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時事評論ブログ
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護憲派が増加――自民党の改憲プランに国民は“ノー”といっている

2016-05-03 19:41:53 | 政治・経済
 今日は、憲法記念日だ。
 それにあわせて、例年通り各メディアが憲法に関する世論調査を行っている。そして、それらの調査では、おおむね憲法を変えるべきでないとしている人が多いという結果が示されている。
 注目すべきことは、これまでに比べて護憲派のほうが増えているということだ。たとえば朝日新聞の調査では、「憲法を変える必要がない」は去年3月の48%から55%に増え、「変える必要がある」は43%から37%に減っている。
 これは、昨年の安保論議のなかで「やはり現行憲法のほうがいい」と思った国民が多かったということを示しているのではないか。去年は、安保関連法の審議が大きく注目され、憲法に関する話題も大きくとりあげられた。そのなかで、多くの人が、「現行の憲法がいい」と考えるようになったのではないだろうか。
 こういうと改憲派の側は「メディアの偏向報道のせいだ」というようなことをいうのかもしれないが、それは筋違いというものである。プロパガンダなら改憲派のほうも腐るほどやっているわけで、双方の主張を比べたうえで、多くの国民がいまの憲法のほうがいいと考えているにちがいないのだ。

 その理由のひとつには、自民党の改憲案があまりに前近代的だということがあるだろう。
 なにも9条のことばかりでなく、国民の権利を制限しようとする自民党の国家観自体に、多くの国民が忌避感をもっているということなのだ。

 そして、改憲を主張する議員らの議論に臨む姿勢も、まったくお粗末なものである。
 先月当ブログでお伝えした小林節氏の講演会でも、その話が出てきた。
 彼らは、小林氏を前にしては、批判がましいことはいわないという。ところが、野党議員が出てきて何かいうと、ヒナ壇芸人のようにぎゃあぎゃあ喚きだす。憲法学者である小林氏にへたなことをいうと論破されるのでなにもいえない。それでいて、野党議員相手にはかさにかかって文句をつける――改憲派議員というのは、そんなレベルの人たちなのである。改憲派論壇のエース的存在である櫻井よしこ氏にしても、小林氏から公開討論を申し込まれているが、逃げ回り続けている。ジャーナリスト出身である櫻井氏は、憲法論議では憲法の専門家である小林氏に歯が立たないとわかっているからだ。そうして、自分が勝てる相手だけを相手にしているのである。

 憲法の話ついでに、安保法に対する違憲訴訟についても書いておきたい。
 先月26日に、東京などで違憲訴訟が提起された。今後、全国各地で同様の訴訟を起こしていくという。
 これはこれで意義のあることではあるだろう。しかし、この手の問題に関しては、裁判所が判断を避ける可能性もある。実際、これまでに起こされた同種の訴訟は“門前払い”されているし、仮に門前払いされなかったとしても、いわゆる“統治行為論”で最高裁が判断を回避する可能性もあるといわれている。そうしたことを考えると、安保法廃止のためには、やはり選挙で落とすというのがもっとも手っ取り早いし確実な手段なのだ。
 野党共闘もかなり進展してきていて、先月末の時点で32ある一人区のうち22で統一候補が決定しているという。共産党と共闘すると民進党支持層の保守票が離れていくのではないかという懸念もささやかれていたが、先日の補選をみるかぎりそういうこともあまりなさそうだ。野党は遠慮なく共闘していいし、有権者の側も、安倍政権の暴走を止めたいと思ったら野党統一候補に投票することでじゅうぶんそれを実現できる見通しが立ってきたということなのである。
 ちゃんと投票に行きさえすれば、改憲阻止はじゅうぶんに可能だ。その点に関しては、数字をみるかぎりもう疑念の余地はない。この国を強権的な全体主義国家にしてしまわないために、今夏の参院選はかつてないほど重要な意味をもっている。

