○種田山頭火の孤独のスタイル
種田山頭火という俳人を知らない人は殆どいないだろう。不思議なことに、忘れた頃に、山頭火のブームに火がつく。人間とはまことに勝手気儘なものだ、と思う。拝金主義に興じている最中に、拝金主義とは最も縁遠い俳人の存在を想い起こす。勝手気儘というよりは、人間には生活感覚の中に埋もれた平衡感覚らしきものが眠っているのだろう、と思う。
ご存じのように、山頭火は、家庭生活を捨て、日常性に関わる全ての附属物を身から力業で剥がすようにして、出奔した。たった一人きりの、何の見返りも期待しない己れの生に対する挑戦だった、と感じる。山頭火の創作した俳句の数は膨大だが、その一つ一つの作品は全てが俳句という形式を意図的に壊している。壊れの過程の創作である。壊れの中から、創造的なるものが屹立として姿をあらわにしてくれるのか? という疑問に対しては、躊躇なくイエスと僕には言える。山頭火は凡庸な人間になど絶対に真似の出来ない孤独の淵へわが身を惜しみなく晒す。生と死の境で、彼は自分の紡ぎだす言葉を書きとめる。山の中を駆けめぐる。食料の当てもなくただ駆けめぐる。どこで野垂れ死んでもおかしくはないのに、山頭火は作品を生み出すために自然の只中に身を浸す。そこから生の真実が生まれ出て来ないはずがないではないか。
人は、種田山頭火という俳人を破滅型の人間と称する。少しの嫉妬心を感じながら。現実には絶対に踏み込めない人生に対する抗い難い郷愁の念を感じてしまう。だからこそ、言葉に敏感な人の多くは、自分の日常性を大切に守りながらも、疑似的な「破滅」を山頭火の俳句によって間接的に体験する。僕は、このような人々を軽蔑などしないし、むしろ大いに認める。心の底に山頭火と同じ種の破滅への志向を内包しているという点において、極めてまともだ、と思うからである。
山頭火という男は、その人生における潔さとは裏腹に、形容しがたいほどの無様な生きかたをしている。日常性を捨て切るという潔さと、無様に生きるという、ある意味、相反する行為を事もなげにやってしまう。禅僧になろうとして修行しながら、絶対に続くことがない。何度も脱走している。山頭火の紡ぎだす言葉の価値を識る、片田舎の資産家に寄生しながらも、何度も色街に出かけては、色欲に溺れ、酒に溺れ、何日も泊まりつづける。当然使った大枚の金の請求は世話になっている金持ちのところにまわる。いたたまれず、その家の主に、頭を床に擦りつけて、自分がなんという馬鹿な人間であるか、を心の底から陳謝し、その家を後にする。山頭火の猛省にウソはないが、彼の猛省は何度も繰り返される。それが山頭火という個性である、と言えば言えなくもない。絶望の中における自己否定感の中でさえ、山頭火は、その絶望と自己否定すら、芸術の素材にしてしまう。このエネルギーはどこから出てくるのか? と疑問に思ったこともあったが、種田山頭火が、俳句を生と引き換えるようにして、現世的なあらゆる価値意識を捨て去り、それでも現世的な欲動の炎(ほむら)に身を焦がして憚らないところにこそ、山頭火の尽きることのない創作欲が湧き出て来る源泉だった、とも言えるのではなかろうか?
