ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

舞台「パラサイト」感想

2023-07-27 | 演劇
女優のキムラ緑子さんから案内を受け、チケットをお願いし、小町座のメンバーと観劇へ。
2023年7月12日の舞台を見ました。臨場感たっぷりで、役者、美術、十分に堪能しました。
出演の顔ぶれが、まあすごい…。若手は宮沢氷魚、伊藤沙莉、後は実力派、緑子さん、真木よう子、江口のりこ、山内圭哉…。
そして、舞台という大きな牢獄?!の牢名主(もちろん、誉め言葉ですよ!)古田新太さん、という豪華な面々。
まさに、このメンバーならでは、うまいなぁ、すごいなぁ…です。

タイトルからわかるように、これは映画「パラサイト 半地下の家族」が原作です。非英語作品で初めて、あのアカデミー賞、作品賞受賞、しかも脚本賞をはじめ、四冠という快挙の作品。こちらを見ての観劇という方も多かったことでしょう。
しかし、私は原作を見ていなくて…。なので、先入観なく?舞台を見ました。

お話としては、貧乏な家族がお金持ちに寄生して、その家を糧に裕福な暮らしを目指す、というもので、よくあるパターンといえば、そうなんですが…。その貧乏な家族、父、古田さん、母、江口さん、主役の息子である、宮沢さん、妹の伊藤紗莉さんが、あまり悲惨にみえない。これにはおそらく二つの理由があり、一つは、宮沢氷魚さんが透明感があり、素直で、とても美しい、という持って生まれた特性があり。これって本当に稀有なもので、これをまま、維持しながら、世界に羽ばたいてほしいと思います。が、今回のキャラクターには、あまりに美しくて、何をしても、貧しさへの怨念に中々、結びつかず、絶対にのしあがってやる…という切迫感の必然が感じられなかったということ。これは氷魚さんだけでなく、家族全体に感じられた空気でした。妹の伊藤さんも、さわやかで健気なんです。
これは役者の問題というより、戯曲や演出の問題が大きいかもしれません。

「貧しいところから抜け出したい」という切実さ。その怒りや恨みは、簡単に描けません。そこに至るまでの背景を丁寧に人物に背負わせるのは、商業演劇の視覚的な見せ場の多さを考えると、限界もあるでしょう。
それで、この「貧しさ」に関しては、戯曲のセリフでなく、演出で語ろうとしたのだな、という意図が見えました。客入れの時間に、家族の住まいがある界隈の、みすぼらしい風俗や、住人のやりとりを見せ、ドラマの伏線にしていました。主役の家族には貧困の悲劇を語らせず、脇の住人から想像させるといった構成と演出です。これは悪くはないのですが、そうなると、本来ならば、その背景となる脇役たちにもドラマがいるとなります。しかし、それを背負わせる時間もないし、逆に物語の進行が悪くなってしまう…。全体、このあたりのジレンマがあったのではないでしょうか。
しかし、貧困の何たるかを語るには、ただの背景として、脇で動く人たちでは、あまりに薄く、「金持ちに寄生」するというアイデアの根幹にある
主人公の決意は、背景のみでは語れません。ここにつながる主人公の「セリフ」がなかったように思います。
もちろん、言わないことで、成立するとも思いますが、多くなくても、一瞬、ぎょっとするような一言が、氷魚さんから聞きたかった気がします。

もう一つは、1994年の阪神大震災を背景にしたこと。これに関しては、評価がわれるかもしれません。震災を持ってきたことのリアリティと、物語の成立においての必然がうまくマッチするかどうか…。現実、どんなに災いがおこっても、痛くも痒くもない人と、それがすぐに「死」に直結する階層が日本にあるということを突き付けているわけです。ここに関して作家が戯画的ではあるけれど、見逃さず、構成の柱としたのは、拍手したい。実際、大きなスクリーンに映る燃える町の様子は、まるで昭和の神戸空襲のようで、迫力がありました。

