ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

こっぴどく叱られた!

2023年10月05日 | 日記
ある時主の留守に掃除も終わり掃除機を片付けずに座っていた。
もしかしたらこっそりビデオを見ていたかも知れない。
そこへ主が帰ってきた。
もちろんこっぴどく叱られた。
頬を殴られたと思う?
私はその場で号泣し謝罪をした。
二十歳そこそこの小娘に仕事は想定外で辛かった。
ましてや憧れの他人は連日仕事で帰っては来ないのだ。
帰ってきても次の日が乗り日で支度をして次の日は仕事に行き、何日も帰ってこないのだ。
私は連日ホームシックだった。
主の留守にそのころ友人だった他人に電話をして電話口で泣いた。
すべては想定外だった。
連日辛かった。
仕事は失敗の連続だった。
全自動の洗濯機で主分けをしないで洗えば下着に風呂敷の色が染まり、慌てて漂白剤をかける始末でした。
料理は一切できなかった。
主と主の内縁の夫が料理をしていた。
主も内縁の夫も外食が多かった。
私は残り物を食べる日々だった。
赤坂のお店から届いたふぐちりも私の口には入らなかった。
伊賀町の町長が持参した伊賀牛も私の口には入らなかった。
残り物を食べる。
わずか1か月と1週間で私は数キロ痩せてしまったのだ。
話が違うぞと言うことは主には言えなかった。
そんなある日主は1日休みをくれた。
私は実家に帰ったのだ。
その日は両親の間で寝た。
私は泣いた。
他人の飯を食うことがこんなにも辛く大変なことだとは想像もしていなかったのだ。
次の日私は主の居るマンションに戻った。

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想定外の仕事

2023年10月05日 | 日記
私は朝から晩まで付き人とは名ばかりの想定外の仕事を強いられた。
馴れない仕事を強いられた。
本来なら1日8時間労働であろうが、早朝より主が寝て言いと言うまで働かされた。
両親と暮らしていた時は家事はほぼしたことが無かった。
出来ない家事、馴れない家事は辛かった。
一つやっては主がいなければ「どっこいしょ!」だった。
当の本人は昼夜関係なく働かされていた。
休日と言うものは皆無だった。
唯一風邪を引いた時は仕事が無かった。
私は馴れない家事に一つやってはどっこいしょ!だったので、主がいるときはひどく怒られた。
連日大きなリビングダイニングの窓を拭く。
身長の低い私には重労働だった。
洗濯物は地下に大きなランドリーがあった。
洗濯機と乾燥機が一体となったものだった。
部屋には洗濯機の置場はなかったのだ。
お風呂はユニットバスも兼ねていた。
洗顔も歯磨きもそこでする。
とにかくどこもかしこも日本人向けには作られていないので身長の低い私には不便だった。
主や本人や主の内縁の夫がいない時を見計らってこっそりビデオを見たりもした。
スーパー等に頼まれたものをお使いに行き、こっそりお茶もした。
しかし全ては主にバレていたのだ。

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付き人とは名ばかりの仕事

2023年10月05日 | 日記
そこは外国人等が多く住むマンションだった。
やたらと大きなマンションだった。
その頃には珍しいセキュリティのしっかりしたマンションだった。
記憶にあるのは2階の部屋だった。
天井が高くやたらと広いマンションだった。
トイレが2つありお風呂も2つあった。
リビングダイニングはゆうには24帖以上はあったと思う。
天井から床までの大きな窓があった。
キッチンは外国人仕様なのか日本人が立つにはいささか高かった。
キッチンに続いてアイロンをかけたり洗濯物をたたむスペースもあった。
とにかくどこもかしこも外国人仕様だった。
ゴミはダストシュートなるものがあり、そこからほうり投げると下の階のゴミ置場に通じるのである。
廊下にはクローゼットのようなものがあった。
突き当たりは麻雀部屋だった。左手の部屋が唯一彼女の部屋だった。
右手の部屋は主と主の内縁の夫の部屋だった。
私には突き当たの麻雀部屋が寝床にあてがわれた。
廊下のクローゼットのようなところから布団を出された。
その日から私は付き人とは名ばかりのお手伝いさんとして昼夜なく働くことになるのだ。
はじめて親元を離れたのだ。
他人の飯を食うのだ。
馴れない仕事に話と違う仕事に朝から晩まで辛かった。

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従兄以外の芸能人はほぼ雲の上の他人です

2023年10月05日 | 日記
昔従兄が芸能人だった。
私にとっては従兄以外の芸能人は雲の上の他人です。
憧れでした。
友達と呼べる人がほぼいなかった私は芸能人に憧れまるで心の友のような存在だった。
雲の上の芸能人は多くのファンがいた。
その芸能人のコンサートや舞台を見に行くことは楽しみの一つだったが、母からは止らていた。
そのようなものにお金を使う。
お金は貯金と言う母とコンサートや舞台を見に行くために使いたい私はたびたび嘘をついて出かけた。
出かけても母は帰ってきた私のバックをこっそりチェックするので後でバレるのだ。
毎日のようにいじめに会う私は好きな芸能人に救いを求め、心の友としていたのだ。
最初に好きになった芸能人には山ほどのファンがいた。
私などは相手にしてもらえるわけもなく、十羽一からげの部類だった。
そんな私にもチャンスは来たのだ。
ある日後援会の会報に「付き人募集!」と出ていた。
すぐさま「これだ!」と、思い、手紙を書いた。
思いのたけを手紙に書いた。
そのころの事務所の社長あてに書いたのだ。
ほどなくして自宅に社長から電話があった。
両親が電話に出た。
初めは父だったと思う。
その後私も電話に出た。
私の意思は変わらなかった。
親に反対されても行きたかった。
半ば勘当同然で家を出た。
紙袋一つに荷物を詰めて家を出た。
それから1か月と1週間の生活が始まるのである。
わずか二十歳の娘には辛かった。
いわゆる他人の飯を食うのである。
連日慣れない仕事に挫折の連続だった。

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友達の作り方がわからない

2023年10月05日 | 日記
そもそも友達の作り方がわからない。
やっとできた友達も疎遠になるのだ。
どちらからともなく連絡が途絶える。
小学校も中学校も高校もクラス会も同窓会もあるのかどうかがわからない。
引っ越しばかりしていた家族です。
わざわざ連絡先は調べては来ません。
もしも連絡が着ても良い思い出は無いので行かないと思うのです。
友達と呼べる人がほぼいない私は芸能人に心のよりどころを求め、憧れを抱いていたのです。
それも年上のお姉さんのような人ばかりです。
弟がいましたが、弟より姉が欲しかったのです。
ファッションの話をしたりおしゃれの話をしたり、時には恋バナもしたかったのです。
長女と言うものはいつも親に怒られるのです。
弟からは「お姉ちゃん」と呼ばれたことも無く、名前は呼び捨てでした。
出来のいい弟は出来の悪い姉を単なる年上の家族としか思っていなかったのかも知れませんね。
いつもピーピー泣く姉でした。
弟とけんかをして泣く。
両親の夫婦喧嘩を見て泣く。
テレビで悲しいドラマや映画を見て泣く。
その私は泣かないおばちゃんになりました。
泣くことは良くないと思うようになったのです。
子供のころに学校でいじめられて泣いていた子供は50を過ぎたあたりから泣くことは恥だと思うようになったのです。
人前で泣かない。
いつでもどこでも泣かない。
涙は封印されたのです。
父の葬式にも泣かず、好きだった芸能人の訃報にも泣かず、ファンとして参列した告別式にも涙は出なかったのです。

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