今日は、9月11日である。
このブログを開始してからはじめての9月11日となる。
せっかくなので、2001年9月11日にアメリカで発生したあの同時多発テロに触れておきたい。単に日付の問題ではなく、いよいよ決着のときがせまる安保法案について考えるに際しても、そこには重要な教訓があると考えるからだ。
あのテロが起きた後、アメリカはアフガン攻撃に突き進んでいった。「報復からはなにも生まれない」といった言葉は、報復を叫ぶ喧騒のなかでかき消された。
日本のことをいえば、それは当時の小泉総理の訪朝、そこで北朝鮮が拉致を認めたことに端を発する“サヨク”叩きの時代と重なっていた。それ以前からそういう風潮はあったが、それがますます強まっていった。それが、後のイラク邦人人質事件での人質に対するバッシングなどにも表れていた。
そんな状況の中で、アメリカはアフガン攻撃に進んでいく。
このブログでは何度か書いたが、NATOはその結成以来はじめて集団的自衛権を行使し、アメリカの攻撃につきあった。そしてその後、さらにアメリカはイラク戦争に踏み切る。
その結果、世界は平和になったか?
安全になったのか?
幸福になっただろうか?
いずれも、答えはノーだと思う。
アメリカを中心とするNATO諸国による攻撃は、多くの死者を出し、アフガニスタンを荒廃させ、いまなおアフガンの情勢は安定しているとはいいがたい。また、アフガン攻撃から続く中東での終わりのない戦いは、それに直接間接に参加した欧州諸国でのテロを誘発した。イギリス、スペイン、ドイツ、フランスなどでテロが発生している。そして、戦場となったイラクを中心にして「イスラム国」というモンスター集団が跋扈するようになった。結局のところ、9.11に端を発するこの十数年の戦争は、攻撃したアメリカ、集団的自衛権で行動をともにしたNATO諸国、そして攻撃されたアフガニスタンやイラク――関わったすべての人々を傷つけ、不幸にしただけではないのか。
報復からはなにも生まれない。
武力で平和はつくれない。
この十数年で、そういった“きれいごと”のほうが正しかったということが証明されたのではないだろうか。
ここでもう一度、日本の話に戻る。
ツイッターやブログなどで安保法案賛成派の言説を見ているといつも思うのだが、彼らの多くはつまるところ“サヨク”的な言動が嫌いで、そういう生理的な嫌悪感から安保法案反対派に対して反発しているだけなのではないだろうか。
そういった人たちにいっておきたい。そんな生理的な嫌悪感で、この国の行方を危うくするような法制をうかつに支持すると後で後悔することになるかもしれないぞ、と。
“サヨク”的な“きれいごと”をむずがゆく感じるという気持ちは、わからないではない。かつては私にもそんな時期があった。
だが、この十数年ぐらいの世界を見ていて思うのは、誰もきれいごとをいわなくなったら世の中は砂漠になってしまうということだ。「人権擁護」とか「平和を守ろう」とか、そういう青臭い“きれいごと”をいう人たちがいるおかげで、世の中はなんとかもちこたえている。誰もそういうことをいわなくなったら、世界は重力に引かれるようにして闇に落ちていってしまう。そして、いまの日本はだんだんそういう状態に近づきつつある――そんなふうに思えるのである。そのように思えたからこそ、このブログをはじめた。「真夜中の5分前」というタイトルは、単に有名小説から借りてきただけではなく、日本の社会が暗闇に引きずりこまれる一歩手前だという含意がある。
「私たちは、暗闇のなかでこそ光の大切さを知り、沈黙のなかでこそ声の大切さを知る」
昨年ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイの言葉である。
いま、日本中で多くの人たちが声をあげているが、それらは沈黙を破る声であり、暗闇のなかの光だ。少なくとも、私にはそう見える。この国が完全な真夜中に陥ってしまわないために、この声を途切れさせてはいけないし、この灯りを消してはならない。だからこそ、きれいごとといわれようが、私はここでいっておきたい。
武力で平和はつくれない。
そして、安倍政権が進める安保法制には断固として反対することをあらためて表明する。
このブログを開始してからはじめての9月11日となる。
せっかくなので、2001年9月11日にアメリカで発生したあの同時多発テロに触れておきたい。単に日付の問題ではなく、いよいよ決着のときがせまる安保法案について考えるに際しても、そこには重要な教訓があると考えるからだ。
あのテロが起きた後、アメリカはアフガン攻撃に突き進んでいった。「報復からはなにも生まれない」といった言葉は、報復を叫ぶ喧騒のなかでかき消された。
日本のことをいえば、それは当時の小泉総理の訪朝、そこで北朝鮮が拉致を認めたことに端を発する“サヨク”叩きの時代と重なっていた。それ以前からそういう風潮はあったが、それがますます強まっていった。それが、後のイラク邦人人質事件での人質に対するバッシングなどにも表れていた。
そんな状況の中で、アメリカはアフガン攻撃に進んでいく。
このブログでは何度か書いたが、NATOはその結成以来はじめて集団的自衛権を行使し、アメリカの攻撃につきあった。そしてその後、さらにアメリカはイラク戦争に踏み切る。
その結果、世界は平和になったか?
