重要データベース
P1 目次
00900 ★■■■■■歴史史跡
00901 ★■■■京都の歴史
01000 ★1平安京以前の京都■
01300 ★2平安遷都■
01600 ★3平安・鎌倉時代の京都■
01900 ★4室町時代の京都■
02100 ★5安土桃山から江戸時代の京都■
02308 ★6近代の京都■
02600 ★■■■京都の史跡
02610 ★1古代の史跡■
03100 ★2中世の史跡■
03470 ★本能寺跡
本能寺跡
(中京区元本能寺南町)
天正十年(一五八二)、織田信長が討たれた本能寺の変は、現在の本能寺(↓172頁)の場所ではなく、蛸薬師西洞院のあたりにあった時に起こった。本能寺は、当時京都で勢力を伸ばしていた洛中法華二十一ヵ寺本山(↓170頁)の一寺で、壮大な寺域を占めていた。そこを宿所としていた信長を明智光秀が急襲したことで、その寺名は日本史に深く残ることとなった。その跡地付近を示す石碑が二ヵ所にある。寺は天正二十年、豊臣秀吉の命によって現在地に移転した。
03500 ★3近世の史跡■
04810 ★高瀬川一之舟入
高瀬川一之舟入(船入)
(中京区木屋町通一一条下ル)
高瀬川は、角倉了以・素庵の父子が開いた運河で、二条から鴨川の水を引き、伏見まで通じている。慶長十六年(一六一一)から同十九年頃にかけて完成したとされる。この運河が開通したことによって、大坂・伏見から京都への物資運搬が活発になり、近世京都の都市形成に大きな役割を果たした。川の水深は浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられたことから、高瀬川と呼ばれるようになった。高瀬舟の荷物の上げ下ろしをする船溜所のことを「舟入(船入)」といい、数ヵ所の舟入が設けられたが、唯一当時の姿を留めているのが一之舟入で、国の史跡に指定されている。二之舟入から九之舟入にはその場所を示す石碑が建立されている。かつては一之舟入に隣接して、角倉邸が存在した。角倉氏は江戸時代を通じて高瀬川水運の権益を持っていた。角倉邸にあった庭石は、昭和四十年(一九六五)に造営された二条城清流園に移されている。高瀬川の水運は、大正九年(一九二〇)に廃止された。
04900 ★4幕末維新の史跡■
04901 ★前文
4幕末維新の史跡
嘉永六年(一八五三)のペリー浦賀来航に代表される外圧の中で、尊王攘夷(尊攘)思想は急激な広がりをみせ、やがて討幕論と合体する。安政五年(一八五八)の幕府独断による日米修好通商条約の締結と安政の大獄、万延元年(一八六〇)の桜田門外の変と、国内の情勢は激変した。その渦中で京都は討幕・佐幕両派の抗争の舞台となり、天諌の名のもと尊攘派による暗殺が横行した。本間精一郎や佐久間象山など木屋町通沿いに立つ遭難碑が、当時の苛烈な状況を今に伝えている。
そのような情勢の中、文久三年(一八六三)、将軍徳川家茂が上洛した。清河八郎の率いる浪士組は、将軍警護の目的で先に上洛していたが、清河が目的は尊王攘夷にあると態度を一変させたことから、それに反発した近藤勇・芹沢鴨らは清河と決別した。彼らは、京都守護職に就任した松平容保(本陣は金戒光明寺)の預かりとなり、やがて「新選組」を称し、尊攘過激派の取締りにあたった。最初に屯所が置かれた壬生村には、現在も新選組関係の史跡が多く残されている。
元治元年(一八六四)六月に勃発した池田屋騒動(池田屋事件)によって打撃を受けた長州勢は、翌七月、大軍を率いて上洛、薩摩・会津などの幕府軍と激戦となり、多くの建物が類焼した。この禁門の変(蛤御門の変)の戦いによって一時は犬猿の仲となった薩長両藩であったが、慶応二年(一八六六)、土佐出身の坂本龍馬らの尽カによって同盟が結ばれ、翌三年十月には大政奉還が実現されるなど、討幕は平穏に達成されるかに見えた。坂本龍馬が近江屋で暗殺されたのは、その翌月のことであった。過激派公卿の岩倉具視や西郷隆盛・桂小五郎(木戸孝允)らは、徳川家を武力によって減ぼそうと、王政復古のクーデターを断行。これらの画策を不満とした旧幕臣らの怒りは、恭順の姿勢を見せる徳川慶喜にも抑えられず、やがて鳥羽・伏見の戦いへと発展していく。以後、明治二年(一八六九)の五稜郭の戦いまで、日本は内乱の時代に入ることとなった。
