高校3年生の時に進路を決めるにあたって和裁の専門学校に行きたかった。
進路指導の先生とも相談し、そのころ練馬にあった吉井という和裁の専門学校を先生は進めてくれた。
家庭科の先生だった。
もう、専門学校に行ってきちんと和裁を習って着物の仕立て職人になれば、将来は結婚できなくても生計は立てられるだろうと思っていた。
他にも和裁の専門学校を出て、手に職を付けたら働いたお金でたった1枚反物を買ってあの島倉千代子さんに着物を仕立ててプレゼントしたいと言う夢があったのだ。
しかし、そのころ住んでいた自宅からは練馬の吉井は遠かった。
同級生といくつか専門学校を見学して回る。
どこも文化祭をめがけて行った。
同級生はそれぞれ和裁やら洋裁やら調理師やらの専門学校に行くか就職するかだった。
武蔵野市の二葉も見学した。
ここは和裁のほかに洋裁と調理師や栄養士を養成するコースもあったのです。
渋谷にある田中千代も見学した。
ここは洋裁の学校だった。
渋谷は清水とき着物学院も行った。
ここは子供の頃に通っていた小学校の側だった。
どちらにしても和裁の学校に行き、手に職を付ければ将来は困らないと思っていたのだ。
それが両親の反対にあい、特にそのころ貧乏でお金のない我が家は娘を専門学校に行かせることは無理だったのかも知れない。
とにかく父親の反対にあい、母が私の見方をしてくれるわけでもなく、私は泣く泣く和裁の専門学校に行く道をあきらめたのだ。
そのころ、クラスの大半の同級生は進学か就職が決まっていて、私が仕方なく就職先を探すも残っていた会社が後にも先にもそこしかないと言うような会社だった。
入社して半年もしないうちに会社が傾いているということがわかり、私はうそをついて会社を辞めることになるのだ。
その会社は私が辞めたほぼ2年後に倒産してしまう。
どうしても和裁の専門学校に行きたかったが、和裁の学校はすっかりあきらめることにした。
やりたいことはすべて親に反対されて育ってきた。
自由のない暮らしを強いられていたのだ。
和裁の専門学校に行かせてもらえなかったので、お裁縫というものが苦手です。
恐ろしいくらいに苦手です。
そもそも運針というものが出来ません。
指ぬきを使っての運針が出来ません。
最近は便利なものでYouTubeなるもので運針の正しいやり方まで教えてくれます。
そのYouTubeを見て、指ぬきを使って運針の練習をするも、出来ないことが判明しました。
情けないね。
62歳のおばちゃんは運針一つも出来ないんだよ。
自己流でした。
さんざん自己流でした。
もしも和裁の専門学校に行っていたらこんなことは無かったよね。
YouTubeを見て初めて気が付く始末です。
それから夜な夜なYouTubeの運針の仕方を見て練習するも、無理でした!
頑張っても無理でした。
恥ずかし話、お裁縫は自己流でした。
母はお裁縫出来るんですよ。
女学校出てから洋裁学校にそのころあった速成課という半年間通うと言うコースに通っていたそうです。
和裁は下宿先の盲人のおばあちゃんから習いました。
おばあちゃんは目が見えていたたときは和裁の先生だったそうです。
満州から引き揚げて来たときに見えなくなったそうです。
母はお裁縫出来るんですよ。
子供の頃はワンピースも作ってくれました。
着物のウールの着物や浴衣は作ってくれました。
なのに私ときたらお裁縫が苦手!
いやあ、今更ながら和裁の専門学校に行きたかったと思うのです。
これほどまでにお裁縫が出来ないのに、自己流なのにマスクを縫うということをしています。
いやあ、縫っている姿は他人様には見せられないですね。
もう、62歳は運針で挫折!
