演劇で、ホン(脚本)の次に大切なのは、
観客です。劇は、客席との間で成り立つ芸術です。
と、言われれば、
たしかにその通りだと思うのです。
公演費用の問題だけではありませんね。
音楽や演劇にはぜったいに場を共有する「観客」が必要です。
それで、落語の「寝床」ではないけれど、無料招待して人を集めてでも、客席に並んでもらうのです。
文学や美術などは、作家や画家の創作時間に同時に、顧客が
その場に、居合わせなけばならないわけではありません。
私は、歌も人前では歌えませんし、朗読をしたり、
意見を述べたりするのも苦手です。――異論がある方がおられるかもしれませんが――!!
私がパフォーマンスが苦手な理由は、たぶん、
「恥ずかしい」。
「人に受けいれられるかどうか心配」「冷たい視線」などなど。
ところが、歌手とか俳優さんがインタビューなどで答えています。
「皆さんが応援して下さるので」
「お客さまが後押しして下さって」
もし、客席が、演じる人たちの味方であれば、たしかに、舞台芸術は幸福な世界ですね。
いえいえ、仮に敵意があっても、そこに、何らのコミュニケーションが成り立つなら、
それが、醍醐味なのでしょうか。
★ ★ ★ ★★
いま。私たちが挑戦している聖書劇は、観客との関係では、
一般に言われる演劇より、楽であるかもしれません。
教会内で演じられるので、
チケットを売らなくても、わざわざ招待しなくても、一定の観客は保障されています。
主題が聖書であることも、ほぼ了解している観客ばかりですから、
辛辣な「視線」や「批判」もあまり心配しなくて済みます。
それでも、本番は大変な緊張をはらみます。
ふだんの劇は、スキットといって、せいぜい10分ほどなのですが、その間に、客席と舞台が
すっと強い糸で結ばれるとき、
私たち作る側は、ふと涙が出る思いになります。
時間をやりくりして、キャストを引き受けて下さった人たち、いつも素人俳優に、演技をつけ、
ほめたり叱咤したりして、少しずつ「役者」にしていく演出家Yさん。
芝居が終わって、場内が明るくなったとたん、客のみなさんがほっと息を抜く
かすかなざわめき。
なるほど、これが芝居!
この瞬間、「人は結ばれるのだなあ」と思うのです。