コロンブドール

Les Films de la Colombe d'Or 白鳩が黄金の鳩になるよう人生ドラマを語る!私家版萬日誌

「大奥」絵島殿 高遠遠流 正徳疑獄の序2

2006-06-14 | アイであるモンド文献-大年寄 絵嶋
 「大奥」大年寄り絵嶋殿 絵嶋生島事件の要因      ーつづき 第二回追加

「アカデミック(Academic)」伝統格式派と
               「トレンド(Trend)」流行趨勢派の確執



天英院殿 (家宣の妻ー正室)
アカデミック派ー学究的で、伝統 格式の正統を重視。
                 堅実ゆゑに新しさや生気に乏しく重苦しい。

     父: 関白 近衛基煕(もとひろ)
     母: 後水尾帝皇女 常子内親王


月光院殿(家宣の妾ー側室) 
トレンド派 ー 時代傾向的で、流行や経済変動の動向を著しく重視。
                 社会などある方向へ動く勢いに習うため派手で粗雑。

     父:江戸の町医者
     母:女子(当時家系図等には”女性”はー女子ーとしか残さない名なしです)



天英院
関白職は、天皇第一の臣にして公家の最高位たる職位であり、歴代天皇には関白に政治を代わりに行わせたたりするほど関白職は権力をもっていたそうです。
そんな関白職の父と天皇の血を受け継いでいる皇族出の母から生まれた天英院煕子(ひろこ)殿は幼年から皇族の生活が染みついき、後将軍家宣の元へ正妻として居座ります。
何千人をも女中を従える大奥の長となり、なに不自由なく生きることが出来たようです。
その地位を維持するのには、今までの春日の局時代からの環境を維持することになり、自然に保守的な生活様式になります。
故に、古からの伝統を重んじ、御家の格式を重要視し、上下の区別をはっきり分けるプライドの高い生活様式になります。


月光院殿
どう逆立ちしても正妻にはなれない、将軍家宣の妾、二号さんで、今で言う”愛人”が同居しているような感じですが、ただたんに将軍の男の子を産むだけの地位を受けているような側室の一人ですから、ある程度割り切った天真爛漫な御様子だったのでしょうか・・・。
生まれも、”元禄時代”の江戸ですから江戸の町も華やかで浮ついた感じの時勢であり、その空気を吸いながら月光院殿は育ったと思われます。
また、父の町医者の元で幼年娘時代を過ごしたのですから、外国からの珍しい話しを聞いたり、江戸の町の噂話など聞いたりし、長屋の娘以上に、おきゃんな江戸娘であったと思われます。
実際、月光院お照殿は気性のはっきりした江戸女と言われています。
更には、次期将軍になる家継を生み、将軍の母になってからは更に大らかさが漂い始めたと思われます。
故に、大年寄絵嶋殿に代参に行かせた後、大胆にも野郎歌舞伎鑑賞を許可したと思われます。
月光院殿も町民の娘出ですから、歌舞伎狂言の面白さは十分に知っていたはずですから、自分と同じ性格の絵嶋殿に幼年見た歌舞伎の楽しい様子などを聞かせたりして、月光院殿の方から歌舞伎鑑賞を薦めたのかもしれません・・・・・。

つまり、”類は友を呼ぶ”ように大奥に、
天英院殿には”保守的”な人々が集まり、
月光院殿には”新しいもの好き”が集まり、
大奥の中に自然に、各グループが生まれたものと思われます。

そのグループ同士の性格の差異から確執へとなり、ー大奥前面戦争ーになっていったのではないでしょうか・・・・。

現代で例えるなら、
          与党(保守) 対  野党(革新)

         学習院女子大  対  青学大 日本女子大 
          聖心女子大  対  フェリス女学院大

    のような火花が大奥内で炸裂している様子なのかもしれません・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
書きかけです。次は家宣の御寵愛の深度から要因を述べたいと思います。
                         後、つづきます・・・・・、


第一回 「アカデミック」派と「トレンド」派の確執 概要    06-12  
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「大奥」絵島殿 高遠遠流 正徳疑獄の序

