“道徳”が学校の正式な科目になるのだという。
道徳が教科でないために道徳の授業が形骸化している、ということで、正式な科目にしようということらしい。
私は、その効果にはっきりいって懐疑的である。まず、道徳というものを数値で評価することが適切なのかどうかという点も問題だが、それ以前に、「教科でないから形骸化している」というのははっきりと間違っていると思う。
これは、ほかの教科のことを考えてみるとよくわかるが、なかでも英語が一番分かりやすいだろう。日本人は中学高校で六年間英語を学習するが、いっこうに英語が使えるようにはならない。これは、定期テストや受験で点数を稼ぐことが目標であるために文法偏重になっていることが原因と考えられる。そこで、「本当に英語が使えるようにしたかったら、受験科目から英語をはずせ」というような逆説さえいわれる。すなわち、正式な教科であるからこそ英語の授業は“形骸化”し、英語で意志の疎通ができるという本来そうであるべき学習の目的(英語を学ぶのにそれ以外の目的がありうるだろうか?)から果てしなくはずれたことをやっているのが実態なのだ。
道徳も、正式な科目にすれば、程度の差はあれ同じことが起きると思う。「道徳を理解している」ふりをすることが目的となり、生徒たちは先生が望む答えを推測して答えるようになるだけで、道徳の授業はそれこそ“形骸化”してしまうだろう。
――以上は、前置きである。
今回のメインテーマは、道徳を科目にすることの是非そのものではない。そのこととは別に、モラルを口にする人たちに本当にその資質があるのかということを今回は問題にしたい。というのも、そこに疑問を持たずにいられない事態が最近相次いでいるのだ。
たとえば、政治資金規正法の問題が真っ先に挙げられるだろう。
西川前農水相の問題などカネにまつわる疑惑が噴出している安倍政権だが、ここではとくに、下村博文文科大臣が暴力団と関係のある人物から献金を受けていたとされる問題をとりあげたい。冒頭に述べた“道徳”を学校の科目として導入するというのは当然文科省がそれをやるわけだが、そのトップにいる下村氏にカネにまつわる疑惑が浮上しているのだ。しかも、このことを国会で質問された下村文科相は、一度それを明確に否定しておきながら、後に一転して認めている。これらの疑惑に関して報じるテレビのニュースでは、「あいつにだけは道徳を語ってほしくない」という知人の言葉が紹介されていたが、もっともな意見であろう。本人の弁によれば、急な質問だったためにメモを見て答えたが、そのメモが間違っていたのだという。なるほど、そうなのかもしれない。だが、子どもに“道徳”を教えてやろうというほどの人物が、そんなことでいいのだろうか。「過失ではあるが、閣僚という立場での国会答弁で、自身にかけられた疑惑に関して結果として事実でないことをいってしまったのだから、その責任はとる」といって辞任するぐらいが“道徳的”な振る舞いというものだろう。
また、安倍内閣の閣僚では、カネの疑惑とは別の問題もあった。たとえば、松島みどり前法相の“うちわ”問題である。この問題では、配られたうちわには、すみっこに「これは討議資料です」というようなことが書かれてあり、前法相自身、違法性を問われかねないことを知ってのうえで“アリバイ作り”をしていた疑いが濃厚である。さらにこの人は「これはうちわですよね?」と質問されると「うちわのようにも見える」というようなことをいっている。「違法スレスレ」は「違法」ではない、という言い方もできるかもしれないが、法務大臣がそのような言い逃れをするのはやはり「道徳的」な振る舞いとはいえないだろう。問題が発覚した次の日にでも、「私はうちわだとは思わないが、結果としてうちわのように見えるから責任をとる」と辞任するべきだった。
そして、これもカネの問題とは別の話になるが、やはり自民党の中川郁子氏の“不適切”な行為も波紋を広げた。
別に不倫そのものに関してとやかくいうつもりはない。男女のことをあれこれいうのも野暮な話だし、その相手が妻子のある身であったとしても、つまるところは当事者同士の問題だ。だがしかし――そのような人たちが道徳を振りかざしてくるとなったら、話は別である。それはちょっと待ってくれよ、といいたくなるのが人情というものだろう。
