わが子よ。罪びとたちがあなたを惑わしても、
彼らに従ってはならない。
もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。
われわれは人の血を流すために待ち伏せし、
罪のないものを、理由もなく、こっそりねらい、
よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、
墓に下る者のように、
彼らをそのまま丸のみしよう。
あらゆる宝物を見つけ出し、
分捕りもので、われわれの家を満たそう。
おまえも、われわれの間でくじを引き、
われわれみなで一つの財布を持とう。」
わが子よ。
彼らといっしゃに道を歩いてはならない。
あなたの足を
彼らの通り道に踏み入れてはならない。
彼らの足は血を流そうと急いでいるからだ。(箴言1章10節~16節)
サッカーの親善試合で韓国に行っていた高校生たちが集団万引きをした言う。
その学校の先生の釈明・お詫び記者会見の一部がテレビで流れていた。
少しだけ、気になった言葉がある。
「どうやら、流されて、その場の雰囲気で・・(してしまったらしい)」
代理で謝るのなら、真摯に謝罪を表明すべきではないのと驚いた。
代わりに出てくると言うのは、責任を代理しているはず。
流されたかもしれない。仲間同士でつい誘い合ったかもしれない。
だから、深刻なのだというのがわかっていない。
若い人には、誘惑がいつもついてまわる。
回りが、おいしい話で誘うのはもちろん、
若さの中に、いろんな衝動がある。
だからこそ、箴言は、子どもに繰り返して言い聞かせるよう。
父親(大人)に戒める義務が記されている。
3000年も前から、親の責任はあまり変わっていないらしい。
父親(大人)が子どもを叱る、
その義務は、いつの間に、失われてしまったのでしょう。