【集団的自衛権は、世界を平和にも安全にもしない。泥沼の紛争を引き起こし、テロや難民といった難題を生じさせるだけだ。アフガニスタンは、その象徴的な例である】
集団的自衛権行使事例として、今回は2001年のNATOによるアフガン侵攻を取り上げる。
アフガニスタンについては、旧ソ連が侵攻した例もあるが、それについてはすでに書いたので、今回はNATOのケースを中心に扱う。
■もっともわかりやすい失敗例
このケースについては、あらためて経緯を説明するまでもあるまい。
2001年、アメリカで同時多発テロが発生した。これを、タリバンが支配するアフガニスタンによる攻撃と断定したアメリカは、アフガニスタンへの報復攻撃を決定。それを手助けするかたちで、NATOも攻撃に加わった。これが、集団的自衛権の行使として報告されている。
コンゴ紛争の例などに比べれば、これは本来の集団的自衛権に近いといえるだろう。
集団的自衛権は、しばしば「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃すること」というふうに説明される。
実際にはそのような形で行使されることはほとんどなかったわけだが、このアフガンのケースは一応そういう構図になっている。そういう意味では、この事例は「集団的自衛権」というものの本来のあり方といえる。
しかし、ここであきらかになるのは、本来の“正しい”使われ方をしても、やはり集団的自衛権は害悪しかもたらしていないということだ。
NATOがアフガンを攻撃したことによって、世界は安全になっただろうか?
イエスだといえる人はいないだろう。
むしろ、こうして中東を攻撃したことが、ヨーロッパでイスラム過激派によるテロを引き起こす一つの理由となっているし、難民問題にもつながっている。難民問題はイギリスのEU離脱の原因の一つともいわれている。集団的自衛権を行使したことは、NATO諸国を危険にし、不安定にしただけである。
■ドイツの失敗
アフガン侵攻は、NATOがその結成以来はじめて集団的自衛権を行使した事例だが、ドイツにとっては戦後はじめての域外派兵でもあった。
それまでのドイツは、憲法にあたる基本法で域外派兵を禁じていたのだが、解釈変更によってそれを可能にした。
これは、日本が憲法の解釈変更によって集団的自衛権行使を可能にしたのと似ている。そのため、ドイツのアフガン派兵は、日本の今後を占う先例ともみられている。
そういう観点からみれば、日本が集団的自衛権行使を容認したということは、大きな過ちとしか考えられない。
ドイツは、後方支援や治安維持活動などに限定してアフガンに軍を派遣したが、結局は戦闘に巻き込まれる例も起こり、結果として55人の犠牲者を出した。“後方支援”に限定したはずが、実際には6割が戦闘に巻き込まれての“戦死”だったという。
そもそも、アフガニスタンに対する「報復」という不毛な戦争である。
その不毛な戦争に派兵し、少なからぬ死者を出し、結果として自国をテロや難民流入のリスクにさらすことになった。これを失敗といわずしてなにを失敗というのか。
日本がもし集団的自衛権を行使したなら、ドイツと同じように泥沼に足を踏み込むことになりかねないのである。
■集団的的自衛権は、それに関与したすべての国に害悪をもたらす
集団的自衛権には、最低でも三つの当事者が存在する。
「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃すること」というときの、A、B、Cの三つである。今回のケースでいえば、Aがアメリカ、Bがタリバン政権、CがNATOということになる。
そのうち、NATOとアフガニスタンについて書いてきたが、ではアメリカはどうか。
アメリカは、NATOによっていわば助太刀してもらったかたちだが、ではそれでアメリカはアフガン戦争によってなにかいいことがあったのか。
これも、そんなことはないだろう。
アメリカは、アフガンという泥沼に足を突っ込んで、今でもそこから抜け出せずにいる。
オバマ大統領はアフガン戦争の終結を公約にかかげていたが、結局のところ任期中にアフガンから米軍を撤退させることは断念した。アメリカは、アフガンが無秩序の混沌に陥らないために、今なお軍を駐留させざるをえないのである。それがアメリカに大きな負担を強いていることはいうまでもない。
■集団的自衛権は紛争を拡大・泥沼化させる
