ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

NHKの朝ドラ「おちょやん」と大河ドラマ「麒麟がくる」

2021-02-11 | 映像
3/6公演「コロナ姫」中ですが、気分転換にテレビの話を。

小さい時から、当たり前のようにテレビがあり、70年代が小学生でしたので、それはテレビが面白く、テレビばかり見てました。向田邦子、山田太一、市川森一などなど、脚本家の名前もドラマを見て覚えました。今は息抜きと楽しみがテレビドラマ?ですが、昨今はドラマの放送の本数が減り(年末の忠臣蔵ドラマもないですし)あまり見なくなりましたが、朝ドラと大河は見ています。
今、放送中の「おちょやん」は、久々に前のめりになって見ているドラマです。とてもリアリティがあります。特に、主人公の父親のあのどうしようもなさ!ひどい親と視聴者の声があるとのことですが、いえいえ、こういう親はいたはずです。
それと町並。当時の道頓堀の様子が再現されているのは、とても楽しい。中でも、はっとしたのは、電信柱にもたれている「乞食」です。町並のシーンは一瞬に終わりますが、そうなんです、いろんな階層の暮らしの人がきちんと風景にいる。そしてこの乞食さんは、前半のドラマにしっかりと関わってきます。主人公のおちょやんが、店の食べ残しを河原にいる乞食さんに、持っていきます。その時の会話からは、「施し」「施される」という上下的な関係性よりも、乞食さんへの共感がみえます。それは「自分だって、いつ食べられなくなるか、住むところがなくなるか、わからない」といった当時の現実もあるでしょう。おちょやん自身、貧しさから奉公に出た身なので、より近しい存在に思えるのも確か。何よりドラマの中で秀逸だったシーンは、この乞食さんたちが、おちょやんを助けるところです。単に、施しを受けていた人というだけでなく、きちんと恩義ある人に行動で返したのです。脚本家、すごいなぁと思って見ていました。そして、なんと今日は、役者論まで出てきましたよ。笑わせることばかり考えていた主人公に、「役を愛した時間が全て!」と師匠が言います。自分の役に向き合わず、その生き方を想像できず、何が演じることなの?!ということですが、シンプルですけど、それにつきる!私もキャストに?!こう言おう!

そして一年間、楽しんでいた大河「麒麟がくる」が終わりました。そもそも、脚本が池端俊策さんということで、開始から楽しみにみていました。どうやって、光秀が信長を討つに至る必然性が描かれるのかと思いましたが、沢山の必然がありました。足利将軍との関係、自分が結果荷担した大量の殺戮、そして天皇との関わり。自分が育てたヒーロー、信長の最期をみとるのも自分というような愛憎混ざった感覚…。(最期の信長の首の検分は甘かったかな?)後は秀吉が最高でした!さもありなん!これまでの歴史や文化を背負わない秀吉は、足利将軍も内裏も関係ない。自分が登り詰めるためには、お金と策略と愛嬌!つまり、一番、現代に近い人物に見えました。そのように見ていくと、歴史文化の背景やしがらみを思慮分別しながら、未来に進もうとすると、光秀になってしまうのかもしれないな…と感じました。けれども、そんな「光秀」的なものの不在をドラマは伝えたかったのかも。
ドラマの最後、光秀に「信長を見守る」よう伝えた正親町天皇が、碁をうちながら、秀吉が関白となった話題の中にいる…。ここも良かったですね。貴族の時間とは、そうなのだなあと、ぞっとして、そして惚れ惚れしました。とても市井のものでは持てない、「そこにずっとある」感覚。少し、ふくよかな玉三郎さまがぴったりでした。
次の大河、渋沢栄一は、興味ある人物ですが、主人公はあまりに顔がきれいなので、手足とお顔は土がついているくらいがいいなと希望します。

それにしても、ABC朝日放送の午前10時代は、長いこと、ドラマの再放送枠で、必殺仕事人をよくしてましたが、今はショッピングばかり。ああ、あの藤田まことの、濃いキャラと良い声が懐かしい…。