そして、この点に関しては、船田元氏の名前も挙げておきたい。
また古い話を……と思われるかもしれないが、この人はいまから15年ほど前に、女性スキャンダルを起こしている。既婚でありながら女子アナ(という呼び方が適切かどうかわからないが)と密会しているところをフライデーされ、当時はやっていた不倫をテーマにするドラマにひっかけて“政界失楽園”などと呼ばれたのだった。ちなみに、本人は不倫関係を否定したものの、後に離婚してこの女子アナと再婚している。
ここでこの話を持ち出したのは、なにも個人攻撃をしたいからではない。そうではなくて、彼がもっとも高い倫理性を求められるであろう立場にいるからだ。知っている人は知っているだろうが、ほかならぬその船田氏が、自民党の憲法改正推進本部長として改憲の旗振り役をしているのである。自民党の改憲草案は、なにかにつけて「公益及び公の秩序」なるものを持ち出し、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(第12条)などと書いてあるのだが、船田氏や上にあげたその他の人々の言動はそれに見合ったものなのか。また、第24条には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」とあるが、船田氏の“失楽園”的行動はこの条文に照らしてどうなのか。
聞くところによれば、彼は青少年に有害な図書を見せないために漫画などを規制するべきだというふうに考えてもいるらしいが、私には、これはブラックジョークとしか聞こえない。人に道徳を押し付けようというのなら、まずその本人にこそ道徳的な言動が求められる。そうでなければ説得力がない。その点からして、いまの政府与党にその資格があるのか、私にははなはだ疑問である。
道徳が教科でないために道徳の授業が形骸化している、ということで、正式な科目にしようということらしい。
私は、その効果にはっきりいって懐疑的である。まず、道徳というものを数値で評価することが適切なのかどうかという点も問題だが、それ以前に、「教科でないから形骸化している」というのははっきりと間違っていると思う。
これは、ほかの教科のことを考えてみるとよくわかるが、なかでも英語が一番分かりやすいだろう。日本人は中学高校で六年間英語を学習するが、いっこうに英語が使えるようにはならない。これは、定期テストや受験で点数を稼ぐことが目標であるために文法偏重になっていることが原因と考えられる。そこで、「本当に英語が使えるようにしたかったら、受験科目から英語をはずせ」というような逆説さえいわれる。すなわち、正式な教科であるからこそ英語の授業は“形骸化”し、英語で意志の疎通ができるという本来そうであるべき学習の目的(英語を学ぶのにそれ以外の目的がありうるだろうか?)から果てしなくはずれたことをやっているのが実態なのだ。
道徳も、正式な科目にすれば、程度の差はあれ同じことが起きると思う。「道徳を理解している」ふりをすることが目的となり、生徒たちは先生が望む答えを推測して答えるようになるだけで、道徳の授業はそれこそ“形骸化”してしまうだろう。
――以上は、前置きである。
今回のメインテーマは、道徳を科目にすることの是非そのものではない。そのこととは別に、モラルを口にする人たちに本当にその資質があるのかということを今回は問題にしたい。というのも、そこに疑問を持たずにいられない事態が最近相次いでいるのだ。
たとえば、政治資金規正法の問題が真っ先に挙げられるだろう。
西川前農水相の問題などカネにまつわる疑惑が噴出している安倍政権だが、ここではとくに、下村博文文科大臣が暴力団と関係のある人物から献金を受けていたとされる問題をとりあげたい。冒頭に述べた“道徳”を学校の科目として導入するというのは当然文科省がそれをやるわけだが、そのトップにいる下村氏にカネにまつわる疑惑が浮上しているのだ。しかも、このことを国会で質問された下村文科相は、一度それを明確に否定しておきながら、後に一転して認めている。これらの疑惑に関して報じるテレビのニュースでは、「あいつにだけは道徳を語ってほしくない」という知人の言葉が紹介されていたが、もっともな意見であろう。本人の弁によれば、急な質問だったためにメモを見て答えたが、そのメモが間違っていたのだという。なるほど、そうなのかもしれない。だが、子どもに“道徳”を教えてやろうというほどの人物が、そんなことでいいのだろうか。「過失ではあるが、閣僚という立場での国会答弁で、自身にかけられた疑惑に関して結果として事実でないことをいってしまったのだから、その責任はとる」といって辞任するぐらいが“道徳的”な振る舞いというものだろう。