2006-06-08 | アイであるモンド文献-大年寄 絵嶋
 「大奥」大年寄り絵嶋殿 絵嶋生島事件の発端



正徳四午年正月十四日、上野増上寺へ月光院様より御名代として
遣はされ候女中

  上 野へ  大年寄    絵嶋殿 三十三才
         御中老    梅山殿 二十五才
  増上寺へ 御年寄    宮路殿 三十二才
         御年寄並  伊予殿 二十五才
                  木曽路 二十壱才
                  おふせ 二十三才
                  おらん   十九才

右の女中都合十弐人、木挽町山村長太夫座見物に参られ、中村清
五郎.清助両人にて桟敷世話仕り、その上裏座敷にて役者ども罷
りいで大酒盛に成り、御城へ帰られ候刻限遅く成り申し候ゆゑ、
供に罷り越し候伊賀同心豊嶋久左衛門・稲川惣左衡門罷りいで、
もはや御帰り成らるべく候七ツ過ぎに罷り成り候と申し、役者ど
もを叱り侯ゆゑ、皆々退き申し侯、然るところ、絵嶋殿殊のほか
腹立ちにて、推参者慮外ものとて伊賀同心を叱り申されてのちか
へられ候、そののち御広敷御番頭(おひろしきごぱんがしら)へ絵嶋殿より申され候儀は、
今日供に参り候伊賀衆、我らに慮外仕り候と断り申されければ、
御番頭衆も絵嶋殿の事いか成る慮外仕り候やとて、おふきにおどろ
き御留守居方へ早々御広敷御番頭より断り申され候、これによつて
伊賀同心豊嶋久左衛門・稲川惣左衛門・久野(ひさの)金五郎・竹沢勘助番
頭へ御預け御穿鑿に相成り候ところ、木挽町役者どもと大酒盛の
異見の次第、一々申し披(開)き仕り候、これより御老中方へ申し
上げられ、秋元但馬守、大目付仙石丹波守、御目付丸毛五郎兵
いなふせんぎかかり
衛・稲生(いなふ)次郎左衛門、町奉行坪内能登守御詮議掛(せんぎかかり)、中村清五郎御
吟味に相成り一々白状仕り、去年中より絵嶋殿不義の次第残らず
申し上げたり、この清五郎は長太夫座の狂言作者にて、絵嶋どの
へ取り入り、殊のほか気に入り、呉服屋手代清助両人にて万事と
りもち申し候、これにより絵嶋殿舟遊山などに出られ候節は、人
数まで明白に相知れ申し候、二月二日より御詮議、三月六日落去(らっきゅ)
御仕置仰せ付けられ候

                           「枯木集」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

注 正徳四午年正月十四日(旧暦)  西暦 1714年 2月 28日(新暦)冬陽春~小春日和
     
      同   二月二日(旧暦)    同  3月 17日(新暦)桜の便りもちらほらの早春

      同   三月六日(旧暦)    同  4月 19日(新暦)朝夕暑寒差異の春
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵嶋殿 34歳(数え年で) 大(御)年寄になり三年目 
       時は、御屠蘇(おとそ)もあけない正月14日

月光院の御代名として文昭院(家宣)の御霊屋 芝道上寺へ代参した帰りに、
木挽町の山村座で歌舞伎狂言「東海道大石曽我」を130名余りの大勢で観劇し、
飲めや歌へやの大騒ぎをしたことによるとの事です。

注 当日の歌舞伎狂言演目は「大名曽我」(近松門左衛門作)、
             「さざれ石那須野の二柱」とも云われています。調査中

(「枯木集」の上野へ 芝増上寺への記述は誤っているかもしれません、調査中)

注 一般的な時代小説では、絵嶋殿と宮路さんの混乱を避けるため、
  一行絵嶋殿は芝道上寺へ代参した帰りに、山村座で観劇し、酒豪におよんだと
  書かれているようですが、時代考証で著名な稲垣史生氏の著書でも上記「枯木集」
  のように、絵嶋殿一行は上野 寛永寺へ、宮路さんは芝増上寺へ互いに代参し
  木挽町山村座で合流し、月光院様の許可を得て、堂々と観劇の息抜きレジャーに
  及んだと述べていますので、現時点では「枯木集」を採用したいと思います。
  なお、絵嶋での一行が芝増上寺からの代参の帰りであるというのは、
  ”判決文”の文書のようですが元文が見つからなかったので
  今後の課題とさせていただきます。
  