NHKという存在を本田勝一と同じ意味で、僕は認めないが、中には優れたプロデューサーや脚本家がいるのだろう。晩年のフランキー堺の演じる山頭火は、たぶん山頭火その人以上に山頭火という存在を演じきっていた、と思う。あの作品はぜひとも再放送すべきである。僕にはあたりまえのことだが、山頭火のごとき天才性もなければ、世界から完全に身を剥がした上での孤独の中で、何かを創り出すなどという勇気など持ち合わせてはいない。正直に告白しておく。あくまで凡庸な自分に時に喝を入れてくれる、言葉の芸術家、失敗の多かったが故に、生を必要以上に漂白しなかった、あくまで生き生きとした、生々しいまでの言葉の躍動を、思い出したように素直に鑑賞しようではないか。その度ごとに新たなことが裡に芽生えるはずだから。今日の観想である。
○推薦図書「種田山頭火の死生-ほろほろほろびゆく」 渡辺利夫著。文春新書。なぜ彼の句が現代人の心を揺さぶるのか。何が彼をして泥酔と流転に追いたてたのか。漂泊の俳人の生涯と苦悩を描く異色の山頭火像です。読みごたえのある書です。ぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
種田山頭火という俳人を知らない人は殆どいないだろう。不思議なことに、忘れた頃に、山頭火のブームに火がつく。人間とはまことに勝手気儘なものだ、と思う。拝金主義に興じている最中に、拝金主義とは最も縁遠い俳人の存在を想い起こす。勝手気儘というよりは、人間には生活感覚の中に埋もれた平衡感覚らしきものが眠っているのだろう、と思う。
ご存じのように、山頭火は、家庭生活を捨て、日常性に関わる全ての附属物を身から力業で剥がすようにして、出奔した。たった一人きりの、何の見返りも期待しない己れの生に対する挑戦だった、と感じる。山頭火の創作した俳句の数は膨大だが、その一つ一つの作品は全てが俳句という形式を意図的に壊している。壊れの過程の創作である。壊れの中から、創造的なるものが屹立として姿をあらわにしてくれるのか? という疑問に対しては、躊躇なくイエスと僕には言える。山頭火は凡庸な人間になど絶対に真似の出来ない孤独の淵へわが身を惜しみなく晒す。生と死の境で、彼は自分の紡ぎだす言葉を書きとめる。山の中を駆けめぐる。食料の当てもなくただ駆けめぐる。どこで野垂れ死んでもおかしくはないのに、山頭火は作品を生み出すために自然の只中に身を浸す。そこから生の真実が生まれ出て来ないはずがないではないか。
人は、種田山頭火という俳人を破滅型の人間と称する。少しの嫉妬心を感じながら。現実には絶対に踏み込めない人生に対する抗い難い郷愁の念を感じてしまう。だからこそ、言葉に敏感な人の多くは、自分の日常性を大切に守りながらも、疑似的な「破滅」を山頭火の俳句によって間接的に体験する。僕は、このような人々を軽蔑などしないし、むしろ大いに認める。心の底に山頭火と同じ種の破滅への志向を内包しているという点において、極めてまともだ、と思うからである。
山頭火という男は、その人生における潔さとは裏腹に、形容しがたいほどの無様な生きかたをしている。日常性を捨て切るという潔さと、無様に生きるという、ある意味、相反する行為を事もなげにやってしまう。禅僧になろうとして修行しながら、絶対に続くことがない。何度も脱走している。山頭火の紡ぎだす言葉の価値を識る、片田舎の資産家に寄生しながらも、何度も色街に出かけては、色欲に溺れ、酒に溺れ、何日も泊まりつづける。当然使った大枚の金の請求は世話になっている金持ちのところにまわる。いたたまれず、その家の主に、頭を床に擦りつけて、自分がなんという馬鹿な人間であるか、を心の底から陳謝し、その家を後にする。山頭火の猛省にウソはないが、彼の猛省は何度も繰り返される。それが山頭火という個性である、と言えば言えなくもない。絶望の中における自己否定感の中でさえ、山頭火は、その絶望と自己否定すら、芸術の素材にしてしまう。このエネルギーはどこから出てくるのか? と疑問に思ったこともあったが、種田山頭火が、俳句を生と引き換えるようにして、現世的なあらゆる価値意識を捨て去り、それでも現世的な欲動の炎(ほむら)に身を焦がして憚らないところにこそ、山頭火の尽きることのない創作欲が湧き出て来る源泉だった、とも言えるのではなかろうか?
NHKという存在を本田勝一と同じ意味で、僕は認めないが、中には優れたプロデューサーや脚本家がいるのだろう。晩年のフランキー堺の演じる山頭火は、たぶん山頭火その人以上に山頭火という存在を演じきっていた、と思う。あの作品はぜひとも再放送すべきである。僕にはあたりまえのことだが、山頭火のごとき天才性もなければ、世界から完全に身を剥がした上での孤独の中で、何かを創り出すなどという勇気など持ち合わせてはいない。正直に告白しておく。あくまで凡庸な自分に時に喝を入れてくれる、言葉の芸術家、失敗の多かったが故に、生を必要以上に漂白しなかった、あくまで生き生きとした、生々しいまでの言葉の躍動を、思い出したように素直に鑑賞しようではないか。その度ごとに新たなことが裡に芽生えるはずだから。今日の観想である。
○推薦図書「種田山頭火の死生-ほろほろほろびゆく」 渡辺利夫著。文春新書。なぜ彼の句が現代人の心を揺さぶるのか。何が彼をして泥酔と流転に追いたてたのか。漂泊の俳人の生涯と苦悩を描く異色の山頭火像です。読みごたえのある書です。ぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