ブルキナファソを語るには、現在国民的な英雄とされているトーマスサンカラを抜きにしては語れません。 彼はアフリカのチェ・ゲバラとして現在でも多くの人々が慕っています。彼の生涯を知るほどブルキナ親爺の故郷であります坂東市の武将[平将門]を彷彿させられます。<o:p></o:p>
トーマス・サンカラ Thomas Isidore Noel Sankara
1949年12月21日~1987年10月15日
→ Une Seule Nuit 《サンカラが書いた国歌》
トーマス・サンカラはブルキナ・ファソ(かつてのオート・ヴォルタ)の1983年から1987年までの指導者で、1945年12月21日、ヤコで生まれ、1987年10月15日、ワガドゥグーで死んだ(暗殺された)。
個人的カリスマ性とレーニン主義社会組織の有能な結合で彼の政府は腐敗との闘いと、教育、農業そして女性の地位改善のために大いなイニシアチブをとった。
彼の革命的計画は伝統的指導者と国の数的には少数だが強力な中間階級から大きな反対を引き起こした。
このことと統治軍事政権の急進的集団とより保守的集団の間の軋轢のため、彼は没落し、1987年10月15日の流血のクーデターで暗殺された。
〔幼少期〕
トーマス・サンカラ、通称トム・サンクはローマン・カトリックの家庭に生まれ、民族的にはモシ族の女性と牧畜フラニ族(Silmisi)の男性との通婚によって形成された集団であるシルミ-モシ(Silmi-Mossi)族であった。
シルミ-モシはモシ族のカーストのなかでは最も不利であった。
(モシ族はブルキナ・ファソのワガドゥグーを中心に住む農耕民で、支配階級はムスリム。
フラニ族は周辺のナイジェリア北部やセネガル・ギニア・マリに広がり、イスラム教徒で牧畜フラニと都市フラニに分かれる。)
初等教育はガワの学校で受け、高校は国の第二の都市であるボボ=ディウラッソで受けた。
彼の父もまた兵士で第二次世界大戦の間フランス軍に従軍しナチスに抑留された。
サンカラの家族は彼がカトリック司祭になることを望んだ。
彼はマルクス主義の確信にもかかわらず、決してカトリックの信仰を捨てなかったように思われる。
ムスリム人口の大きい国にふさわしく、彼はコーランにも精通していた。
〔軍人経歴〕
オート・ヴォルタは1960年8月5日、モーリス・ヤメオゴを大統領として独立した。
ヤメオゴは野党を禁止し権威主義的姿勢をとったので大衆の不満を買い、1966年1月軍が介入し、ヤメオゴを辞任させ、サングウレ・ラミザナ中佐が政府を形成した。
サンカラは1966年、ワガドゥグーの軍学校に入り1969年に卒業し、1970年士官訓練のためマダガスカルのアンチラベに送られ、そこで1971年と1972年の大衆暴動を目撃する。
1972年オート・ヴォルタに戻り、そのあとフランスのポーへパラシュート訓練にいった。
1974年、マリとの国境戦争に参戦する。
彼は首都のワガドゥグーで有名な人物となった。
彼が礼儀正しいギタリストで(“Tout-a-Coup Jazz突然ジャズ”という名のバンドで演奏していた)モーターバイクが好きだったということが彼のカリスマ性に寄与している可能性がある。
1976年、彼はポーのコマンド訓練センターの指揮官になった。
1978年にモロッコのラバトのパラシュート学校でブライセ・コンパオレと出合った。
オート・ヴォルタはラミザナのもと1970年に民政化したが、1974年には再び軍政に戻り、1978年に再度民政化したが政情は安定せず1980年11月25日、サイエ・ゼルボ大佐による無血クーデターが起こった。
サイエ・ゼルボ大佐の大統領期間中に若い士官集団は秘密組織”共産主義士官グループROC”を形成した。
最も良く知られたメンバーはアンリ・ゾンゴ、ジャン・バプティスト・ブカリ・リンガニ、コンパオレとサンカラであった。
〔政府での地位〕
サンカラは1981年9月、軍事政権で国の報道秘書官に任命され、最初の閣議にバイクで出かけた。
しかし彼が見た体制の反労働者傾向に反対して、”大衆に猿轡をはめる人々に不幸を”と宣言して、1982年4月21日に辞職した。
その後1982年11月7日のクーデターで大医師ジャン・バプティスト・ウエドラオゴが権力につき、1983年1月、サンカラは首相になった。
1983年3月、ニューデリーの非同盟諸国会議でフィデル・カストロとサモラ・マシェル(後のモザンビークの大統領)、グレナダの首相モーリス・ビショップと出会う。
しかし5月17日、フランス大統領の息子、アフリカ関係顧問ジャン・クリストフ・ミッテランの訪問のあと、解職され、自宅拘束化におかれた。
ジャン・バプティスト・ブカリ・リンガニもまた拘束された。
これにより大衆暴動が起こった。
〔大統領〕