安全になったのか?
幸福になっただろうか?
いずれも、答えはノーだと思う。
アメリカを中心とするNATO諸国による攻撃は、多くの死者を出し、アフガニスタンを荒廃させ、いまなおアフガンの情勢は安定しているとはいいがたい。また、アフガン攻撃から続く中東での終わりのない戦いは、それに直接間接に参加した欧州諸国でのテロを誘発した。イギリス、スペイン、ドイツ、フランスなどでテロが発生している。そして、戦場となったイラクを中心にして「イスラム国」というモンスター集団が跋扈するようになった。結局のところ、9.11に端を発するこの十数年の戦争は、攻撃したアメリカ、集団的自衛権で行動をともにしたNATO諸国、そして攻撃されたアフガニスタンやイラク――関わったすべての人々を傷つけ、不幸にしただけではないのか。
報復からはなにも生まれない。
武力で平和はつくれない。
この十数年で、そういった“きれいごと”のほうが正しかったということが証明されたのではないだろうか。
ここでもう一度、日本の話に戻る。
ツイッターやブログなどで安保法案賛成派の言説を見ているといつも思うのだが、彼らの多くはつまるところ“サヨク”的な言動が嫌いで、そういう生理的な嫌悪感から安保法案反対派に対して反発しているだけなのではないだろうか。
そういった人たちにいっておきたい。そんな生理的な嫌悪感で、この国の行方を危うくするような法制をうかつに支持すると後で後悔することになるかもしれないぞ、と。
“サヨク”的な“きれいごと”をむずがゆく感じるという気持ちは、わからないではない。かつては私にもそんな時期があった。
だが、この十数年ぐらいの世界を見ていて思うのは、誰もきれいごとをいわなくなったら世の中は砂漠になってしまうということだ。「人権擁護」とか「平和を守ろう」とか、そういう青臭い“きれいごと”をいう人たちがいるおかげで、世の中はなんとかもちこたえている。誰もそういうことをいわなくなったら、世界は重力に引かれるようにして闇に落ちていってしまう。そして、いまの日本はだんだんそういう状態に近づきつつある――そんなふうに思えるのである。そのように思えたからこそ、このブログをはじめた。「真夜中の5分前」というタイトルは、単に有名小説から借りてきただけではなく、日本の社会が暗闇に引きずりこまれる一歩手前だという含意がある。
「私たちは、暗闇のなかでこそ光の大切さを知り、沈黙のなかでこそ声の大切さを知る」
昨年ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイの言葉である。
いま、日本中で多くの人たちが声をあげているが、それらは沈黙を破る声であり、暗闇のなかの光だ。少なくとも、私にはそう見える。この国が完全な真夜中に陥ってしまわないために、この声を途切れさせてはいけないし、この灯りを消してはならない。だからこそ、きれいごとといわれようが、私はここでいっておきたい。
武力で平和はつくれない。
そして、安倍政権が進める安保法制には断固として反対することをあらためて表明する。