たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

春日局余話

2013年07月20日 | その他

お福(春日局)が23歳から26歳まで過ごした、美濃の国、武芸川町谷口は、小さな谷川が山から武儀川にそそぎこむ、日本のどこにでもある少し開けた、河岸段丘で狭く小さな傾斜地で平場の少ない地でした。法泉寺の近くに武芸川小学校があった。

汾陽寺の入り口が分らず通り過ぎてしまって、阪の峠のつづら折れを登りきって寺尾の千本桜の端に出て駐車場で折り返した。
この平場には花の季節だけ茶店が出るのか数軒の茶店や公衆トイレがある。今はどこも閉鎖していた。
この駐車場が猫の捨て場になっているらしく、5匹も遊んでいた。中でもクロぶちは人に馴れていて、スリスリしてくるし、撫でてやると喉を鳴らしごろんと横になって甘えた。
子猫が2匹、これはおどおどしていて逃げてしまう。この親猫はお福のように、しっかりものらしく、子猫と当方を横にらみして近寄らない。
こんなところに食べるものがあるのか。缶詰の空き缶が3つほど、中には何もない。雨水ばかり。それを彼等は舐めていた。
ペットをひどいことをするなあ。夏は昆虫や蛙くらいが彼等の食事だろうか。冬は凍え死んでしまうだろう。

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クロぶちはお福の夫稲葉正成といったところでしょうか。
稲葉正成⇒系譜は美濃国池田郡を領し、小寺山城に居城した
初代⇒稲葉塩塵を祖とする。
二代目⇒道則(大永5年牧田合戦戦死)
三代目⇒一鉄(揖斐川町清水城主、本郷城に生まれる)
四代目⇒重通 
五代目⇒正成(林正成といった。父は林惣兵衛正秀といい伊予の河野氏がルーツで稲葉家と同じ美濃国の林家の出自)
正成⇒”元亀2年美濃国本巣郡十七条に生まれる。はじめ稲葉一鉄美濃国曽根城に居す。林氏もまた同国十七条にあり。両域地相交わるがゆえに、しばしば合戦におよぶという。”

正成は稲葉家と林家のしばしばの合戦の和睦のため稲葉重通の婿となる。妻は四代目の重通の長女、この長女が死んでしまったため、お福もまた重通の養女に迎えられ、重通は死んだ長女の婿の後妻に、養女のお福を結婚させた。
そもそもお福を養女にしたのは2人を夫婦にするため養女にしたのだろうという・・。ややこしいね。
お福の系譜⇒稲葉塩塵から3代目、一鉄の兄弟の通明の娘「おあん」と斉藤利三(白樫城主、明智光秀に従い捕らえられて刑死す、天正10年打ち首、さらし首)が結婚して生まれたのがお福である。したがってお福は後妻であり先妻の子が1男1女いたという。

先妻の子⇒一男は政次(まさつぐ)、一女はのちに堀田勘左衛門正吉に嫁ぎ、のちに老中として家光をバックアップする堀田正守は、その子である。

正成のその後⇒彼はお福と離婚した後も浪人していたが、お福が竹千代の乳母になったため、美濃国で1万石の所領を与えられ大名に、さらに1万石を加増され越後の糸魚川に赴く。稲葉内匠助と改め土佐へ移った。
お福の母「おあん」⇒一鉄の兄弟、通明の娘とも、道勝の娘とも、はたまた一鉄兄弟の牧田合戦で死亡した5人の兄弟の誰かに稲葉右京進というものがあり、その娘ともはっきりしないらしい。お福がどこで生まれたかもはっきりしていない。
正成とお福の子⇒4人の男の子、長男の正勝は8歳にして家康に仕え寛永9年小田原城主となる。長男の千熊(せんくま)が家光の小姓になっている。この千熊がのちの正勝である。

図書館の本をネット検索したら、春日局に関する本は100冊くらいある。目ぼしい本をメモして図書館へ行った。
以上は⇒わずか18ページのパンフ 「春日局のふるさと 美濃池田路紀行(岐阜池田町発行)系図が分りやすい。稲葉家累代の墓は町内の養源院にある。
「知られざる実像 春日局」小和田哲男 講談社 この本は学術的に詳しく分りやすい。3分の1も読んでいない。この2冊は郷土コーナーの棚にあった。
それにしても「大奥」という幕府統制を形成し、徳川250年の基をつくったお福、春日局はすごい女性だったことが分った。


歴史散歩 春日局ゆかりの地 その3

2013年07月20日 | その他

法泉寺のある武芸川町谷口の集落の外れの県道入り口から、さらに1キロほどの深い山の中の行き止まりに汾陽寺(ふんようじ)がありました。
県道を谷口の集落を過ぎ、つづら折れの「阪の峠」を登りきると頂上が「寺尾の千本桜」です。
汾陽寺の入り口を見落として戻るに戻れず峠を越し、千本桜の駐車場まで行ってしまい、そこから戻りました。今度は汾陽寺入り口のバス停標識でようやくたどり着きました。
入り口から数百メートルは舗装道路、途中から1キロほどの坂道が砂利道です。道肌は雨水で荒れていました。
こんな山の中に無住寺でない寺が本当にあるのかと、薄暗い杉木立の中を行き、寺の前100メートルほどの急坂が乗用車では難儀で、退避場に車を止め、そこから徒歩で登りました。お寺へ着くと、やはりご住職の車は4輪駆動の乗用車でした。

この寺は、登り口の由緒看板のとおり、やはり歴史の古いお寺です。
”創建は、土岐氏執権斉藤越前守利永
再興は、斉藤新四郎利国で利永、利国は共に美濃を支配した武将。利国の遠縁に春日局の父、斉藤内蔵助利三(としみつ)あり、この縁で局は当寺にしばしば参詣したと伝えあり。(お局道)”とあります。

斉藤利三は本能寺の変で明智光秀につき、信長を討ったが、秀吉に攻められ光秀は戦死、利三も捕えられ洛中引きまわしの上、六条川原で首を切られた。秀吉は光秀と利三の首と死体をあらためてつなぎあわせ、粟田口で磔にした。
お福も母に連れられ変わり果てた父を見に行ったという説もあると、「歴史秘話ヒストリア」は放映しました。お福(春日局)が4歳のときです。

お福は17歳のとき稲葉正成(まさなり)と結婚。5年後に関ヶ原の戦いが起こる。戦いの翌年、正成は主君の小早川秀明と不和となり浪人、故郷の美濃谷口に引っ込んでしまった。お福も夫に従った。23歳だった。
夫の再仕官の口はなかなか見つからなかった。お福にはすでに3人の男の子が生まれていた。そうした時、将軍家で生まれてくる子供のために乳母を募集していると聞きそれに応じ、家康は経歴を気に入り、お福は夫と離婚して江戸に向った。折り良くお福は4人目の男の子を出産したばかり、お乳は出る、狭い館で妻妾洞穴、夫にも嫌気がさしていて家庭不和、妻主導で離婚した。26歳だった。
(参考資料、「日本史探訪」北条秀司、杉本苑子、「春日局」小和田哲男等)

亡き父の菩提を弔うため、3年間昼なお暗い「お局道」をしばしば参詣したのかと想像しました。それにしてもこの辺ぴな山の禅寺を、よく何百年も守ってこられたと、住職さんに敬意を感じました。
   
汾陽寺由緒           県道入り口集落方面  お局道         本堂前

    
本堂と道場        本堂と道場       山門           お局道

余話へつづく