ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

もう元には戻れない。すべては運命なのだ!

2020年05月28日 | 介護
私が母のもとに生まれたことは運命なのだ。
ある意味宿命なのだ。
今更それを変えることは出来ないのだ。
母はこのところことあるごとに32年間も育ててやったと言ってくる。
育ててはくれたが育て方は間違っていた。
自分の育て方が正しと思って育てていたのだ。
一つも間違っていないと思って育てていたのだ。
母の考えや意見はどこかの国の独裁政権のごとく家にはびこっていた。
逆らっても無理なのだ。
酒とたばことギャンブルが好きな父と結婚し、常にパートで働いてきた。
子育てをし、家事をし、働いていた。
ましてやそこには母が幼くして実母を亡くし、義母に育てられた経緯がそこにあるのだ。
女学校を出るとすぐに母は働いた。
妹や弟が出来ると母は仕事を辞め実家に帰されるのだ。
そしてまた働く。
働いた金は仕送りもするのだ。
次から次へと生まれる妹や弟を背負って幼いながらも家事をする。
遊びにも行かれない。
そんな育った境遇にもあるのだと思う。
実母の愛情を知らない。
娘の私に対する愛情の注ぎ方をある意味はき違えているのだと思う。
私は母の言いなりになって育った。
逆らえど逆らえど無理だったのだ。
母好みの女の子に仕立て上げられ育てられ、すべてを管理されて生きてきたのだ。
ここにその例をあげたら枚挙にいとまがない。
最近だって夫婦は一緒に寝るものだと言って来た利、一緒に風呂に入れと言って来たりする。
たとえ旦那のいびきがうるさくても妻の歯ぎしりがひどくても一緒に寝るものらしい?
風呂がどんなに狭くても夫婦は一緒に入るものらしい?
すべてにおいて矛盾している。
私の主人の給料の額を聞いてきたり、ボーナスが出たかと聞いて来たりもする。
果ては給料の使い方にも文句は言ってくる。
貯金がいくらあるかも聞いてくる。
買ってきたものには決まって文句を言う。
作った食事にも文句を言う。
嫌いな食べ物には文句を言う。
入れ歯なので噛めないものにも文句は言う。
私が出掛けると言葉では言わないが、上から下まで眺めてファッションチェックまでされるのだ。
美容院に行く。
帰ってくると私の髪形に文句を言う。
どこへ行く?
誰と行く?
何しに行く?
何時に帰る?
は、定番です。
帰ってきたら何を食べたか?
何を買ったまで聞いてきます。
若いころ彼氏が出来れば勝手にデートの約束をしてきたことに怒り、帰ってきたらデートの内容まで聞かれる始末でした。
母が認知症になったら言われたことは女性の門限は5時です。
そうです。17時です。
その後、私の消灯時間を19時と決められました。
もう、夕食を5分で食べる始末です。
いつまでも食べていると目で合図をするのです。
私は5分で夕食を済ませ、5分で片づけ、明日のお米を研いで風呂を沸かして、自分は入らずに寝ると言うことに!
そのうち「なんで風呂に入らないんだい?」ですからね。
夜中にこっそり10分の入浴です。
そのうち消灯時間が21時になりました。
もう、母のことを上げれば本当に枚挙にいとまがないのは事実です。
家事の仕方にも文句は言われます。
掃除に洗濯その他いろいろ母なりのやり方があるようで、文系の利器は嫌がります。
私たち夫婦は家の中で息を殺して暮らしています。
そもそも私は子供の頃から芸能人がすきでした。
その芸能人の追っかけをすることはいまだに母は嫌がります。
後援会に入ること。ファンクラブに入ること。
嫌がります。
ライブに行くこと。
コンサートに行くこと。
劇場に行くことも嫌がります。
したがってうそをついて行く。
3回行っても1回だと言い張る。
お金は貯めるものだと思っているのです。
私がこうしてブログをしていることもSNSをしていることも母には内緒です。
スマホを持っていること。
パソコンを使うことも反対されています。
延々と通っているパソコン教室もやめてほしいようです。
せっかく入った地元の高齢者大学もやめてほしいようです。
私がkindleで本を2冊も作ったこともLINEのスタンプを作ったことも内緒です。
言えば反対されることは目に見えています。
今、私がシャンソンが好きでシャンソン歌手のライブに行っていることも内緒です。
浪曲が好きで木馬亭に行っていることも内緒です。
断りもなく師匠の後援会に入れてもらいました。
すべて内緒です。
そんなわけで私は結婚して10年目に母と同居し、その後、更年期と母との同居からくるうつ病になり、心療内科に通っています。
今は症状は落ち着いていますがいまだに病院には通っています。
そんな母に育てられた娘はこんなおばちゃんになりました。

