ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

動物愛護団体という虚妄

2008-05-29 00:48:55 | 社会・社会通念
○動物愛護団体という虚妄

動物愛護団体というヒューマニスティックな思想性に身を隠した文化破壊集団が、また己の傲慢さを合理化するようにして、他国の食文化への一方的な価値を押しつけてきたのである。主に西欧文化という、かつての野蛮で粗野な存在が、他国を侵略し、侵略した民族や、その文化を根こそぎ奪い去っていった過去の拭いがたい歴史の暴挙が頭の中を掠めて通る。またやつらか! と舌打ちしている自分に気がつく。自分たちは散々毛皮を得るために貴重な動物を殺戮し、別に極寒の地でもないのに、高級な毛皮に身を包んでは楽しんで飽きなかったくせに、手の平を返したように今度は毛皮にするために動物を殺すな! と来る。フランスの名女優のブリジット・バルドーなどはこの団体のお偉方だが、かつては見事な肢体を一般人には到底手の届かなかったはずの高価な毛皮のコートに身を包んで憚らなかったではないか。それがいまや、自分のお世話になった毛皮をデモンストレーションのために、惜しげもなく、火の中に投じてみせる。西欧人とはなんと厄介な思い上がった人間どもではないか、とつくづくと思う。他国を平気で蹂躪し、その国の文化的遺産をことごとく独占し、自分たちの文化を強引に押しつけ、それで平気なのだ。日本の軍国主義が自国の文化をアジア諸国に無理強いしたのは、西欧の、遅れた物真似だったに過ぎない。西欧人たちは、ずっと昔から他国に植民地を創り、そこに自国の文化・文明を押しつけてきたのではなかったか。これこそが西欧という名の、エゴイスティックで傲慢な価値意識の偽らざる姿である。確かに彼らの文化には憧れるほど魅力的なものがたくさんあるが、それらが存在するのも世界の歴史を鳥瞰してみれば明らかなことだが、他国を侵略して強引に手に入れた富の基礎の上に成り立っているのである。この事実に僕たちは再度認識を新たにしておきたいのである。かなり前のことになるが、今日はある大新聞に載っていた記事に興味をそそられたので、その問題に絞って書くことにする。

お隣の韓国では、犬肉料理が野蛮だという決めつけで、またもや、動物愛護団体が口出しをして70年代末には、犬肉が「食肉用家畜」から強引に外された経緯がある。その問題が何度も再燃しているわけである。我々日本人から鯨を奪ったのも西欧文化の底の浅い生命感だ。底が浅いというのは、自分たちの食する食肉については全てが合理化されている、という意味合いにおいてである。他国の食文化を自分たちだけの価値観で、滅ぼして憚らぬ西欧人たちの思想は傲慢である。あるいは醜悪である。それならば、なぜフォアグラという残虐な食物が高級素材としてまかりとおるのだろうか? キジや鳩や、その他諸々の鳥肉に対する拘り、あるいは肉食への変質狂的なる拘りをどうして是とすることが出来るのだろうか? 勿論日本には犬肉を食す食文化はないが、だからと言って、永年のお隣の国の食文化を否定するようなことはすまい、と思う。その意味において西欧文明とは幾多の民族の多大な犠牲の上に成り立った文化・文明である。しかし、もう西欧思想が罷り通るなどという時代は確実に変わりつつあるし、もしヨーロッパに足を踏み入れる機会があるとするなら、荘厳なる建造物一つをとりあげてみても、そこには弱小民族の血の犠牲の上に建てられた存在だ、という視点はいつも忘れずに持っているべきだろう。ヨーロッパの城の食堂に備わっている銀食器は、その殆どすべてが中米の銀山を我が物にして、そこから銀というものが姿を消した結果の姿である。銀本位制度がかつてヨーロッパに存在した歴史はみなさんご存じだろうが、これなどは他人の財産で自分の懐を温めているかのようなものである。そして、そのような行為をヨーロッパ人たちは羞じることがない。勿論現代においてはアメリカ政府もその中に確実に入るだろう。

文化や文明とは、その根っこを探れば、多くの民族の血にまみれた歴史の上に成り立っているものである。決してきれいごとでは済まされない存在である。その視点は決して忘れないでおこうではないか! ましてや、犬肉料理の是非を、動物愛護団体などがとやかく言うべき筋合いのものではないのである。自分たちの姿を真摯に反省すれば、矛盾が見えないはずがないではないか。肉汁を口から垂らしながら、他国の食文化にいちゃもんをつける、その神経を何とかしろ、と声を大にして言いたい。今日の観想である。

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長野安晃