真夜中の2分前

時事評論ブログ
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軽減税率……なんのための消費税増税?

2015-12-13 20:23:44 | 政治・経済
 軽減税率についての自公協議が、合意にいたった。結局のところ、加工食品までふくめることになったようである。

 すでにほうぼうで批判が出ているが、これは妥協の産物以外の何ものでもない。
 「消費税率を上げる」という公約と「軽減税率」という公約の両方をとりあえず形だけでも成立させるために、こういう形をとり、結局どっちつかずのものになってしまっている。そして、軽減税率の対象を広げたことで1兆円以上の穴が開くことになるわけだが、そこを穴埋めするために、低所得者の医療・介護の窓口負担をやわらげる総合合算制度をとりやめるということになったそうだが、社会保障のために消費税を上げるといっているのに軽減税率のために社会保障を削るというのだから、これも本末転倒とのそしりを免れない。しかも、それで捻出できるのは4千億円程度で、残りの財源はめどがたっていない。
 公明党にしてみれ、安保法の貸しを軽減税率で返してもらったということだろうが、こういうのを一般的に“政争の具にしている”というのではないだろうか。ましてや、一部メディアの指摘するところでは、自民党側からの“満額回答”が公明党に対して逆に貸しとなり、それが自民党が目指す改憲の布石になっているともいう。ここをとらえて、橋下徹氏は「これで完全に憲法改正のプロセスは詰んだ」とツイッターで発言しているが、そのような見方が正しいとすれば、現政権は、財政再建と国民の生活がはかりにかけられているというこの深刻な問題で改憲を見据えた駆け引きをしているということになる。つまりは、彼らにとって国民の生活などどうでもよく、自分たちのやりたいことをやれるうちにやっておこうということしか考えていないのだ。前からわかっていたことではあるが、それがますますはっきりしたといえるだろう。

 そもそも――私は必ずしも消費税増税否定論者ではないが――消費税自体、本当に財政再建に寄与するのかという疑問はぬぐえない。
 机の上での計算ではいろいろな理屈もあるのだろうが、実績を考えてみると、「消費税による財政再建」というのはどうにも胡散臭い。今から25年ほど前に消費税を導入した。3%から5%にした。5%から8%にした。しかし、それでも日本の財政事情は苦しいままだ。そこで、まだ税率が低いだけだ、もっと上げればうまくいく……というのは、ギャンブルで誤った“必勝法”に執着してドツボにはまっていく人の思考回路ではないだろうか。消費税増税が本当に唯一の道なのかというのも、そろそろ本気で考える必要があるのではないだろうか。

ブラック批判にワタミが“白旗”――次は安倍自民党の番だ

2015-12-11 16:11:52 | 政治・経済
 12月8日、ワタミが、過労自殺訴訟で遺族側と和解した。
 1億円以上の賠償金を支払うことに合意し、創業者である渡邊美樹氏は、自分に責任があることを認め、和解協議において遺族側に謝罪したという。

 当初は自身の法的責任を認めず、この自殺した元従業員についても「本人を採用したことが問題だった」と語るなどとしていたが、和解後の記者会見では、こうした発言も撤回したという。法廷での結果としては“和解”だが、事実上、ワタミの全面降伏とみていいだろう。
 この件を報じる朝日新聞は、ワタミが“「白旗」を上げた”と書いている。
 ブラック企業との批判を受けて客足が離れ、また就活生からも敬遠されるようになり、深刻な経営危機に直面して、対決姿勢を引っ込めざるをえなくなったという分析である。まったくそのとおりだろう。この記事では、すき屋などほかの飲食店で起きた労働問題にも触れているが、いくら大企業といったところで、やはり客や従業員あってのものである。社会を敵に回しては、立ち行かないのだ。

 そして、その法則は政治にもある程度は通用するはずだ。
 企業以上に、政府は国民の支持で成り立つのであり、国民を敵にまわしては立ち行かない。政党も、あまりに好き勝手なことをやったら、その代償を支払ってもらわなければならない。無論、政治の場合、裁判という手段ではなく、選挙によってである。
 ワタミのケースは、社会を構成する人々が一丸になってそれは許さないという態度を示せば、たとえ金権主義の財界人でも屈せざるを得ないという好例だが、それは政治家に対しても通用すると考えられる。そして、社会がいまノーを突きつけるべきなのは、ワタミの創業者である渡邊美樹氏が議員として所属している自民党以外にない。
 周知のとおり、渡邊美樹という人はいまでは自民党の参院議員をやっているわけだが、このようなブラック企業のブラック創業者を擁立した自民党も、やはりブラック政党である。単に渡邊氏が所属しているからというだけでなく、この数年間の所業を見ていれば自民党がブラック政党だというのは誇張でもなんでもない。今度は有権者が、このブラック政党に、同じように“白旗”を上げさせなければならないのだ。

