ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

覚醒して隠蔽することなかれ

2008-05-16 03:29:31 | 観想
○覚醒して隠蔽することなかれ

人には、必ず<気づき>という心の動きがある。気づきが何を意味するのかは、その人が置かれた状況によって異なるような性質のものである。気づきを難しく表現すると覚醒と言えばたぶん当てはまる。覚醒することは人間の精神にとって、とても重要なファクターだが、必ずしも誰もが覚醒を望んでいるわけではない。いや、むしろ多くの人々は心の中にわき上がってくる覚醒した実体を確認するのを恐れる。覚醒とは、ときに薬にもなり、毒にもなる。心の弱い人にとっては、自分の心の中に芽生えて来る覚醒感を隠蔽して憚らない。何故なら、人は覚醒した精神によって、日常生活における平衡感覚を揺るがされることにもなりかねないからである。あることに覚醒した人間にとって、それまでの日常性と、覚醒後の日常性とは似て非なるものになるからである。日常生活の奥深くに隠蔽していた、あらゆる感情が吹き出してくれば、それまで是としていたものが否定の対象にもなり、否定していたものが、胸にストンと落ちることすらある。このような人の感情の動きは、本来ダイナミズムに包まれたものであり、生の本質でもある。だからこそ抗えないのである。抗ってはならないのである。それがたとえ、自分のこれまでの価値意識を極端に逆転させたり、価値観の軸をブレさせようが、それが生の躍動そのものだからである。生における躍動を自らせき止めてしまえば、その人の人生は実につまらない存在に転化してしまう。それを平穏と呼び倣わして、いつまでも同じ次元に留まろうとするなら、そうすればよい。しかし、確実に言えることは、覚醒した精神を隠蔽するなどという、人間の本質とは裏腹の行為に甘んじていれば、その人の人生は確実につまらない、色褪せたものに陥ってしまうだけだろう、と僕は思う。

さらに言えば、一旦覚醒してしまえば、その覚醒感を抱いたままに、人は行動する。もしも、覚醒することを否定してしまったり、覚醒した意識をなかったもののように生きようとしても、そのような行為自体が無意味である故に、隠蔽しようとすればするほど、人は心の闇の中を彷徨うことになりかねない。精神の彷徨が意味を持つのは、己れの意識の意味を積極的に探そうとする青年の頃の、純情な日常性への抗いにこそ意味があるにせよ、成熟してなお心の気づきをなきものにしようとするような恐れが土台にある世間知などは、人の生き生きとした個性を壊しこそすれ、生成させることなど出来はしない。個としての人間の成熟度は、覚醒の度合いによってなし遂げられる性質のものである。精神の覚醒のない人間ほど、つまらない存在はない、と僕は思う。表層的なる社会生活への、己れの実体を隠蔽したままにこじつけるように適応させていく人生の、一体どこに意味があるのだろうか?

日常性とは、ある意味において危険に満ちた生の道のりである。平坦なる生などありはしない。もし、その中に身を埋めているつもりでも、必ずその人にとっての心の気づきが訪れることになる。これは絶対に避けることは出来ない。問題は、覚醒の時を迎えたときに、その人がとり得る態度が如何なるものか? ということに尽きる。人はあくまで覚醒に対して純朴に対応すべきである。心の中心部に大いなる傷ができ、ある場合においてその傷は膿み、その傷跡たるや見るに耐えないものなのかも知れない。血が吹き出ているのかも知れない。が、手早く軟膏を塗りたくり、傷口を治すことばかりに気をとられていると、折角の覚醒感を見逃してしまう。それは、人生という難物の生成を阻む自殺的行為ではなかろうか? よいではないか、傷つこうが、潰されようが、人は生きていく限りにおいて、生成の道のりを歩き続けるのである。そして生成とは精神の覚醒の連続の上に成り立つ貴重な生の軌跡である。だからこそ、みなさん、傷つくことを恐れず、常に前進しようではありませんか! そこにしか、生きている実感など見つかる余地はないのですから。覚醒の過程で、病むなら、大いに病んでもやりましょう! 瓦礫の山を乗り越えてこその人生。僕はそれこそが人生のありのままの姿だ、と思います。いかがでしょうか?

○推薦図書「100回泣くこと」 中村 航著。小学館文庫。青春の只なかに生きる主人公たちの、人生の彷徨の物語です。人生に倦み疲れた中高年のみなさんこそ、どうぞ。お薦めです。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