1週間前小中学校の同窓会案内状を出しました。今度の同窓会は卒業以来17回目の喜寿記念同窓会です。
2年前、岐阜市近辺に住む3人の我々が幹事を仰せつかり、昨年から中心的な級友がいろいろ心配して模索してくれましたが、どの案も決定打に欠け、春に3人が当方の近くの喫茶店に集まり相談、結局当方がパソコンやワープロができることから、任されてしまいました。
早期退職した頃、中心役から持ちかけられ、長く中断していて皆現職で忙しがっていた頃、やはり当方が具体的推進役になって、昭和58年下呂温泉のホテルでやったのが、5回目です。
卒業してまだ1年目の翌年の同窓会からつづいてきたのです。開催暦もきちんと引き継がれてきています。絆が強いですね。
小中一貫校で、村には3つの小中校がありましたが、いまは全村1校になっています。卒業時の行政区は村で、そのうち町になり、卒業した学校は今は廃校になり高山市に合併しています。
中学卒業は昭和27年3月、当時は子どもの数が多く43名もいました。そのうち亡くなった友は10名、最初に亡くなったのは昭和34年(1959)9月26日26歳で亡くなった男性です。
何の日かお気づきですか。伊勢湾台風の日です。彼は鍋田干拓に入植し田作りに励んでいたのでしょう。暗闇に大波を被って今でも行方不明です。鍋田の土になったか、伊勢湾の底に眠っているのでしょう。数年前の同窓会では、50回忌の年だと親しかった友人が同窓会の場で紹介しました。
もちろんいつも会のはじめに、物故者に対して黙祷を捧げます。この2年間で2人の女性が亡くなりなした。1人は一度も参加されなかったので、下打ち合わせで亡くなった情報を聞き、没年を確かめるため遺族へ電話しました。
80歳だと名乗られたご主人は「同窓会は出たほうがよいと言ったが、故人は人前に出ることを好まなかった。何でもやり通す人だった」と寂しがっておられました。
今回は77歳にもなったし、従来全員に案内状を出していたのを止め、一度も参加しなかった方、最近とみに不参加の方、ご病気の方、への案内はわたし一存で出すのを控えました。
幼児体験を思い出すことを嫌う人、人前に出ることを好まない人など様々だからです。中には何度出しても返事さえ返さない人もいます。
生存者33名中自分を含め22人に出しました。往復はがきの簡単文でなくA4に書いて、その旨断わり書きしました。古川柳にいわく、「野暮亭主どうかどうかとやたら聞き」といいいます。この歳になると、出ない人に、どうか、どうか、は野暮だと思ったからです。2年置きにやっています。
朝日新聞は7月はじめに「うれしはずかし同窓会」を4回連載しました。“35年ぶり一気に中学生、3ヶ月前から準備を、連絡先探しは名簿業者がお助け、長続きのコツ「毎年開かない」”の4回の連載でした。毎年開かない、そのとおりで58年開催の折、次回開催と幹事指名で、亡くなった名棟梁だった級友が「毎年やると飽きられる」と提案してくれたからです。
同窓会って良いですね。孫自慢もよし、足腰痛いもよし、お金ないもよし、何でもよし、一夜語り合い、愚痴り合うと、あっという間に小学生です。今度も郷里高山市の準民宿で全員一泊、9月はじめの開催で案内しました。。ボツボツ返書が届きます。