岸井成格キャスターのために

2015-12-09 21:43:35 | 政治・経済
 以前の記事で少し触れたが、「放送法の遵守を求める視聴者の会」なる組織が新聞に意見広告を載せた。
 《私達の「知る権利」はどこへ?》と銘打ったこの広告は、TBS・NEWS23の岸井成格キャスターを名指しで批判している。岸井氏が番組内で安保法案について「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」とした発言が、「政治的に公平であること」を求める放送法第4条に抵触しているというのである。
 そこで、今回は岸井氏を擁護する立場から記事を書きたい。

  先に断っておくが、私は必ずしも岸井氏推しではない。むしろ、以前はかなり批判的だったといっていい。
 私は夜のニュースは23派で、以前はサンデーモーニングもよくみていたので、彼のことはずいぶん前から見てきているつもりだが、その感想からいわせてもらえば、岸井氏は決して舌鋒鋭いタイプのジャーナリストではない。
 政治部の記者は政治家に対して甘くなるとよくいわれるが、私は岸井氏をその代表格とみていた。彼のコメントは総じて政治家のスキャンダルや失言などに対して抑制的で、ときには擁護しているようにさえ聞こえ、しばしば生ぬるいと感じさせられたものだった。
 しかし、たしかに最近の岸井氏は、厳しく安倍政権を批判している。特に、安保法制や原発再稼働についてはその傾向が顕著だ。
 だが、私が思うには、それは岸井氏が変わったのではなく、“政治家に対して甘い”ジャーナリストでさえそういう厳しいコメントをせざるをえないぐらいに今の政治が劣化しているということなのではないだろうか。岸井氏を長いこと見てきたのと同様に、私もこの十数年間ぐらい人並みに政治報道に触れてきたつもりでいるが、その個人的な感覚からしても、いまの政治状況は本当にひどい。信じられないようなことが次々に起きている。そういう状況に、岸井氏も辛口のコメントをせずにいられないということなのではないだろうか。

 また、件の意見広告では、各局のニュース番組における賛成意見と反対意見の比率を計算し、ほとんどの局で反対派の意見が圧倒的に多いことを批判し、「偏った情報しか与えない報道姿勢は、視聴者の「知る権利」への冒瀆ではないでしょうか?」ともいっている。
 この“偏っている”という批判に対しては、もし仮にいまヒトラーが独裁政権を作ろうとしているとしたら、それを批判するべきでないのか、と私は問いたい。もし「中立」を保てなくなるから批判をしてはいけないというのなら、ヒトラーがせっせと独裁体制を作っているのを、黙ってみているしかないということになる。“中立”という言葉が悪政の隠れ蓑になってはならない。安倍政権がこの国の民主主義や立憲主義、平和主義を脅かしていると多くの人が考えている。そのように考えるならば、メディアは臆することなく堂々とそれを批判するべきだ。
 さいわいなことに、言論の自由は安倍総理がもっとも重視する権利である。
 今年「マスコミを懲らしめる」発言で問題となった文化芸術懇話会での議員らの発言を、安倍総理は「言論の自由」という言葉を使って擁護した。あの発言が言論の自由ということで許されるのなら、もう誰がなにをいっても完全に自由である。メディアは遠慮なく安倍政権をガンガンに批判するべきだろう。

 もう一つ、偏向という批判に反論するために、一つの思考実験をしてみたい。
 もし仮に、政府が「総理大臣は自由に人を殺してもいい」という法案を国会に提出したら、どうだろう? 99%のメディアは、それを批判するだろう。では、その批判は中立を侵したことになるのだろうか? どう考えてもノーである。そんな法案は批判するのが当然だ。
 これは極端なたとえだが、要は、法案が批判されるのはその中身が無茶苦茶だからなのだ。政府が無茶苦茶な法案を出して無茶苦茶な審議をしているから圧倒的多数のメディアが批判しているのであって、それは程度の差はあれ「総理大臣は人を殺していい法案」と同じことである。現実の安保法案についていうと、これだけメディアの報道に“偏り”があるということは、それだけ無茶苦茶さのレベルが高い――つまり、「総理大臣は人を殺していい法案」に近い――ということであって、そこを勘違いしてはならない。問題の「放送法遵守を求める視聴者の会」の広告というのは、政府が「総理大臣は自由に人を殺してもいい」という法案を出してきて、みんなが当然のごとく「いやいや、それはおかしい」といっているのに対して「中立じゃない」と文句をつけているようなものなのである。しかも、その呼びかけ人として名を連ねている人たちがとても“中立”と呼べるような顔ぶれではないし、意見広告を載せたのも読売・産経と、安保法案に“一方的に”賛成し反対意見をことごとく黙殺してきた新聞であるのだから、片腹痛いというよりほかはない。つまりは、この人たちは、自分が気に食わないものを攻撃するために“中立”という言葉を恣意的に持ち出しているにすぎないのである。