ブライセ・コンパオレにより組織されたクーデターにより民族革命評議会CNRが権力を握り1983年8月4日、33歳でサンカラは大統領に指名された。
クーデターはリビアによって支援されていた。リビアは当時チャドでフランスと戦争の瀬戸際にあった。
サンカラは自分自身を革命的とみなし、キューバとガーナの軍事指導者ジェリー・ローリングスの手本に鼓舞されていた。
大統領として彼は”民主的・人民革命RDP”を推進した。
1983年10月2日サンカラはCNRの名で革命の方向性の演説DOPを行い、革命イデオロギーは反帝国主義と定義された。
彼の政策は腐敗との闘い、森林再生、食糧危機回避と教育と健康問題に対し最優先に向けられた。
人民革命会議TPRが設立され1984年1月3日最初の大会が開催される。
〔国際関係〕
1983年9月、ポーでサンカラはローリングスと会う。
12月にはキューバと科学・経済・技術協力協定を結ぶ。
12月にはまたアンゴラの大統領エドワルド・ドス・サントスがワガドゥグーを訪問する。
1984年2月、ローリングスがワガドゥグーを公式訪問。
3月、アルジェリア、モーリタニア、アラブ・サハラ民主共和国を訪問。
6月、アフリカ公式旅行に出発し、エチオピア、アンゴラ、コンゴ、モザンビーク、ガボン、マダガスカルを訪問。
9月、キューバ訪問。
10月、サンカラは西アフリカ経済共同体の議長になる。
10月4日、第39回国連総会で演説。
11月には中国を訪問。同月、アディス・アベベのOUAサミットに出席。
1986年8月ニカラグァ大統領ダニエル・オルテガが訪れる。
9月、ジンバウエのハラレの第8回非同盟サミットでサンカラが演説。
10月、ソ連訪問。
11月、キューバ、ニカラグァ訪問。
〔首長の無力化〕
政府は義務労働や部族税を受け取る権利のような部族長の持っていた多くの権力を抑圧した。
CDR(革命防衛委員会)が人民大衆組織として形成され武装された。
いくつかの地域では彼らは暴漢集団に堕落した。
サンカラの政府はSERNAPO(国家人民サービス)により徴兵制を始めた。
両者は軍隊の力に釣り合うものであった。
1984年、最初の記念日が近づき、彼は国名を国の主要な2言語のモシ語とディウラ語で”高潔な人の土地”と言う意味のブリキナ・ファソと変えた。
彼はまた新しい国旗を制定し新しい国歌(Une Seule Nuit:たった一夜)を作詞した。
〔女性の権利〕
サンカラの政府は多数の女性を含んでいた。
女性の地位の改善はサンカラの明白な目標の一つであった。
西アフリカでは先例のない政策優先であった。
彼の政府は女性割礼を禁止し、一夫多妻制を非難し、避妊を推進した。
ブリキナ・ファソ政府はまたエイズがアフリカにとって大きな脅威であることを公式に確認したアフリカ最初の政府であった。
サンカラは宣伝の優れた感覚を持っていた:彼は見世物的率先を行い、それが彼の人気に寄与し、ブルキナ人革命への国際報道からの注目をもたらした。
・彼は政府のほとんどのメルセデスを売り、ルノー5(当時ブルキナ・ファソで売られていた最も安い車)を大臣の公用車とした。
・彼はすべて女性のモーターバイク個人護衛隊を作った。
・ワガドゥグーの軍の食糧店をすべての人に開かれた国有スーパーマーケットに変えた。 (国で最初のスーパーマーケット)
〔暗殺〕
1987年10月15日、サンカラは他の12人の士官とともに彼の以前の同僚ブライセ・コンパオレにより組織された
クーデターにより殺された。
周辺国との関係悪化がコンパオレによって与えられた理由のひとつであった。
クーデターのあと、サンカラが死んだと知られたにもかかわらず、いくつかのCDRは軍と数日間武装抵抗に乗り出した。
サンカラはすばやく目印のない墓に埋められた。
彼の死の一週間前、サンカラは国民に演説し、”革命の間、人間を殺すことはできても思想を殺すことはできない”と語った。
〔エピソード〕
”世界の半分が餓えるのはなぜか”という著書で有名なスイスの大学教授で反グローバリズムの活動家であるジャン・ジグレール教授とゲバラ、サンカラのエピソードは著名である。
若きジャン・ジグレールはキューバ革命にあこがれ、1964年、UNCTADでジュネーブに来ていたゲバラに逢い、キューバ革命への参加を希望する。
それに対しゲバラはジャン・ジグレールに対し君の戦う相手は多国籍企業であると諭す。 時にゲバラ36歳、ジャン・ジグレール30歳。
1987年、ジャン・ジグレールとサンカラはアディス・アベベで出会う。
サンカラはジャン・ジグレールに問う。
「チェ・ゲバラは殺されたとき、何歳でしたか」
ジグレールは39歳と8カ月だと答える。サンカラは
「そうですか。私はそれまで生きていられるでしょうか。」と答える。
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