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人前で泣くのは恥?

2020年05月28日 | 介護
だいぶ以前に父の姉の旦那さんの葬式が東京のお寺であった。
そのころは母もまだ歩けたので、母と二人で参列した。
葬儀の最中父の姉は嗚咽して泣いていた。
それを見た母は私に小声で「葬式にはみっともないかな泣くな!」と、言って来た。
その言葉が私の頭の中にあったので、私は自分の父の葬式に一つも涙を見せなかった。
泣いたら母に何を言われるかと思うと涙は出なかった。
弟は四十九日の納骨の時に大勢の親せきの前であいさつをしながら泣いた。
母はそれを止めることなく見ていた。
私はその時も泣かなかった。
本当のことを言えば思いっきり泣きたいと思ったが、泣けば母に何を言われるかと思うと、泣けないでいた。
母曰く人前で涙を見せるのは馬鹿だと言う。
関西ならばアホだということだろう。
数年前に主人の母が亡くなった。
温厚な誰からも好かれる母だった。
いつも愛想がよくて人気者だった。
その日、私は葬式で少しだけ泣いた。
なぜならその葬式には母は列席しなかったのだ。
私は今、思いっきり誰かの胸にすがり声を上げて泣きたいと思う。
しかし泣くことは許されないのだ。
込み上げる涙を必死にこらえ不通を装う。
これこそ一番酷なのだ。
平静を装う。
冷静を保つ。
今の私には一番酷なことなのだ。
泣くことは母に言わせると美徳ではなく恥なのだ。
言いようもない悲しみが込み上げてきても涙を見せることもこぼすことも許されないのだ。
今朝の義兄の電話で施設にいた義父が老衰で亡くなったと言う知らせを聞いた。
95歳だった。
定年まで国鉄で働いていた。
まじめで余計なことは言わない義父だった。
義母と義父は仲の良い夫婦だった。
義父は元気なころは祭りの役員をしていた。
八雲神社のにわか神主も祭りの時はしていた。
年末は氏神様の愛宕神社の手伝いもしていた。
町内会の役員もしていた。
まじめでおとなしくて余計なことは言わないタイプの人だった。
95歳の死因は老衰です。
このご時世だからと葬式は家族葬にするそうです。
私にとっては大事なお父さんでした。
実の父を亡くしてたとえ義父でも大切な父でした。
嫁に来た手の頃一緒に笠間稲荷に行ったことがありました。
菊人形を見て、義父は孫への土産を買い、遠い昔の思いです。
その後、義兄が歌舞伎のチケットをもらったけれど見に行けないのでと義父と浅草公会堂に歌舞伎を見に行ったこともありました。
どうも兄夫婦には気を遣うらしく、兄夫婦が留守の時に呼んでくれて食事をしたことも…。
私はこの家に嫁に来たことは良かったです。
素敵な両親に恵まれたのです。
しかし今、私は泣くことは許されないのです。
本当は泣きたい気持ちをぐっとこらえています。
なぜ葬式に泣くのはいけないのでしょう?
個人を忍んで泣くことは許されないのです。
それはみっともないことで、バカのすることだと…。
そんなわけで喪中になりました。
もしかしたら行きたかった木馬亭にも行かれないかも知れません。
行く予定にしていたシャンソニエにも行かれないかも知れません。
実の父が亡くなりたった一人お父さんと呼べる人も亡くなりまでぃた。
泣くことは母に言わせると美学ではないのです。
人前で泣くことは恥なのです。
涙は人に見せるものじゃないようです。
今、私はどこかで思いっきり号泣したい!
主人の父は大好きでした。