05010 ★蛤御門
05030 ★池田屋騒動跡碑
池田屋騒動跡碑
(中京区三条通木屋町西入北側)
元治元年(一八六四)六月、三条小橋の旅籠池田屋に集まった長州藩士らが新選組の襲撃を受け、多数の死傷者と逮捕者を出した幕末史に特筆される大事件。事件の発端は、当時、討幕派にアジトを提供していた西木屋町通四条上ル西入の商人枡屋喜右衛門(古高俊太郎)が新選組に逮捕されたことから、古高奪還の会合を池田屋で持ったことによる。この池田屋騒動をきっかけに、翌七月、禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。現在池田屋跡には石碑が立っている。
05050 ★近江屋跡碑
近江屋跡碑
(中京区河原町通蛸薬師下ル西側)
近江屋は、河原町通蛸薬師下ルの醤油商。慶応三年(一八六七)十一月十五日、薩長同盟と大政奉還の立役者であった土佐の坂本龍馬は、盟友中岡慎太郎とともに、ここ近江屋で京都見廻組の襲撃を受けた。坂本龍馬は即死(ただし、墓には翌十六日闘死とあり)、中岡は全身に刀傷を負うも数日生きながらえた。今は跡地に石碑が立つ。
05210 ★坂本龍馬寓居跡
坂本龍馬寓居跡(海援隊屯所跡)
(中京区河原町通三条下ル一筋目東入北側)
河原町通三条下ル一筋目東入に建つ酢屋は東側を流れる高瀬川によって運ばれた材木を商う材木商であった。慶応三年(一八六七)六月、坂本龍馬は海援隊の屯所をこの酢屋に置き、また自らの宿舎ともした。現建物の二階ギャラリーでは龍馬関運の資料が展示され、命日の十一月十五日には龍馬を偲ぶ行事があり、十一月中は追悼展が催されてい
05250 ★長州藩邸跡
長州藩邸跡
(中京区御池通河原町東入)
江戸時代初期、高瀬川一之舟入(↓48頁)近くに建てられた。幕末には尊王攘夷派の一大拠点となったが、蛤御門の変(禁門の変)で類焼。現在京都ホテルオークラの一角に跡碑が立ち、長州藩士桂小五郎の等身大の銅像も建立されている。
05261 ★土佐藩邸跡
士佐藩邸跡
(中京区木屋町通蛸薬師西南角)
高瀬川沿いの旧立誠小学校から河原町通にかけての一帯に、江戸時代初期から土佐藩の京屋敷が構えられていた。現在高瀬川沿いに跡碑が立つが、そこから少し西側に鎮座する土佐稲荷(岬神社)は、もと藩邸内にあったもの。なお、同社に参詣する町人のため、藩邸内の通り抜けが許可されていた。
05270 ★新撰組壬生屯所跡
05310 ★寺田屋
05330 ★鳥羽・伏見戦跡
05400 ★5近代の史跡■
05900 ★■■■■■神社寺院
06001 ★序■
06007 ★北区■
06349 ★上京区■
06740 ★左京区■
07209 ★中京区■
07250 ★中京区・白山神社
白山神社
(中京区麩屋町通押小路下ル上白山町)
祭神 菊理比売(別名白山媛命)、伊弊諾命、伊弊再命
治承年間(一一七七~八一)に加賀の白山の僧侶が、御輿を担いで強訴したがかなわずに、神輿を捨てて帰山した。
その後、神罰を恐れた人々がその神輿を祀って創建したと伝える。歯痛平癒の神とされ、神箸が授与される。
07269 ★東山区■
07729 ★山科区■
07750 ★南区■
07769 ★下京区■
07802 ★右京区■
08000 ★西京区■
08100 ★伏見区■
08300 ★京都市外■
08600 ★■■■京都の寺院
08602 ★■天台宗■
09800 ★■真言宗■
12100 ★■臨済宗■
14400 ★■曹洞宗■
14600 ★■黄檗宗■
14900 ★■浄土宗■
14910 ★浄土宗/序■
14929 ★浄土宗/北区■
15009 ★浄土宗/上京区■
15129 ★浄土宗/左京区■
15429 ★浄土宗/中京区■
15440 ★浄土宗・中京区・瑞泉寺
