ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

ムンクの「叫び」の意味するもの

2008-05-22 17:32:57 | 観想
○ムンクの「叫び」の意味するもの

もうずっと昔のことになるが、そう、それはたぶん僕が大学生の頃だっただろうか? 京都の岡崎の美術館で、日本で開催されることの殆どなかった「ムンク展」の招待券を友人からもらって、あまり気が進まないままに、その展覧会に出向いたのではなかったか、と記憶する。その当時、さして絵画に興味があったとは思えないが、何故かしらムンクの「叫び」という、あの不可思議な絵画には惹かれて止まないところがあり、ノルウェーという馴染みのない国の、ムンクという、あの風変わりな感性の持主たる画家の本質を掴みとってやりたい、という衝動のような感覚を抱いたからだった、と思う。だからと言って、僕の、当時の極貧の学生生活にどのような変化が生み出され得るのか、というテーマを据えると、答は何らの関係性もない、と出た。正直に言えば、体のよい暇つぶしに過ぎなかったのかも知れない。金も食い物もなかったが、暇だけは有り余るほどにあった。食えなくなったら、働けばよい。大学の授業料を支払う期日まではまだ日があったから。そんな状況のもとに、僕は重い足どりで美術館の門をくぐったのだった。

ところが、ムンク展に足を踏み入れたその瞬間から、僕の目は殆ど点になった。周囲の景色がさっと姿を消し、僕はムンクという画家の、想像以上の多作に驚くばかりだったのである。絵画に関する視点はまるで素人そのものだったが、素人の僕にも、ムンクという画家の好んで選んだ素材が、殆ど人の病に関するものと、心の壊れに関するそれとの、見事なまでの徹底したコラボレーションであることだけは諒解できたのである。ムンクという画家が病んでいるのか、病んだ素材をムンクが好んでいるのかの区別はつかなかったが、彼の作品の主なテーマは、ひと言でいうと「正常」という虚像に対する反措定としての、「くずれ」の提出であった。間違っているのかも知れないが、当時の僕の観想はこのようなものであった、と思う。

話を単純化するために、ムンクの代表作品とされる「叫び」について語ろう、と思う。一見して、表現の隅々に至るまで、逸脱という言葉がぴたりと当てはまる存在として、僕の裡に飛び込んできたのである。第一印象からすぐに僕の脳髄を支配したことは、この作家は人間存在に共通する苦悩というものを、人類という存在のもつ苦悩の存在へと昇華せしめた普遍性を持っているなあ、という、ごく素朴な感嘆の念だった。だから「叫び」は人類の象徴的な不幸の表出として代表される作品になり得ているのではないか、と、たぶん僕の当時の浅薄な思想性においては、ここまでの気づきにしか到達し得なかった、と感じる。

しかし、長い年月を経て、画集を眺めるにつけ、若い頃の自分のムンク解釈は根底的に間違っていたような気がする。いまにして思う。ムンクはあの「叫び」に代表される作品群の中で、歪んだ顔、歪んだ口もと、歪んだ体躯、歪んだ背景たちを使って、人という存在の心の歪みそのものの原質的な要素を素朴に、あるがままに描いたのではなかったか? と。人間存在の歪みとは、その本質に人の「哀しみ」の表出が隠されている。ムンクは、その過剰なまでの作品群を駆使して、人の「哀しみ」の象徴的なかたちを描き切ったのではなかろうか? といまの僕には思われて仕方がない。あくまで素人解釈である、まるで的を外しているのかも知れないが、現在のムンク理解の方がしっくりと僕の胸に落ちるのは何故だろうか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