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行きたかった和裁の専門学校

2020年05月28日 | 介護
高校3年生の時に進路を決めるにあたって和裁の専門学校に行きたかった。
進路指導の先生とも相談し、そのころ練馬にあった吉井という和裁の専門学校を先生は進めてくれた。
家庭科の先生だった。
もう、専門学校に行ってきちんと和裁を習って着物の仕立て職人になれば、将来は結婚できなくても生計は立てられるだろうと思っていた。
他にも和裁の専門学校を出て、手に職を付けたら働いたお金でたった1枚反物を買ってあの島倉千代子さんに着物を仕立ててプレゼントしたいと言う夢があったのだ。
しかし、そのころ住んでいた自宅からは練馬の吉井は遠かった。
同級生といくつか専門学校を見学して回る。
どこも文化祭をめがけて行った。
同級生はそれぞれ和裁やら洋裁やら調理師やらの専門学校に行くか就職するかだった。
武蔵野市の二葉も見学した。
ここは和裁のほかに洋裁と調理師や栄養士を養成するコースもあったのです。
渋谷にある田中千代も見学した。
ここは洋裁の学校だった。
渋谷は清水とき着物学院も行った。
ここは子供の頃に通っていた小学校の側だった。
どちらにしても和裁の学校に行き、手に職を付ければ将来は困らないと思っていたのだ。
それが両親の反対にあい、特にそのころ貧乏でお金のない我が家は娘を専門学校に行かせることは無理だったのかも知れない。
とにかく父親の反対にあい、母が私の見方をしてくれるわけでもなく、私は泣く泣く和裁の専門学校に行く道をあきらめたのだ。
そのころ、クラスの大半の同級生は進学か就職が決まっていて、私が仕方なく就職先を探すも残っていた会社が後にも先にもそこしかないと言うような会社だった。
入社して半年もしないうちに会社が傾いているということがわかり、私はうそをついて会社を辞めることになるのだ。
その会社は私が辞めたほぼ2年後に倒産してしまう。
どうしても和裁の専門学校に行きたかったが、和裁の学校はすっかりあきらめることにした。
やりたいことはすべて親に反対されて育ってきた。
自由のない暮らしを強いられていたのだ。
和裁の専門学校に行かせてもらえなかったので、お裁縫というものが苦手です。
恐ろしいくらいに苦手です。
そもそも運針というものが出来ません。
指ぬきを使っての運針が出来ません。
最近は便利なものでYouTubeなるもので運針の正しいやり方まで教えてくれます。
そのYouTubeを見て、指ぬきを使って運針の練習をするも、出来ないことが判明しました。
情けないね。
62歳のおばちゃんは運針一つも出来ないんだよ。
自己流でした。
さんざん自己流でした。
もしも和裁の専門学校に行っていたらこんなことは無かったよね。
YouTubeを見て初めて気が付く始末です。
それから夜な夜なYouTubeの運針の仕方を見て練習するも、無理でした!
頑張っても無理でした。
恥ずかし話、お裁縫は自己流でした。
母はお裁縫出来るんですよ。
女学校出てから洋裁学校にそのころあった速成課という半年間通うと言うコースに通っていたそうです。
和裁は下宿先の盲人のおばあちゃんから習いました。
おばあちゃんは目が見えていたたときは和裁の先生だったそうです。
満州から引き揚げて来たときに見えなくなったそうです。
母はお裁縫出来るんですよ。
子供の頃はワンピースも作ってくれました。
着物のウールの着物や浴衣は作ってくれました。
なのに私ときたらお裁縫が苦手!
いやあ、今更ながら和裁の専門学校に行きたかったと思うのです。
これほどまでにお裁縫が出来ないのに、自己流なのにマスクを縫うということをしています。
いやあ、縫っている姿は他人様には見せられないですね。
もう、62歳は運針で挫折!
62年間自分の運針が間違っていたことに気が付きませんでした。
今更和裁の専門学校にも和裁の教室にも行かれそうもないので、自己流でもマスクは作ると決めました。
残っている木綿の生地の活用ですね。

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