瑞泉寺(中京区木屋町通三条下ル石屋町)
◆本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山禅林寺派の寺院。
山号は慈舟山。
三条木屋町の繁華街の中、鴨川と高瀬川の間に立地している。それは豊臣秀次一族の悲劇の由緒による。秀次は豊臣秀吉の姉の子で、子のない秀吉の養子となって関白職を引き継いだ人物。しかし、その秀吉に実子が誕生する頃から次第に疎んぜられるようになり、文禄四年(一五九五)、高野山へ追放、切腹した。さらに秀次の妻子三十九人が三条河原において処刑され、その遺骸の埋められた穴に塚が築かれた。やがて、鴨川の氾濫などでその塚も荒廃したが、事件の十六年後にあたる慶長十六年(一六一一)、高瀬川の開削を行っていた角倉了以は、塚を整備し、秀次一族を弔う寺を創建した。これが瑞泉寺の発祥で、寺名は秀次の法名からとられた。
15450 ★浄土宗・中京区・誓願寺
誓願寺
本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の総本山。
天智天皇の勅願所として奈良に建立されたが、のちに上京区元誓願寺通小川の地に移転。
現在地へは天正年間(一五七三~九二)に移った。
当初は三論宗であり、のち浄土宗に改宗、その後、西山深草派の総本山となった。同寺の五十五世安楽庵策伝は、笑い話集『醒睡笑』を著わし、落語の祖と呼ばれている。門前に有名な石造の「迷子道しるべ」(月下氷人石)がある。墓地には安楽庵策伝や医師山脇東洋などの墓がある。洛陽六阿弥陀巡りの一つ。また、明治時代初期に廃寺となった長金寺の本尊十一面観音が伝わり、洛陽三十三所観音霊場第二番札所の本尊となっている。↓洛陽三十三所観音霊場103頁、洛陽六阿弥陀巡り155頁
15530 ★浄土宗・中京区・矢田寺
矢田寺(中京区寺町通三条上ル天性寺前町)
◆本尊 地蔵菩薩
西山浄土宗の寺院。
山号は金剛山。
矢田地蔵の名で知られる。奈良矢田山金剛山寺(矢田寺)の別院として、延暦十五年(七九六)に創建されたと伝える。また、開山の満慶に小野篁が帰依し、弘仁十三年(八二二)に二人によって創建されたとも伝える。本尊はかつての六地蔵の一つ。満慶が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うということから代受苦地蔵とも呼ばれる。「矢田地蔵縁起」(重要文化財)などを所蔵する。有名な送り鐘(八月十六日)は、お盆の精霊を送るために撞く鐘。東山区の六道珍皇寺(↓削頁)の迎え鐘に対する呼び名。↓送り鐘293頁、かぼちゃ供養297・300頁、岩田帯320頁
15541 ★浄土宗・中京区・蛸薬師
15599 ★浄土宗/東山区■
15829 ★浄土宗/右京区■
16009 ★浄土宗/西京区■
16029 ★浄土宗/京都市外■
16100 ★■浄土真宗■
16700 ★■日蓮宗■
16709 ★日蓮宗/序■
16729 ★日蓮宗/北区■
16799 ★日蓮宗/上京区■
17149 ★日蓮宗/左京区■
17209 ★中京区・中京区■
17219 ★日蓮宗・中京区・本能寺
本能寺(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)
◆本尊 十界大曼黍羅
法華宗(本門流)の大本山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
開山の日隆が応永二十二年(一四一五)に油小路高辻に創建した本応寺が前身。
天文法華の乱での火災後、四条坊門(蛸薬師)西洞院付近に中興。
天正十年(一五八二)に明智光秀が織田信長を自刃に追いやった本能寺の変で再び焼失したが、同二十年には豊臣秀吉の転地命令で現在地に移転。その後も火災にあい、現在の堂舎は昭和三年(一九二八)の建立。伝藤原行成筆書巻「本能寺切」(国宝)は、鳳凰文の雲母刷りのある四枚の唐紙に小野篁・菅原道真・紀長谷雄の文書を行成が記したとされる。境内には、織田信長の供養塔をはじめ、文人画家の浦上玉堂・春琴父子の墓もある。なお、寺中の高俊院の日甫(大住院以信)は華道本能寺の始祖。↓本能寺跡34頁、放生会294頁、洛中法華二十一ヵ寺本山171頁