また、安倍内閣の閣僚では、カネの疑惑とは別の問題もあった。たとえば、松島みどり前法相の“うちわ”問題である。この問題では、配られたうちわには、すみっこに「これは討議資料です」というようなことが書かれてあり、前法相自身、違法性を問われかねないことを知ってのうえで“アリバイ作り”をしていた疑いが濃厚である。さらにこの人は「これはうちわですよね?」と質問されると「うちわのようにも見える」というようなことをいっている。「違法スレスレ」は「違法」ではない、という言い方もできるかもしれないが、法務大臣がそのような言い逃れをするのはやはり「道徳的」な振る舞いとはいえないだろう。問題が発覚した次の日にでも、「私はうちわだとは思わないが、結果としてうちわのように見えるから責任をとる」と辞任するべきだった。
そして、これもカネの問題とは別の話になるが、やはり自民党の中川郁子氏の“不適切”な行為も波紋を広げた。
別に不倫そのものに関してとやかくいうつもりはない。男女のことをあれこれいうのも野暮な話だし、その相手が妻子のある身であったとしても、つまるところは当事者同士の問題だ。だがしかし――そのような人たちが道徳を振りかざしてくるとなったら、話は別である。それはちょっと待ってくれよ、といいたくなるのが人情というものだろう。
そして、この点に関しては、船田元氏の名前も挙げておきたい。
また古い話を……と思われるかもしれないが、この人はいまから15年ほど前に、女性スキャンダルを起こしている。既婚でありながら女子アナ(という呼び方が適切かどうかわからないが)と密会しているところをフライデーされ、当時はやっていた不倫をテーマにするドラマにひっかけて“政界失楽園”などと呼ばれたのだった。ちなみに、本人は不倫関係を否定したものの、後に離婚してこの女子アナと再婚している。
ここでこの話を持ち出したのは、なにも個人攻撃をしたいからではない。そうではなくて、彼がもっとも高い倫理性を求められるであろう立場にいるからだ。知っている人は知っているだろうが、ほかならぬその船田氏が、自民党の憲法改正推進本部長として改憲の旗振り役をしているのである。自民党の改憲草案は、なにかにつけて「公益及び公の秩序」なるものを持ち出し、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(第12条)などと書いてあるのだが、船田氏や上にあげたその他の人々の言動はそれに見合ったものなのか。また、第24条には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」とあるが、船田氏の“失楽園”的行動はこの条文に照らしてどうなのか。
聞くところによれば、彼は青少年に有害な図書を見せないために漫画などを規制するべきだというふうに考えてもいるらしいが、私には、これはブラックジョークとしか聞こえない。人に道徳を押し付けようというのなら、まずその本人にこそ道徳的な言動が求められる。そうでなければ説得力がない。その点からして、いまの政府与党にその資格があるのか、私にははなはだ疑問である。
それが自民党の政治家だけではなく、ほぼ政治家の全員がそのようです。それを批判する一部の良識派と言われる国民ですら、人間の務めをなくしていると小生は見ています。
その人間がすべきこととは、地球を壊すな、汚すな、他の生物を殺すなです。これをせずして、何を語っても人間の幸せなど来るはずがないのです。
これを知っている仏教他の宗教指導者も一切語らないのは、この人たちも詐欺師だと小生は断言します。
今後ともよろしくお付き合いください。