『二ひきのかえる』のあらすじです。
緑の蛙と黄色の蛙、二匹の蛙がお互いの体の色を汚い色だと言い合います。相手に飛びかかったり後足で砂をかけたり。寒い風が吹いてきたので、もうすぐ冬が来ることを思い出した二匹は「春になったら勝負をつけよう」と、土の中に潜ります。やがて春。最初に目を覚ました緑の蛙が「起きたまえ、もう春だぞ」と呼びかけると緑の蛙が出てきます。「去年のけんか、わすれたか」と緑の蛙。黄色い蛙は「からだの土をあらいおとしてから」と応えます。「ラムネのようにすがすがしい水」に飛び込んで体を洗った蛙たち。眼をぱちくりさせて緑の蛙が言います。「やあ、きみの黄色は美しい」「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ」と黄色の蛙。「もうけんかはよそう」と言い合う二匹の蛙。「よくねむったあとでは、人間でもかえるでも、きげんがよくなるものであります。」でお話しが終ります。
重い靴音が戦争に向かっていた日本、大きな声で戦争反対を言えない時代にあって22歳の南吉はどのような思いでこの作品を書いたのでしょうか。緑の蛙と黄色い蛙、その違いを認められず自らの優位性を主張することによって争いが起こります。肌の色の違いによっても争いが起きます。それだけではありません。民族の違い、宗教の違い、国家体制の違い、文化、性差、障がいの有無・・・人間は「違い」が認められない生き物なのでしょうか。「共生」―共に生きるとはとうてい叶わない理想なのでしょうか。南吉の蛙たちは「冬眠」という休息によって、すがすがしい水で体を洗うことによって、お互いの違いを認め合うようになります。「人間でも」そうなるのだと期待を込めているようでもあります。「冷静に考えて、お互いの言い分を認め合おう」というのが、若い南吉の精一杯の戦争反対への姿勢だったのではないでしょうか。
ゼレンスキー大統領夫人・オレーナ・ゼレンシカさんはこの作品から南吉の意図を明確に読み取ったのでしょう。人と人は、国家と国家は「違い」によって争ってはいけないーウクライナの子供たちにそのことを伝えたかったのだと思います。『ももたろう」だけでなくこの『二ひきのかえる』を読み聞かせたいと考えた夫人の思慮の深さに感銘しました。
緑の蛙と黄色の蛙、二匹の蛙がお互いの体の色を汚い色だと言い合います。相手に飛びかかったり後足で砂をかけたり。寒い風が吹いてきたので、もうすぐ冬が来ることを思い出した二匹は「春になったら勝負をつけよう」と、土の中に潜ります。やがて春。最初に目を覚ました緑の蛙が「起きたまえ、もう春だぞ」と呼びかけると緑の蛙が出てきます。「去年のけんか、わすれたか」と緑の蛙。黄色い蛙は「からだの土をあらいおとしてから」と応えます。「ラムネのようにすがすがしい水」に飛び込んで体を洗った蛙たち。眼をぱちくりさせて緑の蛙が言います。「やあ、きみの黄色は美しい」「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ」と黄色の蛙。「もうけんかはよそう」と言い合う二匹の蛙。「よくねむったあとでは、人間でもかえるでも、きげんがよくなるものであります。」でお話しが終ります。
重い靴音が戦争に向かっていた日本、大きな声で戦争反対を言えない時代にあって22歳の南吉はどのような思いでこの作品を書いたのでしょうか。緑の蛙と黄色い蛙、その違いを認められず自らの優位性を主張することによって争いが起こります。肌の色の違いによっても争いが起きます。それだけではありません。民族の違い、宗教の違い、国家体制の違い、文化、性差、障がいの有無・・・人間は「違い」が認められない生き物なのでしょうか。「共生」―共に生きるとはとうてい叶わない理想なのでしょうか。南吉の蛙たちは「冬眠」という休息によって、すがすがしい水で体を洗うことによって、お互いの違いを認め合うようになります。「人間でも」そうなるのだと期待を込めているようでもあります。「冷静に考えて、お互いの言い分を認め合おう」というのが、若い南吉の精一杯の戦争反対への姿勢だったのではないでしょうか。
ゼレンスキー大統領夫人・オレーナ・ゼレンシカさんはこの作品から南吉の意図を明確に読み取ったのでしょう。人と人は、国家と国家は「違い」によって争ってはいけないーウクライナの子供たちにそのことを伝えたかったのだと思います。『ももたろう」だけでなくこの『二ひきのかえる』を読み聞かせたいと考えた夫人の思慮の深さに感銘しました。
蛙で思い出したのが草野心平の詩とレオ・レオニの絵本『ぼくのだわたしのよ』です。これらの蛙も戦争と関係しているのでしょうか。