17229 ★日蓮宗/山科区■
17309 ★日蓮宗/右京区■
17329 ★日蓮宗/伏見区■
17400 ★■その他の宗派■
18100 ★■■■■■建築庭園美術
22700 ★■■■■■芸術文化
22800 ★■■■伝統工芸
23700 ★■■■伝統文化
24600 ★■■■花街
24610 ★前文
24620 ★1花街の歴史■
24623 ★先斗町
24800 ★2花街の行事■
24801 ★2花街の行事 -1
24810 ★花街のをどり
24820 ★都の賑い
都の賑わい
京都の五花街の芸舞妓による年一度の舞踊公演会。
平成六年、平安建都千二百年を記念して、京都の伝統伎芸の理解を目的として「五花街合同伝統芸能特別公演」として開いたのが始まり。
第四回公演から五花街合同公演「都の賑い」として、以来毎年六月下旬の土曜・日曜の二日間、華やかな舞台が披露される。
24830 ★始業式
24840 ★初寄り
24850 ★八朔
24860 ★かにかくに祭
24901 ★事始め
24910 ★▼五花街のをどり
249121 ★▼五花街のをどり -都をどり五花街のをどり
24932 ★▼五花街のをどり -鴨川をどり
花街のをどり
名称
鴨川をどり
会期
五月一日~二十四日
会場
先斗町歌舞練場
(中京区三条大橋西詰)
説明
先斗町歌舞会の主催による春の踊り。
舞踊の流派は尾上流。
秋には「水明会」の公演が行われる。
24943 ★▼五花街のをどり- 京おどり
24954 ★▼五花街のをどり -北野をどり
24965 ★▼五花街のをどり-祇園をどり
25000 ★花簪
25100 ★3花街のしきたり■
25300 ★■■■■■生活行事
25400 ★■■■祭と行事
29800 ★■■■京料理
31200 ★■■■京菓子
32000 ★■■■京都のならわし
32600 ★■■■ことばと伝説
34000 ★■■■京都の地名
34012 ★1京の通り名・数え歌■
34200 ★2辻子と路地■
34310 ★3東山三十六峰■
34400 ★4難読地名とユニークな地名■
34800 ★5京の町並み■
34801 ★前文
34910 ★上賀茂伝統的建造物群保存地区
34930 ★産寧坂伝統的建造物群保存地区
34950 ★祇園新橋伝統的建造物群保存地区
35010 ★嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区
35020 ★北野上七軒
35030 ★祇園町南
35040 ★先斗町
寛文十年(一六七〇)に鴨川の堤防が建設され、その後、川に沿って町が形成
された。
京の町の東の先端にあることから、「先端」を意味するポルトガル語のポントが町名になったといわれる。江戸時代後期には公許の遊里であった。石畳の細い路地にお茶屋建築が多く現存し、京都でも特別な情緒のある町並みである。一帯は市によって先斗町界わい景観整備地区に指定されている。
35050 ★西陣
35060 ★三条通
三条通
中京区
東海道の終点であった三条通は賑わいのある通りの一つであった。明治時代初期には輸入洋晶を扱う店が次々出現し、その後、中京郵便局、日本銀行京都支店(現在の京都府京都文化博物館別館)などの洋風建築が建てられ、京都に文明開化を告げる風景を生み出した。明治・大正建築が今でも多く存在し、全国的にも珍しく貴重な街路景観である。三条通沿いの寺町通から新町通までの一帯は、市によって三条通界わい景観整備地区に指定されている。
35110 ★伏見酒蔵の町並み
35120 ★コラム京への出入口
35200 ★6京都の散歩道■
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