さて、物語ですが、主人公の家族が殺人に関わるという状況に至っても、相変わらずドタバタが続き、どう考えても、「こんな深刻なことをした後でこの態度になるか?」というような、マンガ的なシーンが沢山ありました。この「マンガ的」な笑いが、空恐ろしくなる次元までには、役者さんたちがいってない。というか、やはり感情の組み立てとして無理がある。もしか、それをトリッキーな側面も内包するなら、異次元の「変」な芝居が必要だったのでは?と思います。一番、違和感があったのが、主人公が半地下の家族を殺めたかもしれない、そんな極限の状態の時に、震災での住人の心配をするセリフが続いたこと。「え?こんないい人がさっきまで自分のしたことを忘れてる?」という感じがしました。小劇場なら、自分の暴力性と震災の暴力?性が相乗した時、果たして人間はどうなるのか、といった、かなり極端で過激な芝居も可能だったかもしれません。
つまり、役者が目立つ笑いやシーンが多かったのです。エンタメの条件を十分に満たし、役者さんの躍動感やうまさは、本当に堪能しました。が、全体、終わった時に、「うまかったねえ」だけではないところを、作家は目指していたのではと思います。エンタメと物語のテーマの兼ね合い、その匙加減の難しさを感じた舞台でした。そう、怖くないんです、主人公の家族は。変じゃないんです。映画ではどうなんでしょう。

役者さんに関しては、いうことないです。ほんと、すごかった。皆さん、舞台が「家」のような方たちばかりで、古田さんなんか、普通におるなあと。この普通にいる感がハンパでなく、大きくすごい。もっともっと普通で変でいてください。
今回、「えっ?」と目をひいたのは、真木よう子さん。なんか、独特の「間」があり、前のめりで言ってるようで、そうでないようで。これ、意図して作ってるなら、すごいなあと。上手い芝居というのでなく、変な感触というか、呼吸が少しずれるというか…それが変なキャラクターをまろやかにして、憎めなくしていて…なんだか不思議な芝居をみたなあと。これは真木さんしかできないのでは。計算されているというのとは違う、「おかしな」感じ。愉快でした。相棒の金持ちの社長役は山内圭哉さん。うまい!です。小さい声でぼそぼそ言う時の声もよくて、抜群の安定感で楽しみました。

そして、キムラ緑子さん。もちろん、上手は当たり前という域ですが、ぶっ飛び方と、その跳ねた芝居の後の空気の回収が、並みでない。半地下に自分の家族を住まわせている家政婦という役柄は、この物語の中では、設定がわかりやすく、(他の人はすぐに笑いの方向になるので、役柄の感情の持続が難しい芝居だったので、)気持ちを集中的に作ることができたのかもしれません。
半地下で自分の家族が住むことになった経緯を語るシーンの必死さ、声の出し方、こんな出し方で毎回やってて、大丈夫なんだろうか…と思うくらい、存在全体で叫んでいる…。どうしてこんなことが出来るんでしょう。感嘆するばかりです。舞台に生気が宿って、緑子さんの周辺に独自の空気がむくむくと膨れ上がっていく感じ。また、このシーンの前段階で、いったん、家を追い出されるのですが、再びかえってくる時の、家のドアまでの歩き方…。なんか見てしまう、釘づけになる…。お客様からの最後の拍手もひときわ大きかったです。

その緑子さん演じる家政婦の息子、半地下の主ですが…これもよくて、なんというか、知性を捨てた感覚というか、動物的にただ生きることに執着しているというか、人間の部分を捨てている「強み」と「荒々しさ」が、すごいなあと。狂暴というだけで終わらない、ただ生きること、半地下にいることにのみに存在をかけている、これを演じるって中々、難しいと思うんですが、得体のしれない感覚がありました。まさに半地下の主役だったと思います。

それと、商業演劇の楽しみは脇役の方。今回は、運転手さんや何も話さなかさった半地下のおじいさん。もう、楽しいです、ほんと、演劇的な楽しみってこういうところだなと思います。

というわけで、観劇感想でした。皆様、本当にお疲れ様でした。

 劇場ポスター










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