  なお寛永寺当時は、徳川家の菩提寺で厳有院(家綱)、常憲院(綱吉)両殿が御眠りし、
  芝増上寺は文昭院(家宣)が御眠られているとの事ですので、御取調べのとき
  両者を取り違い筆記間違いをしたのではないかと推測も出来ますが・・・・。
            寛永寺           増上寺

補 木挽町の山村座の場所は、現在の銀座 旧丸善書店のあたりだそうです。
   (丸善本店が丸の内ビルに移転したようですので日本橋高島屋近くで銀座より
                      といったほうが分かりやすいかも・・・)

後、余談がありどんどん災いが絵嶋殿にふりかかってきます・・・・。

また、時代考証家稲垣史生氏論を目を通して見ますと、色々と想像が働きました!
この絵嶋生島事件での、大奥での天英院様と月光院様の性格からの根本的な確執を閃きました。

  つまり「アカデミック(Academic)」伝統格式派
                     「トレンド(Trend)」流行趨勢派の確執です!

次回は、上記検証を熟させ述べたいと思います・・・・。
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「大奥」絵島殿 高遠遠流 永眠し女人成仏

2006-06-07 | アイであるモンド文献-大年寄 絵嶋
      「大奥」大年寄り絵嶋殿 高遠 この地この屋敷で 女人成仏至

 絵嶋殿「もし相果て候はば、
       日蓮宗にて候間法花寺(ほつけでら)へ取り置き候」とのみ言付け・・・

  この囲み屋敷の角材格子によって囲まれた八畳間で机の上に法華経を紐解き開き、
  大奥での政治権力争いの犠牲者として哀れみ世なきと想い、
  成仏なさったのでしょうか・・・・・。


寛保元辛酉年

一、四月三日晩御在所より飛脚立て、絵嶋去年二月頃より快からず
  浮腫もこれ有り候のところ、軽き容体にて服薬いたしつれづれ
  快く当年に至り、相変る儀もこれなく候ところ、去る二日頃よ
  り寒熱これ有り、痰咳ならびに痞(つかえ)強く、食事進まず、同七日
  八日頃よりさし重(おも)り絶食にて
一、同十三日巳下刻御足軽飛脚弐人着き、絵嶋養生相叶はず、去る
  十日酉上刻落命の由申し来る
一、北原道立.伊東交言最初より療治し、薬剤ならびに様体書等来る
  右に付き、御用番本多中務太輔(なかつかさだゆう)様へせんだつて絵嶋病気の御届
  け相勤め候、死去の段はいまだ披露に及ばず

     御徒目付衆両人尋ねの趣答書の控へ
一、絵嶋事何年以前何月幾日御預けに成り候や、誰殿仰せ渡され候
  や
  正徳四年甲午三月十二日、御老中阿部豊後守様へ留守居の
  者召し呼ばれ、御直(じき)に仰せ渡され候、絵嶋事永き遠流仰せ
  つけられ候、このたび在所高遠へ遣はし候やうに、尤も御
  預けと申すにてはこれなき段仰せ渡され候
  (中略)
一、つねづね江戸表の儀など咄(はな)し候節も御座候や
    つねづね江戸表の儀咄し候儀御座なく候由、附け置き候下
    女申し候
一、なんぞ苦に致し候躰(てい)など相見え候や.
    何にても苦に致され候躰相見えず候由、附け置き候下女申
    し候
一、死後の事など申さず候や

    もし相果て候はば、日蓮宗にて候間法花寺(ほつけでら)へ取り置き候や
    うに致したき旨つねづね申され候由、附け置き候下女申し
    候、このほか何にても申し置かれ候儀御座なく候段、これ
    また下女申し候、以上(中略)
右御尋ね成られ候か条、一々御答書仕り候通り御座候、以上
                 内藤大和守内
   酉四月廿五日          田村与一右衛門
                   (以下六名略)