62年間自分の運針が間違っていたことに気が付きませんでした。
今更和裁の専門学校にも和裁の教室にも行かれそうもないので、自己流でもマスクは作ると決めました。
残っている木綿の生地の活用ですね。
進路指導の先生とも相談し、そのころ練馬にあった吉井という和裁の専門学校を先生は進めてくれた。
家庭科の先生だった。
もう、専門学校に行ってきちんと和裁を習って着物の仕立て職人になれば、将来は結婚できなくても生計は立てられるだろうと思っていた。
他にも和裁の専門学校を出て、手に職を付けたら働いたお金でたった1枚反物を買ってあの島倉千代子さんに着物を仕立ててプレゼントしたいと言う夢があったのだ。
しかし、そのころ住んでいた自宅からは練馬の吉井は遠かった。
同級生といくつか専門学校を見学して回る。
どこも文化祭をめがけて行った。
同級生はそれぞれ和裁やら洋裁やら調理師やらの専門学校に行くか就職するかだった。
武蔵野市の二葉も見学した。
ここは和裁のほかに洋裁と調理師や栄養士を養成するコースもあったのです。
渋谷にある田中千代も見学した。
ここは洋裁の学校だった。
渋谷は清水とき着物学院も行った。
ここは子供の頃に通っていた小学校の側だった。
どちらにしても和裁の学校に行き、手に職を付ければ将来は困らないと思っていたのだ。
それが両親の反対にあい、特にそのころ貧乏でお金のない我が家は娘を専門学校に行かせることは無理だったのかも知れない。
とにかく父親の反対にあい、母が私の見方をしてくれるわけでもなく、私は泣く泣く和裁の専門学校に行く道をあきらめたのだ。
そのころ、クラスの大半の同級生は進学か就職が決まっていて、私が仕方なく就職先を探すも残っていた会社が後にも先にもそこしかないと言うような会社だった。
入社して半年もしないうちに会社が傾いているということがわかり、私はうそをついて会社を辞めることになるのだ。
その会社は私が辞めたほぼ2年後に倒産してしまう。
どうしても和裁の専門学校に行きたかったが、和裁の学校はすっかりあきらめることにした。
やりたいことはすべて親に反対されて育ってきた。
自由のない暮らしを強いられていたのだ。
和裁の専門学校に行かせてもらえなかったので、お裁縫というものが苦手です。
恐ろしいくらいに苦手です。
そもそも運針というものが出来ません。
指ぬきを使っての運針が出来ません。
最近は便利なものでYouTubeなるもので運針の正しいやり方まで教えてくれます。
そのYouTubeを見て、指ぬきを使って運針の練習をするも、出来ないことが判明しました。
情けないね。
62歳のおばちゃんは運針一つも出来ないんだよ。
自己流でした。
さんざん自己流でした。
もしも和裁の専門学校に行っていたらこんなことは無かったよね。
YouTubeを見て初めて気が付く始末です。
それから夜な夜なYouTubeの運針の仕方を見て練習するも、無理でした!
頑張っても無理でした。
恥ずかし話、お裁縫は自己流でした。
母はお裁縫出来るんですよ。
女学校出てから洋裁学校にそのころあった速成課という半年間通うと言うコースに通っていたそうです。
和裁は下宿先の盲人のおばあちゃんから習いました。
おばあちゃんは目が見えていたたときは和裁の先生だったそうです。
満州から引き揚げて来たときに見えなくなったそうです。
母はお裁縫出来るんですよ。
子供の頃はワンピースも作ってくれました。
着物のウールの着物や浴衣は作ってくれました。
なのに私ときたらお裁縫が苦手!
いやあ、今更ながら和裁の専門学校に行きたかったと思うのです。
これほどまでにお裁縫が出来ないのに、自己流なのにマスクを縫うということをしています。
いやあ、縫っている姿は他人様には見せられないですね。
もう、62歳は運針で挫折!
62年間自分の運針が間違っていたことに気が付きませんでした。
今更和裁の専門学校にも和裁の教室にも行かれそうもないので、自己流でもマスクは作ると決めました。
残っている木綿の生地の活用ですね。