「最低でも三つの当事者が存在する」と書いたが、それはあくまで「最低でも」である。
実際には、もっと多くの当事者が関与する場合がある。
つまり、「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃する」ということをした場合、さらに「D」という四番目の当事者が、かなりの高確率で現れる。AにCが助太刀をすれば、それに対抗してBの側にもDという助太刀が入る。こうなることによって、当事者が増え、紛争は長期化・泥沼化していく。これは、これまでにみてきた実際の事例で頻繁に見られたことだった。
今回のアフガニスタンのケースでも、変則的な形ながら、それは起きた。
イスラム過激派勢力が、アフガニスタンの外から流入してきて、NATO軍に対抗し始めたのである。
それによって、やはりこの戦争も泥沼化した。
NATO側は、多いときには十万人以上の兵を駐留させていた。それにたいしてアフガンのゲリラは、多くても3、4万人ほどといわれている。数の上でも、装備の質においても、NATO軍はゲリラを圧倒していた(当たり前だが)。にもかかわらず、ゲリラを殲滅することはできず、アフガニスタンは、もう手の施しようもないぐらいきわめて不安定な状態に陥ってしまった。
私が考えるに、「集団的自衛権によって安全が保障される」という主張が見落としているのはここだ。
集団的自衛権を論ずる本では、ここで書いたような「A国、B国、C国……」というようなシミュレーションがよく出てくるのだが、彼らのシミュレーションは、たいていの場合Cまでで終わってしまっている。D以降が出てくるとしても、それは「Bから攻撃されたA以外の国」としてである。Bの側に助太刀が入るという可能性が見落とされているのだ。
だから、彼らの集団的自衛権容認論は、現実に起きていることからかけ離れたものになる。
実際には、集団的自衛権が行使されれば、かなりの確率でDという第四の当事者が介入してくる。ベトナム、チャド、アンゴラ、コンゴ、タジキスタン、そしてアフガニスタンなどで、そういう現象が見られた。こうして当事者が増えることで、紛争は拡大・泥沼化し、収拾のつかない状態に陥る――それが、歴史上の実例からみえてくる集団的自衛権の現実である。
■パンドラの箱
アフガニスタンは、二度にわたって集団的自衛権行使の舞台となった。
一度目のソ連による侵攻では、それによってはじまった十年以上にわたる泥沼の戦争の末に、タリバン政権というイスラム過激派政権が誕生するという結果に終わった。
そのタリバン政権がアメリカを攻撃したことによって二度目の戦争が起きたが、ここでもやはり、勝者なき泥沼の戦いに陥った。それに関与した国を平和にも安全にもすることなく、多くの死者を出しただけである。
そういう意味では、アフガニスタンという国は、集団的自衛権がいかに危険で無益なものかということの象徴といっていい。
集団的自衛権とは、泥沼の紛争と、その結果としてのテロや難民といったさまざまな問題が飛び出すパンドラの箱を開く鍵でしかないのである。
集団的自衛権行使事例として、今回は2001年のNATOによるアフガン侵攻を取り上げる。
アフガニスタンについては、旧ソ連が侵攻した例もあるが、それについてはすでに書いたので、今回はNATOのケースを中心に扱う。
■もっともわかりやすい失敗例
このケースについては、あらためて経緯を説明するまでもあるまい。
2001年、アメリカで同時多発テロが発生した。これを、タリバンが支配するアフガニスタンによる攻撃と断定したアメリカは、アフガニスタンへの報復攻撃を決定。それを手助けするかたちで、NATOも攻撃に加わった。これが、集団的自衛権の行使として報告されている。
コンゴ紛争の例などに比べれば、これは本来の集団的自衛権に近いといえるだろう。
集団的自衛権は、しばしば「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃すること」というふうに説明される。
実際にはそのような形で行使されることはほとんどなかったわけだが、このアフガンのケースは一応そういう構図になっている。そういう意味では、この事例は「集団的自衛権」というものの本来のあり方といえる。
しかし、ここであきらかになるのは、本来の“正しい”使われ方をしても、やはり集団的自衛権は害悪しかもたらしていないということだ。
NATOがアフガンを攻撃したことによって、世界は安全になっただろうか?