災害対応に緊急事態条項が必要なのか

2016-05-01 18:04:16 | 政治
 今回は、熊本地震に対する政府の姿勢について書きたい。前回はオスプレイのことについて書いたが、今回は政府が“緊急事態条項”の必要性に言及したことについて書く。
 地震後の15日の会見で、菅官房長官は緊急事態条項の必要性を語った。「今回のような大規模災害が発生したような緊急時に、国民の安全を守るために国家や国民がどのような役割を果たすべきかを、憲法にどう位置づけるかは極めて重く大切な課題だ」というのである(朝日新聞電子版より)。
 この発言も、「震災の政治利用ではないか」と批判された。
 政府は以前から緊急事態条項の創設を目論んでいたが、震災が起こったのを機に、それを口実として利用しようとしているのではないか――そんな批判が出ている。いちおう公平を期すために書いておくと、これは記者からの質問に対して答えた発言ではある。しかしそれも、政権よりのメディアと事前に示し合わせておいてそういう質問をさせたのではないか、というような疑惑がもたれている。ふつうであればそういうのは「うがった見方」ということになるのだろうが、安倍政権ならやりかねないし、悲しいことに、そういうことをしそうなメディアが存在しているという事実もある。ゆえに、“なかば自作自演”というのも、あながちうがった見方ではないと思えてしまうのだ。

 はたして、あの熊本地震から、「緊急事態条項が必要」という結論が導き出されるのだろうか。
 この間紹介した小林節氏の講演会でも、このことが話題になった。小林氏の答えは、明確に「ノー」である。
 あの震災で、最初に現地対策本部長として熊本入りした松本文明・内閣府副大臣のさまざまな言動が問題になった。テレビ会議で差し入れを要請したぐらいのことはまだいいとしても、避難者が屋外にいる状態を解消しろ、といったのには熊本県知事も激怒したといわれる。避難者の多くは余震が怖くて屋外にいるのであって、そういう現地の事情がわかっていない、と政府側の姿勢は厳しく批判された。
 こうした点を踏まえて小林氏は、災害のような緊急事態では基礎自治体に権限を集中させるような仕組みを作るべきなのであって、緊急事態条項というのはナンセンスだという。そのとおりだろう。現地の事情もよくわからない中央の人間がしゃしゃり出てきて現場の指揮をとるといっても、かえって現地は混乱するばかりだ。現場をよく知っている市町村長に大きな権限を与え、機動的に対応できるようにするべきなのだ。

 ……と、震災のことを書いてきたが、この“緊急事態条項”について本当の問題は、地震対応がどうかということではない。
 菅官房長官の発言が“震災の政治利用”というふうに批判されるのは、実際には彼らが災害支援のことなど考えていないからだ。彼らは彼らが目指す強権的国家体制の一環として緊急事態条項なるものを作ろうとしているのであって、その口実として災害対策というのを持ち出している。だから、「震災を政治利用している」といわれるわけである。

 災害対応ということとを別にして考えてみたときにも、自民党がいうような緊急事態条項というものが本当に必要なのかというのは疑問だ。
 それは、よくいわれるとおり、それによって国民の権利を制限するということの危険があるためだ。そのこととのバランスを考えたときに、緊急事態条項というのはそう簡単に認めていいものではない。
 たとえば、フランスでは、昨年の同時多発テロ以降、憲法に緊急事態条項を盛り込むべきだというような議論が起きていたが、結局、先月末に、オランド大統領は改憲を断念した。捜査機関に大きな裁量が与えられることに反対の声が強く、断念せざるをえなくなったのだ。緊急事態条項の導入は見送られたし、二重国籍者の国籍剥奪なども、人権上の問題があるとして、これに反対して司法相が辞任するなど強い反対があり、実現しなかった。
 これがまっとうな判断というものである。
 いくらテロの脅威といったところで、社会的な自由を制限していくことには慎重でなければならない。まして、現代のテロリスト相手には、厳重な警戒態勢をしいたとしても十分ではない。そのことは、ほかならぬフランスの事例が示している。そうしたリスクをはかりにかけて、二度の大規模なテロに見舞われたフランスであってさえ、その対策として緊急事態条項を創設するのは危険だからやめたほうがいいという結論に達している。それぐらい、憲法に抜け穴をつくってしまうことには慎重でなければならないのだ。

 いつだか、アメリカの現状を描くドキュメントで見たが、「安全のためといって自由を手放していけば、最終的には両方を失う」という言葉があった。社会的な自由を犠牲にしていけば、いつか安全も保障されなくなってしまうのである。アメリカでは、2001年の同時多発テロ以降、そういう動きが進んできた。その結果として、たとえばNSLのことなど、さまざまな問題が指摘されている。テロによって引き起こされた一時的な社会不安によって、かえって社会全体を不自由にするような法制度を作ってしまったということが、反省されている。そういう状況をみれば、いまの日本で緊急事態条項を創設するなどというのは、まったくナンセンスである。