昨夜の報道ステーションをみていたら、面白い特集をやっていた。戦後、日本 国憲法をつくる過程で、幣原喜重郎が戦争放棄を提案したのだという。以前から いわれている説ではあるようだが、その一つの証拠となる資料が出てきたという 話だ。 そういうわけで、今回は久しぶりに歴史ネタとして、幣原喜重郎について書いてみたい。
幣原といえば、駐米大使としてワシントン軍縮会議に出席し、後に若槻内閣で 外相をつとめた人物である。外相としては「協調外交」路線をとり、日ソ国交回 復(戦前の)にあたり、保守派の強い反発を呼んだが、それでも国交回復を実現 した。それは、日本を孤立化させないための国際協調路線だった。
また、昭和2年の南京事件の際には、不干渉路線をとって、「軟弱外交」とも 批判された。 このあたりのことは、現代にもつながる論点をふくんでいると思うので、その後の経緯について少し書いておきたい。
時は昭和3年。 南京事件の直後に、台湾銀行問題で若槻内閣は総辞職。当時の慣行で政権交代 となり、「軟弱外交」を批判していた政友会の田中義一が首相となる(外相も兼 務)。 政友会政権は、民政党政権の協調外交とは反対の「積極外交」を打ち出し、そ れに基づいて、3次にわたる山東出兵を行った。そして、そのうちの第2次出兵 では、「済南事件」と呼ばれる軍事衝突を引き起こすことになる。こうした行動 が結局は中国の抗日運動を激化させ、張作霖爆殺事件もあって、対中国外交は完 全に行き詰る。張作霖爆殺事件や、それとほぼ同時期に起きた万宝山事件などで 対中関係は悪化の一途をたどり、その緊張状態はついに満州事変となって爆発し、日本は泥沼の戦争に突き進んでいったのだった。
南京事件では、南京の日本領事館も襲撃を受けて、略奪に遭ったうえに多くの 負傷者を出した。そんな状態でなんの行動もしないのはけしからんといって出兵 したのが田中義一の「積極外交」なわけだが、その行動の結果、日本は中国との 関係を悪化させ、それが太平洋戦争にむかっていく一つの伏線ともなっているの である。 こうした経緯をみたとき、幣原の「協調外交」と田中の「積極外交」はどちら が日本にとってよかったのだろうか。 そして、この歴史から現代の問題を考えると、対中国、対北朝鮮といったところで強硬路線をとることの危険を私は感じずにいられない。むこうが敵対的な行 動をとってきたからこちらも対抗して強硬路線をとる――というのは、そのときは 溜飲を下げられていいかもしれないが、後に重い対価を払わされることになりか ねないのだ。
突然だが、私は、複雑な事情があってアメーバでもブログをやっている。 最近そちらのブログでも書いたのだが、第一次世界大戦後に、それまでの「勢 力均衡」の考え方では戦争は防げないという反省から、国際協調の枠組みが作ら れてきた歴史がある。幣原の「協調外交」は、その国際協調の枠組みに沿ったも のなのだ。ワシントン軍縮会議もそうだし、日ソ国交回復もそうで、いずれも、 国際協調を優先させるために日本はかなりの譲歩をしている。 しかし、世界史的にみて、その「集団安全保障」体制は、残念ながらうまく機 能しなかった。 それは、その枠組みに加わることがもっとも必要とされる国々が最初から国際 連盟に加盟していなかったり脱退していったりしたということも大きな要因だろ う。そして、日本に関して言えば、幣原外交を「軟弱」と批判したような人たち こそが、国際協調の枠組みをなし崩しにして日本を二度目の世界大戦に引きずり 込んでいったのである。
そして、その大戦争で焼け野原になった日本で、幣原喜重郎は総理大臣として 再び表舞台に登場する。 ここまでの歴史的経緯を振り返れば、彼が“戦争放棄”を憲法に取り入れるべき だと主張するのももっともなことである。おそらく幣原は、軍事に頼る外交が結 局は世界を大戦争に導いたという事実から、武力によらない国際的な協調体制の 必要を痛感していたのだろう。それが“戦争放棄”という提案になったのではない か。 「マッカーサーが幣原が提案したことにさせた」という見方もあるようだ が、幣原喜重郎という人の来歴を考えれば、彼が戦争放棄を提案したということ は十分にありうるだろう。 そしてそうだとすれば、憲法9条は、押しつけなどではなく、日本人みずから が日本の歴史にもとづいて作ったものということになる。今年は日本国憲法が誕 生してから70年となるが、その憲法の謳う平和主義の理念がかつてない挑戦に あっているいま、その価値をもう一度評価しなおしてみるべきではないだろう か。
