欅が素晴らしい府中の大國魂神社の参道です。
創立は景行天皇四十一年とされ、当時は武蔵国造が代々奉仕しましたが、大化改新によって武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになったと略誌に書かれています。
大國魂神社のご祭神は大国魂大神ですが、この大神は出雲の大国主神と御同神です。
大昔、武蔵国を開き、人民に衣食住の道を教え、また医療法やまじないの術も授けられたと伝わります。
大國魂神社は国府が置かれた後国司が国造に代わって奉仕するようになり、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を集め祭祀を行って来たという経過があり、武蔵総社と云われています。
本殿の左右の相殿に神社六社を合祀したので、六所宮とも称せられています。
(西殿)
六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔208)
五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町750)
四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町1-3)
(中殿)
御霊大神
大國魂大神
国内諸神
(東殿)
一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮1-18-8)
二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二宮2252)
三ノ宮 氷川大神(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407)
不思議なことに、ここには伊弉冉・伊弉諾尊も、天照大神も、八幡大神も神功皇后もおられません。地域の神々を祭祀しているからですが、此処ではもともと出雲の神を祀っていた、ここは出雲と深い関係があったから畿内につながりの深い神は祀られていないと云うことです。大化改新の頃の七世紀半ばの武蔵国の神は大国主でした。政治的には朝廷の支配を受けても、祭祀は僅かながら古代の形が残っているようです。
万葉集の時代、国土創生の神はオオナムチノ神でした。万葉集では、大汝、大穴道、於保奈牟知と書かれ、古事記では大穴牟遅、書紀では大巳貴と書かれ、大國主命、八千矛神などの別名もあります。
万葉集に詠まれた大巳貴神と少彦名神
詩歌の冒頭に「おおなむち少彦名」が詠まれています。その中で、大伴坂上郎女は「おおなむち少彦名の神であるからこそ、始めて名付けられた名を名兒山という、その名を負う名兒の山と聞いても、わたしが(都に置いて来た)我子を恋しく思う心、その心には千重の一重も慰めにはなりません」と、筑前国の名兒山を越える時、詠みました。兄嫁が大宰府で没したので、太宰帥の兄を支えるために都から筑紫に来ていた大伴坂上郎女が、都に帰る時に船を下りて名兒山を越えて宗形神社に旅の安全を祈りに行ったのでした。その時の歌なのです。
この歌で大事なのは「名付けそめけめ」です。名兒山と始めて名付けたのは、おおなむち少彦名神だったというのですから。その土地の神だからこそ山川の名をつけることができたのでしょう。
柿本人麻呂歌集の歌も同じです。「おおなむち少名御神がお造りになった妹山と勢山を見るのは、心から嬉しく良いものだ」和歌山県の妹山・勢山を作られたのは、おおなむち少彦名の神だというのです。*妹背山は若の浦の同名の小島を詠んでいるかも知れません。
万葉集の時代は、九州でも和歌山でも天地創生の神は、大巳貴命(大国主)だったのでした。
と云うことは、どういうことでしょう。
案外、大国主は我が国の隅々まで統治していたのかも知れません。それが、六・七世紀に統治者が変わる政治的社会的変化が起こったと、そう考えてもいいかも知れませんね。日本書紀やや古事記と若干のずれがありますが。
古代の神と祭祀は、朝廷の意向や、武士の台頭による祭祀の変更や祭神の入れ替え、さらに明治維新による合祀や祭神交代等により、もう今ではもともとの姿が分からなくなっていると思います。
しかし、府中市の大國魂神社は、はるかなる古代を少しだけ見せているかも知れません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます