最近日本の報道をインターネットで見ていると若い人の自殺が多いですな~。親爺も若かりしころは片思いの人に振られてア~死にたい、などと思った事があったね~。でも良く考えてみると自殺をする人はそうは思わないのかも知れないな、きっと生きたいと思わないから自殺するのかもね。よく一緒に飲みに行く溶接屋がこの前、家に遊びに来たのですが、たいそうの派手好き女好きで、そいつの話によると、仕事を独立したてのころ作業場に置いてあった組み立てた窓やドアなどが何者かに盗まれたそうな、翌日には建築現場に納めなくてはならないものだったらしい。彼は途方に暮れ、いままで小さいときから溶接屋の見習いとして給料もなしに働いてきて、やっとの思いで独立したらこのような有様、もう生きる望みがなくなった~、と言って作業場の柱にロープをかけて死のうとしてるところに父親が来て、この馬鹿たれが~、と言ったかどうかは解からぬが、こう言ったそうな、泥棒はお前の命までは持っていかなかったのに何でお前は死のうとするのだと。その言葉に、そうだ、命と腕があれば又やり直せる、と又一心不乱にチャレンジしたそうな。そのおかげで溶接屋は繁盛し、何人もの使用人を使い、昼間から飲んでは女を口説き、今に至っておりまする。
ところで、親爺の好きな人生訓の一つに人生如水と言う言葉がありまする。水は何処にあるかというと水道の蛇口ではなくコンビニでもないわけで、川あるいは井戸から来るのであるが、水を人生に喩えた言葉でありまして、空に雲が沢山集まりますと雨や雪になり地上に降って落ちると水と成りなりまして、山の上に落ちた雨や雪は清水となり渓流と成り大河となりて、やがて海に至るまで万物に大いなる恵みを与えてその使命を終える。が、しかし、人生はこのように奇麗事では済まされないのです。山に落ちない雨や雪も沢山ありまして、それはそれで万物には多大なる恵みを与えているのでしょうが、泥沼などに降った雨などは悲惨で、やがて腐ってボウフラや伝染病を媒介しますし、大雨などは洪水を起こして大きな被害を引き起こします。もし、親爺が水だったとしたら水としての存在は短かくてもアフリカの干ばつ地帯に降って人や家畜、作物の命の源になりたい。などとかっこいい事を言いながら今こうしてブルキナファソで家の庭の生垣にバケツで水を注いでおりまする。その生垣にも沢山の害虫が付くのですが、その虫の憎たらしい事といったらないのです。指でつぶそうとして近づくと駆け足で逃げるのです。親爺はその時ふと、こんな小さな虫でも殺されるのは嫌なのだ、死ぬのが嫌だから逃げるという事を知っているのです。ということは~、頭脳が発達している人間だけが自殺をする訳でして、ほかの動物は何かの弾みで感覚が狂って死ぬ事はあっても自殺などしないのです。そこで、
日本の若者の諸君に親爺は声を大にして言いたい、勉強は程ほどに、頭でっかちになるな、いい人ぶるな、格好つけるな、頭や顔など少々不細工でいいから今生きているという現実をよ~く実感し、生き詰った時、少し勇気を出して自分の殻を脱いで見るのもいいのではないのかな。
世は、現象で成り立ち、全てのもの、目的が無くなれば、それは、それで、お仕舞い。
ところで、親爺の好きな人生訓の一つに人生如水と言う言葉がありまする。水は何処にあるかというと水道の蛇口ではなくコンビニでもないわけで、川あるいは井戸から来るのであるが、水を人生に喩えた言葉でありまして、空に雲が沢山集まりますと雨や雪になり地上に降って落ちると水と成りなりまして、山の上に落ちた雨や雪は清水となり渓流と成り大河となりて、やがて海に至るまで万物に大いなる恵みを与えてその使命を終える。が、しかし、人生はこのように奇麗事では済まされないのです。山に落ちない雨や雪も沢山ありまして、それはそれで万物には多大なる恵みを与えているのでしょうが、泥沼などに降った雨などは悲惨で、やがて腐ってボウフラや伝染病を媒介しますし、大雨などは洪水を起こして大きな被害を引き起こします。もし、親爺が水だったとしたら水としての存在は短かくてもアフリカの干ばつ地帯に降って人や家畜、作物の命の源になりたい。などとかっこいい事を言いながら今こうしてブルキナファソで家の庭の生垣にバケツで水を注いでおりまする。その生垣にも沢山の害虫が付くのですが、その虫の憎たらしい事といったらないのです。指でつぶそうとして近づくと駆け足で逃げるのです。親爺はその時ふと、こんな小さな虫でも殺されるのは嫌なのだ、死ぬのが嫌だから逃げるという事を知っているのです。ということは~、頭脳が発達している人間だけが自殺をする訳でして、ほかの動物は何かの弾みで感覚が狂って死ぬ事はあっても自殺などしないのです。そこで、
日本の若者の諸君に親爺は声を大にして言いたい、勉強は程ほどに、頭でっかちになるな、いい人ぶるな、格好つけるな、頭や顔など少々不細工でいいから今生きているという現実をよ~く実感し、生き詰った時、少し勇気を出して自分の殻を脱いで見るのもいいのではないのかな。
世は、現象で成り立ち、全てのもの、目的が無くなれば、それは、それで、お仕舞い。