もそれと同じで、世界をむしろ危険にする。
「銃をもつ権利」と抑止力論が似ているのは、それだけではない。どちらも、むき出し丸出しのファルシズムの発露という点が共通している。
はっきりいって、NRAが銃規制に反対するのは、それが安全に資すると考えているからとは、私にはとても思えない。彼らは、ただ銃を持っているということそれ自体に価値を見出しているのであり、それは「戦争する権利」を絶対の権利と考えて手放そうとしないアメリカ共和党の価値観と通底するものがある。
それは、ビートルズが歌にしたことで知られる Happiness Is a Warm Gun というNRAのスローガンからもよくわかる。
この言葉は、「幸せは、発射直後の銃」ということで、容易に別のことを想像させ、まさに「銃をもつ権利」がファルシズムと融合したスローガンだ(誤解のないように注釈をつけておくと、ビートルズがこのスローガンを歌にしたのはNRAに対する皮肉としてであって、そういう歌だから、かのマイケル・ムーア監督が映画のなかで使用していたりもする)。この発想は、まさに、アメリカのとりわけ共和党が主張する「戦争をする権利」と“同根”である。アメリカの“こん棒”外交が、こういうおよそ非理性的なイチモツ自慢に基づいているということは理解しておかなければならない。
犠牲者が49人と史上最悪規模になったことに加えて、性的マイノリティに対する差別やイスラム過激派など“タイムリー”な要素が重なったためということなのだろうが、銃乱射事件というニュース自体は、かなり頻繁にある。それで銃規制が議論になるわけだが、いまなお本格的な銃規制はなされずにいる。
いうまでもなく、それは全米ライフル協会(NRA)という強力なロビイ団体が銃規制を阻止しているからだ。
彼らの銃規制反対の根拠となっているのは、アメリカの憲法修正2条である。この修正2条において、アメリカでは銃を所持する権利が国民に認められている。それは、「抑圧的な政治に対して抵抗する」ということを出発点にしているアメリカの歴史からくるものであり、国民一人ひとりが自分の身を守るために銃で武装する権利がある――つまり、「自衛のため」ということでそういうふうになっている。ものの本によれば、ある自治体が住民に銃の所持を義務付けた事例もあるそうだ。「銃の所持を許可する」ではなくて、「銃の所持を義務づける」というのだからすさまじい。
それぐらい「自衛のため」の銃の所持が米国では当然のことになっているのだが、では本当に銃が自衛のために役立っているのかというと、きわめて疑わしい。およそ3億丁の銃が年間3万人もの死者を出しているという現実がある。
銃乱射事件があると、逆に「こういう事件があるから自衛のために銃が必要だ」という議論が出てくるそうだが、乱射事件が起きたときに、その場に居合わせた銃の所持者が応戦して乱射犯をしとめたという話も聞かない(私が知らないだけでそういう例もあるのかもしれないが、いずれにせよきわめてレアなケースだろう)。アメリカの犯罪がほかの国に比べて少ないというようなこともない。米国内にあふれている銃が実際に自衛のために役に立っているケースが果たしてどれほどあるかというのは疑問である。先に書いた銃の所持を義務付けた自治体にしても、それによって一時的に犯罪は減少したが、時間が経つに連れて次第にもとに戻っていったという。
これは、抑止力論に似ている。
先日、当ブログでは、抑止力は幻想にすぎないという記事を書いたが、抑止力論は、「銃を持つ権利によって安全が保障される」という議論とまさに相似形だ。世の中に広く銃を行き渡らせれば、世の中は安全になるのではなく危険になる。抑止力論もそれと同じで、世界をむしろ危険にする。
「銃をもつ権利」と抑止力論が似ているのは、それだけではない。どちらも、むき出し丸出しのファルシズムの発露という点が共通している。
はっきりいって、NRAが銃規制に反対するのは、それが安全に資すると考えているからとは、私にはとても思えない。彼らは、ただ銃を持っているということそれ自体に価値を見出しているのであり、それは「戦争する権利」を絶対の権利と考えて手放そうとしないアメリカ共和党の価値観と通底するものがある。
それは、ビートルズが歌にしたことで知られる Happiness Is a Warm Gun というNRAのスローガンからもよくわかる。
この言葉は、「幸せは、発射直後の銃」ということで、容易に別のことを想像させ、まさに「銃をもつ権利」がファルシズムと融合したスローガンだ(誤解のないように注釈をつけておくと、ビートルズがこのスローガンを歌にしたのはNRAに対する皮肉としてであって、そういう歌だから、かのマイケル・ムーア監督が映画のなかで使用していたりもする)。この発想は、まさに、アメリカのとりわけ共和党が主張する「戦争をする権利」と“同根”である。アメリカの“こん棒”外交が、こういうおよそ非理性的なイチモツ自慢に基づいているということは理解しておかなければならない。