西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

ぶるきな親爺学

2008-01-19 | Weblog
世の中には物や事柄を表すのに価値という言葉があります。人間の価値や物の価値、そして偉業やシステムなどの目に見えない価値。良ければ価値があるといい、悪ければ価値がないという。又、生きる価値があるとか価値が無いとか生命の存在にまで及び使われますが、果たして価値とは何であるか、そして何を基準にしているのでしょうか。
たとえばオリンピックは参加することに意義があるといわれますが、入賞しなければ価値が無い。仕事はまじめだが結果が悪くては価値が無い。悪人は人間としての価値が無い。
広辞苑で調べてみると誰もが良いと承認すべき普遍的な性質、真、善、美、とか、人間の好悪の対象になる性質とあります。となると人間を基準にしているようにも捕らえられますが抽象的で何となくピンと来ませんし、人間にとって価値の無いものでも、他の物事、すなわち動物や環境に価値があるものもあるのではないか、ということも考えられます。
勿論人間に良いことなのか人間以外に良いのかは必然的に人間が考えることといえるのですが、他の動物の間でも本能的に価値の無いものには、きっと興味は示さないのでしょう。
 たとえば、「付加価値」や「価値を見出す」という言葉があります。これは一見なんでもない物事が、ひらめき、すなわちインスピレーションがあって価値のあるものごとへと変化することですが、いうなれば物であれ、人間であれ、それぞれが価値を見出し、そしてそれを創造したり具現化したりします。その「インスピレーション」が、ある種の「エネルギー」を伴っていると考えられるのです。
私はこれを略して「インスピルギー」と呼ぶことにします。
例えば、土に埋もれた落ち葉が長い間に自然の力が働き石になり、やがて山が風化し、それを山に暮らす凡人が見つけ珍しい石だと思い拾って家に放り投げて置き、ある日、偶然山小屋を訪れた鉱物学者が質のよいダイヤモンドだということを発見し、それをたまたま聞いた知り合いに悪人がいて、こっそり盗んで宝石業者に売り、宝石業者は腕の良い職人に頼み、素晴らしい出来のダイヤモンドには名前が付けられ、お金持ちに買われ、それを身に付けることによって周囲の人々からの憧れがいっそう強くなる。などというストーリーも無きにしもあらず。
 さて、このストーリーの中でインスピルギーが繰り返されているのを、皆さんはお解かりになることと思います。葉っぱが石(融合力)、山男(労力)、鉱物学者(知識力)、泥棒(労力)、宝石商(鑑定力)、宝石職人(技術力)、お金持ち(財力)により価値を見出されて身に付ける人も大勢の人から憧れのまなざしを集めるようなダイヤモンドとなったわけで、これらの物事には努力や運、善悪とは別の連続したインスピルギーが働いて、少なくとも価値の有無や上げたり下げたりすることに深くかかわっていることに違いないと思うのです。私たちに備わっているインスピルギーはどのように他と連携しているのか、又他のインスピルギーとどのように連携しているかということで価値がいろいろと変化してくるのです。「価値」はインスピルギーによりコントロール出来るのです。
 ではどのようにしてインスピルギーを高めるか、についてお話し致しましょう。
それはごく簡単なことで、心を素朴にして真直ぐにする事です。
一時でも、いわゆる子供のような「素直な心」になることです。
これによりあなたのインスピルギーは段々と高まっていき、何に価値があり何が無いかがわかると同時に価値のある物事につながっていくことができるようになります。
例えば先にあげたストーリーのキャストたちは皆、素直にその物事を遂行しています。全部一人で抱え込まず、それぞれが連携しているわけです。ですから価値があるのです。
これによって誰が一番良かったか悪かったかは別問題で価値が上がったのはダイヤモンド自身なのです。金は一過性のものだし命や技術も何時かは廃れてしまいます。まして、キャスト同士が争ったりしたら価値は無になるどころかマイナスになってしまいます。要するにインスピルギーがマイナスになってしまい全ての連携がうまく行かなくなって仕舞いには自分までもが消滅することになってしまうのです。
私は心理学者でも神学者でも宗教学者でもありませんが、敢えて言えば自然共存学の受講生です。勿論そのような学問は有りませんし生徒は私一人だけですが。
最後に、私の価値はあなたと私自身ですが、あなたの価値は何ですか。