幣原といえば、駐米大使としてワシントン軍縮会議に出席し、後に若槻内閣で 外相をつとめた人物である。外相としては「協調外交」路線をとり、日ソ国交回 復(戦前の)にあたり、保守派の強い反発を呼んだが、それでも国交回復を実現 した。それは、日本を孤立化させないための国際協調路線だった。
また、昭和2年の南京事件の際には、不干渉路線をとって、「軟弱外交」とも 批判された。 このあたりのことは、現代にもつながる論点をふくんでいると思うので、その後の経緯について少し書いておきたい。
時は昭和3年。 南京事件の直後に、台湾銀行問題で若槻内閣は総辞職。当時の慣行で政権交代 となり、「軟弱外交」を批判していた政友会の田中義一が首相となる(外相も兼 務)。 政友会政権は、民政党政権の協調外交とは反対の「積極外交」を打ち出し、そ れに基づいて、3次にわたる山東出兵を行った。そして、そのうちの第2次出兵 では、「済南事件」と呼ばれる軍事衝突を引き起こすことになる。こうした行動 が結局は中国の抗日運動を激化させ、張作霖爆殺事件もあって、対中国外交は完 全に行き詰る。張作霖爆殺事件や、それとほぼ同時期に起きた万宝山事件などで 対中関係は悪化の一途をたどり、その緊張状態はついに満州事変となって爆発し、日本は泥沼の戦争に突き進んでいったのだった。
南京事件では、南京の日本領事館も襲撃を受けて、略奪に遭ったうえに多くの 負傷者を出した。そんな状態でなんの行動もしないのはけしからんといって出兵 したのが田中義一の「積極外交」なわけだが、その行動の結果、日本は中国との 関係を悪化させ、それが太平洋戦争にむかっていく一つの伏線ともなっているの である。 こうした経緯をみたとき、幣原の「協調外交」と田中の「積極外交」はどちら が日本にとってよかったのだろうか。 そして、この歴史から現代の問題を考えると、対中国、対北朝鮮といったところで強硬路線をとることの危険を私は感じずにいられない。むこうが敵対的な行 動をとってきたからこちらも対抗して強硬路線をとる――というのは、そのときは 溜飲を下げられていいかもしれないが、後に重い対価を払わされることになりか ねないのだ。
突然だが、私は、複雑な事情があってアメーバでもブログをやっている。 最近そちらのブログでも書いたのだが、第一次世界大戦後に、それまでの「勢 力均衡」の考え方では戦争は防げないという反省から、国際協調の枠組みが作ら れてきた歴史がある。幣原の「協調外交」は、その国際協調の枠組みに沿ったも のなのだ。ワシントン軍縮会議もそうだし、日ソ国交回復もそうで、いずれも、 国際協調を優先させるために日本はかなりの譲歩をしている。 しかし、世界史的にみて、その「集団安全保障」体制は、残念ながらうまく機 能しなかった。 それは、その枠組みに加わることがもっとも必要とされる国々が最初から国際 連盟に加盟していなかったり脱退していったりしたということも大きな要因だろ う。そして、日本に関して言えば、幣原外交を「軟弱」と批判したような人たち こそが、国際協調の枠組みをなし崩しにして日本を二度目の世界大戦に引きずり 込んでいったのである。
そして、その大戦争で焼け野原になった日本で、幣原喜重郎は総理大臣として 再び表舞台に登場する。 ここまでの歴史的経緯を振り返れば、彼が“戦争放棄”を憲法に取り入れるべき だと主張するのももっともなことである。おそらく幣原は、軍事に頼る外交が結 局は世界を大戦争に導いたという事実から、武力によらない国際的な協調体制の 必要を痛感していたのだろう。それが“戦争放棄”という提案になったのではない か。 「マッカーサーが幣原が提案したことにさせた」という見方もあるようだ が、幣原喜重郎という人の来歴を考えれば、彼が戦争放棄を提案したということ は十分にありうるだろう。 そしてそうだとすれば、憲法9条は、押しつけなどではなく、日本人みずから が日本の歴史にもとづいて作ったものということになる。今年は日本国憲法が誕 生してから70年となるが、その憲法の謳う平和主義の理念がかつてない挑戦に あっているいま、その価値をもう一度評価しなおしてみるべきではないだろう か。