うたは自由をめざす

2015-12-09 21:01:37 | 音楽と社会
  ゲットーから うたは自由をめざす
  戦場から うたは自由をめざす
                        ソウル・フラワー・ユニオン‘うたは自由をめざす’


 少し前の話になるが、先月14日、SEALDsが中心となって、新宿で辺野古の基地建設に反対する抗議活動が行われた。そこに、ソウル・フラワー・ユニオンのボーカル中川敬氏も登壇したという。そこで今回は、音楽ネタとして、このソウル・フラワー・ユニオンをとりあげたい。
 ソウル・フラワー・ユニオンといえば、政治的なメッセージを前面に出した歌詞と、沖縄をはじめとした民謡や、レゲエ、ソウルなど世界中のさまざまなビートをごった煮にした音楽で知られる。音楽、歌詞ともに非常にラディカルで、日本のメジャーシーンで活動するアーティストとしてはかなり異色の存在である。
 そんな彼らの歌のなかから、まずは「うたは自由をめざす」。


  ちらばって うたは自由をめざす
  混ざり合って うたは自由をめざす
  傷つけあって うたは自由をめざす
  手をとりあって うたは自由をめざす


 この一曲を聴いてもわかるのは、彼らの「ごった煮的」な音楽を構成している要素というのは、徹底して周辺的な音楽であるということだ。クラシックのような正統の音楽ではなく、かつて漂流民がやっていたような周辺的で大衆的な音楽を彼らは志向している。それはまた、権威的なものに対する反抗ということの音楽的な表現でもあり、それこそロックのルーツにあるものなのだ。
 また、彼らは、このブログで以前紹介したカーティス・メイフィールドの People Get Ready を日本語にしてカバーしたりもしている。
 
  旅立とう 思いのまま
  集まろう あの場所へ
  無意味な日々にさよなら
  誰もが同じ祝福を

  旅立とう 祈りをこめ
  集まろう あの場所へ
  涙は海へとそそぎ
  誰もが同じ星を見る

  ピープル・ゲット・レディ 汽車がくるよ
  手ぶらで乗り込もう
  心とディーゼルのハミング
  無賃乗車の 永遠(とわ)の道


 そして、いま私がもっともオススメしたいのが、「極東戦線異状なし!?」。


  のどかな光 さわやかな風
  ああ 極東戦線異状なしって感じやね
  この惑星じゃ 今も子供らが
  ああ 虫けらみたいにママと叫んで死んでいく

  この戦争をやめさせろ
  その戦争を
  あのブッシュ、シャロンみたいな類のごろつきは
  世界のあまたの歌が首根っこをおさえるぜ
  
  あの嘘と欺瞞とカネにまみれた連中は
  世界のあまたの歌が首根っこをおさえるぜ


 
 一応説明しておくと、ブッシュというのはアメリカのジョージ・ブッシュ前大統領で、シャロンというのはその当時イスラエルの首相だったアリエル・シャロンのことである。イラク戦争の張本人であるブッシュ大統領と、インティファーダを引き起こしたシャロン首相を、こうして批判しているわけである。
 これらの歌からは、彼らソウル・フラワー・ユニオンの音楽に対する信念が伝わってくる。
 彼らは、音楽の力を信じている。それが、自由を目指すものであり、世界を闇に引きずり込もうとする力に抗うものだと考えているのだろう。だから、いまの日本の絶望的な状況にこそ、彼らの歌が深くこころに響いてくる。

(事実上の)戦争と(事実上の)徴兵

2015-12-08 19:23:10 | 政治・経済
 今日は、12月8日。
 日本のカレンダーにおいては、真珠湾攻撃によって太平洋戦争の火ぶたが切って落とされた日である。そこで、今回はずばり戦争をテーマにして書く。


