高専卒業を済ませ、 既に横浜の会社への就職が決まっていた青年ちっぷ。
居酒屋に昔馴染みのサナエちゃんを呼び出し、 プロポーズをした。
「一緒に横浜へ行ってくれないか」
しかし、 彼女の返事は まさかの NO! だった。
「一緒に横浜へ」どころか、 今までの不誠実さを、さんざんなじられる始末。
サナエちゃんをタクシーへ乗せて帰らせ、
ひとり 行くあてもなく 夜の街をうろつく青年ちっぷ。
広島最大の歓楽街・流川、 小料理屋の赤い提灯が、彼の目に入った。
吸い寄せられるように店に入ると、上品なおかみさんが、料理の仕込みをしている。
青年ちっぷの他に、 客はいなかった。
見た目にも 傷心していそうな青年を見て、 おかみさんが声を掛けた。
「こんな店でよかったら飲んでいきんちゃい。 学生さんなら安うしとくけん。」
青年ちっぷは、 苦手な日本酒の熱燗を注文した。
前後不覚に酔ってしまいたかったのだ。
サナエちゃんなら、いつでも自分を待ってくれている はず。
いつでも受け入れてくれる はず。
思い上がっていた自分と、 そしてサナエちゃんのことを忘れてしまいたかった。
おかみさんが、 湯気の立つ鍋の中へ、そっとお銚子を立てる。
こと こと こと
お銚子が お鍋の中で、 音を立て始めた。
こと こと こと
気疲れのせいだろうか、 いつの間にか 青年ちっぷは 眠気を覚えていた。
そして、 その眠そうな目をした青年ちっぷを見たおかみさんは、
小上がりの座敷に 小ぶりの枕を用意し、
「5分ほど横になってみたらええよ、 シャキッとするけん。
ちょうど熱燗もできる頃に起こしてあげるけん。」
青年ちっぷは、おかみさんの優しい心遣いに感謝しながら、横になって目を閉じた。
こと こと こと こと
お銚子が 小さな音を立てていた。
こと こと こと こと
私が就職した横浜の船会社は、 思っていた以上にしっかりした会社で、
東京営業部での 机上研修をみっちり3週間。
さらに 三重県の四日市で、現場研修を1年半。
心身ともに辛かった研修を終えて、 いよいよ東京・霞ヶ関での勤務が始まった。
やがて、 丸の内にある大手商社で 船のエキスパートとして働いた。
南国サイパンに赴任し、 石油輸入法人のマネージャーを務めた間には、
大きな石を持った、ヤク中毒のアメリカ人に追い掛け回されたりした。
日本でも、サイパンでも、 いろいろな女性と いろいろな恋愛を重ねて、
たくさんの祝福の中 結婚し、 そして、憎しみ合いながら 離婚した。
横須賀、 横浜、 四日市 と、転勤を繰り返しながら 順調に昇進したが、
父の死を機に、 長く勤務した会社を退職して 広島にUターン。
高望みの再就職活動の末、 結局、どうでもいいような会社に入って、
係長→課長→次長→部長→取締役 と 毎年、出世させてもらった。、
700万超の借金に苦しんだ時もあったが、1300万のあぶく銭を得た事もある。
沖縄以外の46都道府県を訪れ、 世界8カ国への旅もした。
誰もが羨むような高級車にも乗ったし、 恥ずかしいほどのポンコツ車にも乗った。
旨い酒も飲んだし、 不味い酒も飲んだ。
素敵なセックスを経験し、 しなきゃよかったようなセックスも経験した。
中学生の頃からの念願が叶って、 ロンドンのアビイロードで、写真も撮った。
映画を観て以来、 ずっと憧れていたタヒチの海も、この目で見た。
フロリダのディズニーワールドで、 夢のような 1週間を過ごした。
そして、 私は もう68歳。
そろそろ、お迎えが来るようだ。
考えてみれば、 亡くなった父と同じ年齢。
病室で、 私の最期を見届けてくれているのは、弟夫妻だけだ。
残した わずかな財産は、 お前たち夫婦に譲るよ。
私にも子どもがいたなら、 もう少し豊かな人生だったかもしれないな。
でも、 数千の人たちと 交流ができ、 とても意義深い人生だったよ。
あ ゝ み ん な 、 あ り が と う ・ ・ ・
はっ !
こと こと こと こと こと
「学生さん、よう眠っとったねえ。 熱燗、注ぎましょうか?」
おかみさんが優しく 青年ちっぷに声を掛けた・・・。
人生なんて 熱燗が沸く ごく僅かの間に見る 一瞬の夢のようなもの。
ちっぷ版 『邯鄲の枕』
お粗末様でした。