今般のコロナウィルス関連への対応として、奈良市の施設である奈良町にぎわいの家では、市からの要請もあり、「花しまい」の公演を中止、延期としました。尚、他の主催イベントに関しても、3月末まで全て中止となりました。3月は、茶会に味噌作りに…沢山の企画をしていたので、本当に残念です。
さて、花しまい、先週、町家で二度目の稽古をして、キャストも町家空間になれてきていました。おかげさまで満員御礼でしたが、お客様に中止の連絡をすると、「楽しみにしていたのに本当に残念。」「公演の連絡、待っていますので」など温かい言葉を沢山、いただきました。良い時期に必ず公演しますので、どうぞ皆様、お待ちくださいね。
ところで…コロナウィルスに関しては、毎日の報道がほぼそれで一色です。こういう非常事態?では、イベント、歌舞音曲は中止の傾向が多々です。リスクを避ける故に必然、必要のないことはしない、というのはわかります。一方で、私たちは仕事をし、生業を続けていくのですから、満員電車にも乗り、仕事場にも行くでしょう。人との接触は避けられません。例えば、公共交通機関での人との距離を考えると、イベントの参加の距離は?そんなに変わらない?前者と後者のリスクはもしかすると、違いはないのかもしれません。「正しく怖れる」という言葉を良く聞きますが、テレビやネットでこれだけ情報がある中で、自分にとって信頼できる情報をを選べる力がないとかえって危機を煽ってしまうだろうなと感じます。この「選べる力」を、演劇や短歌を初め、表現のジャンルが日頃から醸成していっているのだろうか、と、こうした非常事態?になると考えます。これは震災の時にもまさにそうでした。「危機」に対して考える力…知識の深さと心の在りようが、こうした事態にいつも問われると感じます。
そして、私もイベントを企画運営しているので、以下は自分に全てはねかってくることですが、常に二つの気持ちがあります。
世の中にはイベントが多い!何かをしていないと心配なくらい?多量なイベントがあり、なので今回のことで、中止となる数も膨大です。平和で余裕があるからこそ、イベントができる…。そのことにつくづく感謝します。私たちが表現でき、それを楽しむ機会は、普段の暮らしがあってこそ。その普段の暮らしを支えるものは、平和で自由と責任がいいバランスで保たれている社会ということでしょうか。
一方で、「よし、家に籠もって本を読もう、出かけられないからこそ、静かに考えられる!」という気持ち。他者とのコミュニケーション、交流を押すためのイベントも多いことでしょう。けれど、私たちは「自分とのコミュケーション」する機会を日々の多忙さから失っています。イベント中止ならば、「籠もる」ことで見えてくるものもあるでしょう。文学や短歌は、そんな機会にとても有効だと思います。
お祭りは日々の静かな暮らしがあってこそ、特別に生き生きするのかもしれません。かつての日本の村の祭りが、厳しい日々の労働を慰め、また、若者たちが日頃、押さえられた力を解放するような、特別の場でもあったという側面からも感じます。毎日がお祭りでなくても良い、ということをこの度のことで改めて考えた次第です。
コロナウィルスが治まりますように、今は祈るばかりです。
さて、花しまい、先週、町家で二度目の稽古をして、キャストも町家空間になれてきていました。おかげさまで満員御礼でしたが、お客様に中止の連絡をすると、「楽しみにしていたのに本当に残念。」「公演の連絡、待っていますので」など温かい言葉を沢山、いただきました。良い時期に必ず公演しますので、どうぞ皆様、お待ちくださいね。
ところで…コロナウィルスに関しては、毎日の報道がほぼそれで一色です。こういう非常事態?では、イベント、歌舞音曲は中止の傾向が多々です。リスクを避ける故に必然、必要のないことはしない、というのはわかります。一方で、私たちは仕事をし、生業を続けていくのですから、満員電車にも乗り、仕事場にも行くでしょう。人との接触は避けられません。例えば、公共交通機関での人との距離を考えると、イベントの参加の距離は?そんなに変わらない?前者と後者のリスクはもしかすると、違いはないのかもしれません。「正しく怖れる」という言葉を良く聞きますが、テレビやネットでこれだけ情報がある中で、自分にとって信頼できる情報をを選べる力がないとかえって危機を煽ってしまうだろうなと感じます。この「選べる力」を、演劇や短歌を初め、表現のジャンルが日頃から醸成していっているのだろうか、と、こうした非常事態?になると考えます。これは震災の時にもまさにそうでした。「危機」に対して考える力…知識の深さと心の在りようが、こうした事態にいつも問われると感じます。
そして、私もイベントを企画運営しているので、以下は自分に全てはねかってくることですが、常に二つの気持ちがあります。
世の中にはイベントが多い!何かをしていないと心配なくらい?多量なイベントがあり、なので今回のことで、中止となる数も膨大です。平和で余裕があるからこそ、イベントができる…。そのことにつくづく感謝します。私たちが表現でき、それを楽しむ機会は、普段の暮らしがあってこそ。その普段の暮らしを支えるものは、平和で自由と責任がいいバランスで保たれている社会ということでしょうか。
一方で、「よし、家に籠もって本を読もう、出かけられないからこそ、静かに考えられる!」という気持ち。他者とのコミュニケーション、交流を押すためのイベントも多いことでしょう。けれど、私たちは「自分とのコミュケーション」する機会を日々の多忙さから失っています。イベント中止ならば、「籠もる」ことで見えてくるものもあるでしょう。文学や短歌は、そんな機会にとても有効だと思います。
お祭りは日々の静かな暮らしがあってこそ、特別に生き生きするのかもしれません。かつての日本の村の祭りが、厳しい日々の労働を慰め、また、若者たちが日頃、押さえられた力を解放するような、特別の場でもあったという側面からも感じます。毎日がお祭りでなくても良い、ということをこの度のことで改めて考えた次第です。
コロナウィルスが治まりますように、今は祈るばかりです。