 いま世界では、事実上の戦争がはじまっている。
 北アフリカから東アジアにかけての幅広い地域でIS系の組織によるテロが発生し、米ロ英仏ばかりでなく、ドイツでも、後方支援のみという限定つきながら軍事作戦に参加することが議会で決定された。アメリカのオバマ大統領は、執務室からテレビ演説を行い、ISを壊滅させると述べた。
 ここで、一つの疑問がある。
 “壊滅”と口でいうのは簡単だが、本当にそんなことが可能なのだろうか? テロ組織や武装勢力などを軍事力によって壊滅させた例というのが果たしてあるだろうか? 私はちょっと思いつかない。そんな例は過去に一つもない(少なくとも近現代になってからは)か、あるいはあったとしてもきわめて例外的なケースではないだろうか。
 私が思うに、テロリスト相手の戦争が泥沼になるのは、ちゃんと理由がある。
 それは、きわめて単純で、テロ組織は国家とは違う、ということだ。国家であれば、だいたい国民の5%ぐらいもの死者が出れば、その時点でもう戦争を継続できなくなる。太平洋戦争当時の日本でもそうだ。あの戦争は多くの死者を出したが、それでもその当時の日本の人口全体からすれば5%ほど。それが、国家が「もう戦争を続けることはできない」と判断するのに十分だった。
 ところが、テロリストはちがう。
 彼らは、相当な打撃を受けても戦闘行為をやめない。
 多数の犠牲者を出して、国中が日々空爆にさらされるような状況に陥れば、ふつうの国家ならもう降伏する。ところが、それだけの甚大なダメージを与えても、テロリストたちは降伏してくれないのである。だから、テロリストやゲリラ相手の戦闘は泥沼状態に陥る。大雑把な説明だが、歴史上ゲリラを相手にした戦いの多くが出口の見えない泥沼に陥っていることを考えれば、そういう見方もあながち間違ってはいないと思う。最近のアフガニスタンなどもそうで、ISとの戦いも、結局はそういう泥沼となる可能性が高いのではないか。構成員の5%が死んだぐらいでは、テロ組織にとってはダメージのうちにも入らないのである。ところが、国家の側は「5%ぐらいの死者が出るダメージを与えれば相手は降伏する」という国家を相手にするときのセオリーで動いている。そこに誤算があるがゆえに、泥沼の戦争に足を踏み入れてしまう――という構図があるように思える。


 そしてここで、日本がどうなるのかということについても考えたい。
 そうした“テロとの戦い”に日本が参加することはありうるのか。参加するとしたら、日本はどうなるのか。
 考えられるのは、“兵士”の不足である。もし日本が海外の戦争に参加するということになれば、ますます自衛隊のなり手は少なくなっていくだろう。そうなったとき、政府は必要な人員を確保する必要にせまられる。そこでどうするか。
 先日の久留米の集会でも紹介されていたが、防衛省が企業から一定期間自衛隊へ社員を“研修”に行かせるインターンシッププログラムなるものを検討していたことがあきらかになっている。そしてこれは、多方面から指摘されるように、事実上の徴兵制である。
 税制面での優遇措置などがあれば、多くの企業がこのプログラムを受け入れるだろう。そして、新入社員に対して、「ちょっと自衛隊に行ってきてくれよ」という。それを拒否できる社員が果たしてどれだけいるだろうか。おそらく、ほとんどの社員はしぶしぶ従うだろう。そして、そのときたまたま自衛隊が海外派遣されていたら? そういう状況であれば、これまで普通の生活を送っていた若者が、突然戦場に立たされることになるかもしれないのだ。
 “インターンシッププログラム”などというしゃれた言い回しでオブラートに包んでいるわけだが、これを徴兵といわずになんというのか。
 いまの政権は、憲法とのかねあいから徴兵制はありえないといっているが、“事実上”の徴兵制ならば問題はない。企業が自主的にインターンシップ制度を導入する。社員には断る権利もある。そのなかで“自主的に”参加するのだから、強制ではない――こういう理屈で、表向きは“自主的”、実質的には半強制、という事実上の徴兵制ができあがる算段だ。
 無関心層も、このあたりのことは真剣に考えておく必要がある。いくら無関心で戦争なんて関係ないと思っていても、戦争の側は無関心だからという理由であなたを放っておいてはくれない。関心があろうがなかろうが、ひとたび戦争となれば、それはすべての人を巻き込んでいく。だからこそ、そうなってしまう前に、戦争にいたるような道をシャットアウトしておかねばならないのだ。