イエスだといえる人はいないだろう。
むしろ、こうして中東を攻撃したことが、ヨーロッパでイスラム過激派によるテロを引き起こす一つの理由となっているし、難民問題にもつながっている。難民問題はイギリスのEU離脱の原因の一つともいわれている。集団的自衛権を行使したことは、NATO諸国を危険にし、不安定にしただけである。
■ドイツの失敗
アフガン侵攻は、NATOがその結成以来はじめて集団的自衛権を行使した事例だが、ドイツにとっては戦後はじめての域外派兵でもあった。
それまでのドイツは、憲法にあたる基本法で域外派兵を禁じていたのだが、解釈変更によってそれを可能にした。
これは、日本が憲法の解釈変更によって集団的自衛権行使を可能にしたのと似ている。そのため、ドイツのアフガン派兵は、日本の今後を占う先例ともみられている。
そういう観点からみれば、日本が集団的自衛権行使を容認したということは、大きな過ちとしか考えられない。
ドイツは、後方支援や治安維持活動などに限定してアフガンに軍を派遣したが、結局は戦闘に巻き込まれる例も起こり、結果として55人の犠牲者を出した。“後方支援”に限定したはずが、実際には6割が戦闘に巻き込まれての“戦死”だったという。
そもそも、アフガニスタンに対する「報復」という不毛な戦争である。
その不毛な戦争に派兵し、少なからぬ死者を出し、結果として自国をテロや難民流入のリスクにさらすことになった。これを失敗といわずしてなにを失敗というのか。
日本がもし集団的自衛権を行使したなら、ドイツと同じように泥沼に足を踏み込むことになりかねないのである。
■集団的的自衛権は、それに関与したすべての国に害悪をもたらす
集団的自衛権には、最低でも三つの当事者が存在する。
「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃すること」というときの、A、B、Cの三つである。今回のケースでいえば、Aがアメリカ、Bがタリバン政権、CがNATOということになる。
そのうち、NATOとアフガニスタンについて書いてきたが、ではアメリカはどうか。
アメリカは、NATOによっていわば助太刀してもらったかたちだが、ではそれでアメリカはアフガン戦争によってなにかいいことがあったのか。
これも、そんなことはないだろう。
アメリカは、アフガンという泥沼に足を突っ込んで、今でもそこから抜け出せずにいる。
オバマ大統領はアフガン戦争の終結を公約にかかげていたが、結局のところ任期中にアフガンから米軍を撤退させることは断念した。アメリカは、アフガンが無秩序の混沌に陥らないために、今なお軍を駐留させざるをえないのである。それがアメリカに大きな負担を強いていることはいうまでもない。
■集団的自衛権は紛争を拡大・泥沼化させる
「最低でも三つの当事者が存在する」と書いたが、それはあくまで「最低でも」である。
実際には、もっと多くの当事者が関与する場合がある。
つまり、「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃する」ということをした場合、さらに「D」という四番目の当事者が、かなりの高確率で現れる。AにCが助太刀をすれば、それに対抗してBの側にもDという助太刀が入る。こうなることによって、当事者が増え、紛争は長期化・泥沼化していく。これは、これまでにみてきた実際の事例で頻繁に見られたことだった。
今回のアフガニスタンのケースでも、変則的な形ながら、それは起きた。
イスラム過激派勢力が、アフガニスタンの外から流入してきて、NATO軍に対抗し始めたのである。
それによって、やはりこの戦争も泥沼化した。
NATO側は、多いときには十万人以上の兵を駐留させていた。それにたいしてアフガンのゲリラは、多くても3、4万人ほどといわれている。数の上でも、装備の質においても、NATO軍はゲリラを圧倒していた(当たり前だが)。にもかかわらず、ゲリラを殲滅することはできず、アフガニスタンは、もう手の施しようもないぐらいきわめて不安定な状態に陥ってしまった。
私が考えるに、「集団的自衛権によって安全が保障される」という主張が見落としているのはここだ。
集団的自衛権を論ずる本では、ここで書いたような「A国、B国、C国……」というようなシミュレーションがよく出てくるのだが、彼らのシミュレーションは、たいていの場合Cまでで終わってしまっている。D以降が出てくるとしても、それは「Bから攻撃されたA以外の国」としてである。Bの側に助太刀が入るという可能性が見落とされているのだ。
だから、彼らの集団的自衛権容認論は、現実に起きていることからかけ離れたものになる。
実際には、集団的自衛権が行使されれば、かなりの確率でDという第四の当事者が介入してくる。ベトナム、チャド、アンゴラ、コンゴ、タジキスタン、そしてアフガニスタンなどで、そういう現象が見られた。こうして当事者が増えることで、紛争は拡大・泥沼化し、収拾のつかない状態に陥る――それが、歴史上の実例からみえてくる集団的自衛権の現実である。
■パンドラの箱
アフガニスタンは、二度にわたって集団的自衛権行使の舞台となった。
一度目のソ連による侵攻では、それによってはじまった十年以上にわたる泥沼の戦争の末に、タリバン政権というイスラム過激派政権が誕生するという結果に終わった。
そのタリバン政権がアメリカを攻撃したことによって二度目の戦争が起きたが、ここでもやはり、勝者なき泥沼の戦いに陥った。それに関与した国を平和にも安全にもすることなく、多くの死者を出しただけである。
そういう意味では、アフガニスタンという国は、集団的自衛権がいかに危険で無益なものかということの象徴といっていい。
集団的自衛権とは、泥沼の紛争と、その結果としてのテロや難民といったさまざまな問題が飛び出すパンドラの箱を開く鍵でしかないのである。