ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

服飾という力学について考える

2008-05-21 00:33:59 | ファッション
○服飾という力学について考える

服飾とは思想である。そういう前提に立って論を進めていこう、と思う。とは言え、僕の守備範囲は限られているので、服飾一般についてのあれこれを語ることは出来はしないし、そのような必要もないか、と思う。恐らくは、限られた僕の観想で、ある程度の普遍化は出来ると思うので、思い切って、限られた話をしよう、と思う。

僕は昭和28年生まれであるから、とりわけ高校生の頃、憧れの服飾のスタイルは、石津謙介が創設した、<VAN>というトラッド物のそれであった。石津の天才的なトラッドへのこだわりは、トラッドという思想を常に逸脱する力を、服装という人間の生活意識の中に、抗い難い方法で強引に割り込ませてきたことである。あるいは、言葉を換えれば、服飾に思想的な力学が内蔵されていることを知らしめた点で、石津は天才的だったのではなかったか、と僕は思う。石津のトラッドは、瓦礫の中に建物を構築していくような力学が常に働いており、だからこそ、石津のトラッドには、伝統という保守性を革命的に変容させた、という逆説が、当時の僕たちを魅了したのではなかったか。石津にとってのトラッドとは常に変容し得るようなそれであり、保守の姿を借りた、服飾における革命だった、と規定することが出来るだろう。石津の<VAN>は、変動する時代と伴に訪れた。影響されないはずがないではないか。自分が服装にそれほどのこだわりを持っているとは決して思わないが、やはり心のどこかで、石津の思想を深いところで理解している、という想いには確信がある。

もし、なにほどか、僕の中に石津の目指した革命的な伝統主義という相矛盾する思想の残滓なりともあるとすれば、それは、僕の服装に関するちょっとしたこだわりの中に生きているようにも思う。それはどのようなこだわりなのか、というと大したことはない。トラッドスタイルは好きだが、僕は絶対にトラッドでありながら、それに幾分かの崩れを敢えて創る。それが僕の括弧つきのお洒落の概念である。石津の目指したような大がかりな意図など理解していないのかも知れないが、その端くれなりとも僕の裡には生きていそうな気がする。たぶん間違いなく、石津の意図はかなり縮小した形であれ、僕の中に生きつづけてはいる、と思う。再度言うが、僕の中のトラッドの定義とは、伝統的な表現の中に革命性を持ち込むことである。それは如何にも小さな試みでしかないが、単なる楽しみという軽いものでもない。あくまで思想としての力学が働いている。

教師生活を送るようになってから、長くそのことを忘却していた、と思う。僕は石津のトラッドとは真逆の、何の思想性もない、つまらない服装をして憚らなかった、と記憶する。お洒落でもなかったし、お洒落に思想が内在することすら忘れていた、と思う。たぶん、つまらない教師でもあったのだろう。僕が石津のトラッドに想いを馳せたのは、学校を去るまでの最後の8年間のことだ。僕はトラッドにこだわった。勿論、そこには常に崩壊感覚を内包しているような、伝統という意味においてのトラッドの表現があった。僕の思想に磨きがかかったのは、石津の<VAN>の存在の意味を、長い、長い年月の後で諒解したからだろう、と推測する。その頃、石津はまだ健在だった、と思うが、<VAN>というブランドは粉々に散り果てていた。それでも思い出したようにテレビに登場する石津謙介は、単なる思い出の中に浸ってなどいなかった。彼はあくまで現在形で彼なりのトラッドの思想性を語り続けた、と思う。僕は石津のこだわりを認める。これからも認めつづける。

教師仲間にトラッド好きな青年がいた。確かに彼はお洒落だったし、服装に一部の乱れもなかった。いや、僕にとっての不満は、彼の服装に対する革命性のなさだったのかも知れない。彼は絵に描いたようなトラッドを自分の服装で表現するだけだったから。そこに如何なる意味においても思想性のカケラもなかった、と思う。彼の愛するブランドは<SHIPS>だった。僕はこのブランドを認めない。<SHIPS>は、確かにトラッドそのものだが、ある意味、順列組み合わせのような存在でしかなく、このジャケットには、それに見合ったシャツを着て、シャツの色合いに合ったネクタイを締めて、パンツもそれに従って、組み合わせれば、即席ラーメンのようなトラッドが出来上がる。ある意味、トラッドになることに頭など使う必要などなく、そこにあるのは組み合わせの妙味だけである。だから彼は常に頭のテッペンから足の先まで決まりに決まっていたが、彼がそこに自分を表現している感はまるでなかった。彼がマネキンに突然変わってしまう錯覚を覚えたくらいだから。例えて言えば、今はさすがになくなったが、積水ハウスという、巨大な建築会社の一ブランチであった積水ハイムという箱型の部屋を工場で仕上げ、それらを建築現場で、積木のように組み立てるだけの作業を想起させた。そこに崩れの思想、あるいは革命的思想の要素が芽生える余地などなかった、と思う。だから、彼はたしかに飛び抜けてお洒落だったが、僕には彼が素材のよい服を来たマネキンにしか見えなかったのである。彼にはそのことは伝える機会がなかった。たぶん、僕が教師の世界を去って長すぎる時間が経過するが、彼はいまだに<SHIPS>の順列組み合わせがお好みな、単なるお洒落好きの無思想な中高年になっていることだろう。

服飾は思想の現れの一つであり、そこには思想の力学が渦巻いている。<考える服飾>の意味がこの世界には存在するべきだ、と僕は思う。たぶん、このことはかなり普遍的な要素を含んでいるのではないか、とも思う。今日の観想である。

○推薦図書「悩む力」姜尚中(カンサンジュン)著。集英社文庫。生きること、悩むことの意味と大切さを思い起こさせてくれる良書です。かつてのサユリストのお父さん方にも読んで頂きたい書です。吉永小百合さんご自身も推薦していますから。ぜひどうぞ。服装にも思想が必要だ、という意味で読んで頂きたき書です。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