      杉浦惣十郎殿
      平林太郎左衡門殿


                           「江嶋卸預ヶ記」より

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注 寛保元辛酉年 四月三日(旧暦)      西暦 1741年 5月 17日(新暦)

  正徳四年甲午三月十二日(旧暦)      西暦 1714年 4月 25日(新暦)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

絵嶋殿は、
寛保元辛酉年酉上刻 四月十日(旧暦) 西暦 1741年 5月 24日午後六時頃(新暦)、
体がむくみ、寒気、喉に痰がからみ食事も喉に通らず絶食状態になり衰弱し、藩士の看護もままならず永眠なさったようです。
絵嶋殿の遺言は一言
    「願わくは日蓮宗を信心しておりますゆえ、亡骸を法華寺へ葬ってください」
                                      と女中に託したそうです。
絵嶋殿は、高遠の地に遠流になったとき、生家が法華信者の家であったためなのでしょうか持参した法華経一巻を糧に、日蓮宗に帰依し読経念仏三昧精進の日々を送り生涯を突き通され成仏なさたそうです。
また絵嶋殿はよく、朝夕に聞こえる鐘の音に耳を澄まし、女中にその寺寺の名を聞いたそうですので、その鐘の音に幼い頃聞いたような思い出を回顧し、しみじみ生まれた故郷、そして両親を遠く高遠の地で顧みたのでしょうか・・・・・。
 絵嶋殿は、よく高遠で桜を観て四月三日に御亡くなりになったと哀れ悲しむ方が多いようですが、実際は五月中旬で桜は散ってしまっています。しかし四月下旬頃哀れんだ藩士、女中は一枝の桜を机の上に飾ったと思え、桜のように花開き、散っていく姿を我に顧み成仏への準備に入ったと考えたほうが宜しいようです・・・・。

 ー浮き世にはまた帰らぬ武蔵野の 月の光のかげもはづかしー  絵嶋の辞世

                   絵島物語 高遠HP
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「大奥」絵島殿 高遠遠流 暮らしと藩士の温情 

2006-06-05 | アイであるモンド文献-大年寄 絵嶋
「大奥」大年寄り絵島殿 高遠遠流 暮らしと藩士の温情
 

享保四己亥年八月

一、絵嶋殿居所寒国その上山方に付き、冬に至り殊のほか寒く、壁
  なども落ちだんだん破損仕り侯へども、女中の義に候へば時々
  の修復致しがたく迷惑仕り候、これにより、苦しからざる儀に
  候へば城下に差し置き申したく存じ候、城下は人向きもよく、
  余り氷等も強く御座なく候に付き申し上げ候、苦しからず思召(おぽしめ)
  し候はば御考へ遊ばされ、河内守様へ御内意御伺ひ下され候や
  う仕りたきの旨、下総守どの申し上げ候ところ、御心得なされ
  候由御考へ候へども、御覧なさるべく候由、仰せられ候
一、廿八日下総守様御出で仰せられ候は、先頃申し上げ候絵嶋居所
  の儀、河内守様へ仰せ上げられ候ところ、今日御書付をもつて仰
  せ聞かされ候、すなはち御書付御持参御渡し成され候、左の通り
    亡父駿河守の時御預りの絵嶋の事、領分城下より壱里程も
    隔て差し置き候、雪国その上山中にて、附け置き候家来共
    難儀致し候に付いて、今少し城下辺りへ差し置きたき由、
    さ候はば、相応のしまりよき処に勝手次第差し置き申すべ
    く候、以上

                   内藤伊賀守家来
                     この通り張り紙

   右大奉書半切
  右御請け三郎右衛門相勤める


                          「江嶋卸預ヶ記」より


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高遠に遠流になた絵嶋殿は、はじめ城下から一里四キロほど遠くの在
三峯川上流んの非持村(現 長谷{村})平栗 の物置を改造した囲い屋敷に
幽閉されそうです。                  
しかし六年も過ぎては、元々在にあった物置ゆえ傷みが甚だしく、女中が部屋に入るも
容易ではなく、修理さえもままならない状況だったそうです。
        非持村 平栗(伊那市長谷溝口)付近地図
                       この神田橋付近か?または湖の下か?

 みかねた藩は内藤伊賀守名において上記のようなお伺い書を差出、
下総守様をとおして許可の回答を得、
城下 五町離れた三峯川断崖上の花畑に、平栗のような囲み屋敷を造り、
幽閉されそうです。
 高遠藩士の絵嶋殿に対する御慈悲所以なのでしょうか・・・・・。
         高遠 花畑 付近地図
            城下すぐで蓮華寺からは0.8から1kmくらいの距離です。
                     実際、歩いてみましたらすぐでした。


 実際は、高遠藩の財政窮乏による、人件費の削減が主な要因だったようですが、
日々精進の絵嶋殿の様子を観ている藩士はさぞかし温情を与えてやりたくなったのでしょう・・・・。

      高遠 絵嶋殿囲み屋敷
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 今後、古文書では「絵嶋殿」と多く書かれていますので
    「絵嶋殿」で統一させていただきます。

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注  享保4年 八月(旧暦) =  1719年 九月(新暦)
   絵嶋殿 39歳

  写真は、再現された高遠 絵嶋殿囲み屋敷 での絵嶋殿が幽閉された八畳間
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「大奥」絵島 高遠遠流 質素な生活食事の様子 

2006-06-02 | アイであるモンド文献-大年寄 絵嶋
フジTV人気ドラマ「大奥」が絵島事件を映画化 フジTV=東映 東映京都で撮影!
フジTV人気ドラマ「大奥」を正月映画として劇場公開するのでその参考に!!

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絵島殿 高遠遠流 生活食事処遇 覚


 正徳四甲午年


一、午三月十三日七ツ時前、阿部豊後守様後用人中より仰せ渡さる
  義これ有り候間、壱人罷り出で候やうにと申し来り、即刻十兵
  衛罷り越し候ところ、豊後守様間近く御呼び御直(じき)に仰せ渡され
  候は、絵嶋の事御預けにてはこれなく遠流(おんる)同前の儀に候間、駿
  河守殿へ引き取り申され在所へ越し申さるべく候、右の通り御
  預けにてはこれなく候間さやうに相心得らるべく候、則ち御書
  付弐通御渡し成され候て、諸事随分軽く手当いたさるべく候由、
  絵嶋の事牢屋に罷り在り候間、坪内能登守方より請け取り申さ
  るべき由、右御書付左に記す

      内藤駿河守

  大奉書半切紙

    絵嶋の事永く遠流たる筈に候間、在所高遠へ遣はし、番
    人附け差し置かるべく候


     覚

一、かろき下女壱人附け置き申すべく候
一、食物の義一汁一莱に仕り、朝夕両度の外無用に候
   つけたり、湯茶は格別そのほか酒菓子何にても給(たべ)させ申すまじ
   く候
一、衣類木綿着物布帷子の外堅く無用に候
  右の外追って相伺はるべく候、以上 

                      「江嶋御預ヶ記」より


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
信州 高遠での生活は「大奥」 大年寄の待遇から一変に質素な生活になったようです。
食事は一汁一莱の朝夕のみ。
また着物は木綿着物、布帷子のみ着用を許されたそうです。

大奥での大年寄の贅沢三昧からの生活から、
上記のような質素な生活に耐えた絵島さんはどのような面持ちで、
高遠の囲み屋敷で見張られ28年間幽閉され過ごされたでしょうか・・・・?

高遠での、戦時下中野学童疎開を調べていましたら偶然に、
絵島事件の当時の文献が手に入りましたので、
興味ながら少しづつ載せたいと思います。

注 「絵島」の名前表記は文献古文書では「江嶋」「絵嶋」など
   役所の奉行筆記担当者によって色々とあるようです。

桜 探鳩 - 高遠15 絵島囲み屋敷


「大奥」が絵島事件を映画化フジTV=東映 高遠での縁!
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