○人生の憂愁について考える
人は、どのような個性の持主であれ、その個性に従って、各々の生に対する憂愁という観念を抱いているものである。そんなことは考えてもみたことがない、などと言う人がいるとすれば、その人は、自分の生とまともに向き合った経験がないだけのことで、いずれは、どこかの年齢で、その年齢なりの憂愁に行き当たる。
僕がこの憂愁という概念に最初に触れ、実感したのは、ボードレールの「パリの憂愁(憂鬱と訳されているものもある)」という、とても美しく、かつ概念的な詩集を手にしたときからはじまる。たぶん、かなり早熟な少年だった、と思う。高校1年生の頃、僕は、人生の憂愁とはいかなるものか? という深い疑問にとらわれていた、と記憶する。人生が明るい未来として開かれている、などという楽観主義者でもなかったが、かと言って、生を悲観して、自分の行動なりが限定されてしまう、ということもなかった、と思う。どちらかと言うと、僕は憂愁なる活動派だった。だからこそ、自分の生に対する抗いに、常に付きまとって離れなかった概念が、この憂愁というどちらかと言えば、下降していく精神の動きと伴にあまり矛盾なく、生きていたように思う。だが、本質は単純そのものであり、ボードレールの詩集をフランス語で朗読したい、という思いだけで、僕は英語などあり触れた言語は放置したままに、フランス語ネイティブに毎週2回学ぶために、神戸の下町に住んでいた僕などには、無関係に存在する芦屋という高級住宅地にある語学学校へ通ったのである。その当時はまだ、親から金をせしめていた頃なので、彼らには予備校に行く、ということにしておいた。当時の僕には、日本の大学になどまるで興味がなかった。フランス語を学びつつ、自分は何の根拠もなく、バカロレア(フランスの大学入学資格試験)に向けて準備さえしていたのである。フランスでバカロレアに通れば、フランス国内の国立大学にはどこにでも入学許可が下りる制度になっていたので、まずはソルボンヌ大学だろう、と密やかに画策していたのである。ただ、それは楽しいばかりの想念ではなく、本当に僕みたいな金と縁のない人間がフランスへ渡れて、勉強についていけるのか? という憂鬱な気分と同居していたような心の躍動ではあった。
そのうちに日本はえらいことになった。僕は安保闘争に足を踏み入れ、異なるセクト間との抗争に備えるために、そして、職業的暴力集団としての機動隊に立ち向かうために、極端に言えば人殺しの訓練に邁進していたのである。一方で他者を完膚なきまでに叩きのめす訓練をしながら、またその一方で、せっせと芦屋というブルジョアたちの大邸宅の隙間にひっそりと佇んでいる語学学校へと通い続けてはいたのである。いまにして思えば、おもしろい矛盾だと感じる。何故僕が行けもしないフランス行きにこだわったのか言えば、それはたぶん極左暴力集団という学生運動に何の展望も抱けず、やはり自分が本当にこだわっているのはボードレールであり、それと関連するフランス文学の世界に言い知れぬ興味を抱いていたからである。極左暴力集団という名の破壊的・破滅的世界に沈潜するにしたがって、僕はその暗闇の中から、頭上に光を見出すようにフランス語やフランス文学に耽溺していったのだろう、と思う。もうこの頃はすでに、萩原朔太郎の詠んだ「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりに遠し」という心境だった。僕の裡にはドス黒い狂気さえ芽生えてもいたからである。僕にとってのあの頃の憂愁の定義とは、取りかえしのつかなさ、引き返しのつかなさ、と言って差し支えないであろう。これは正直に言うとかなり厳しい精神状態であった、と思う。
さて、いま、僕は人生の最晩年を迎えようとしている。いま感じる憂愁とは、自分の生における欠落感である。やり残したことが多すぎる。その多さに目眩すら覚える。極端に言えば、殆ど手つかずのままなのである。高校を卒業した当初、どうせ野垂れ死ぬ覚悟を決めていたのだから、僕はパリに飛び出しておくべきだった、と思う。シャルル・ド・ゴール空港が出来たのは、1974年のことだったと記憶するから、僕が降りたっていたはずの空港は、オルリー空港だったはずなのである。しかし、僕が行き着いた果てはフランスなどではなく、しょぼい、東京の秋葉原という電気街に過ぎなかった。僕の憂愁の消しがたい種は、このあたりに根ざしているような気がしてならない。もう取り返しがつかぬ。またその一方で、何らかの形で、取り戻してみせる、というかたい覚悟も共存している。僕の裡なる憂愁とは、かなり能天気なそれらしい。
○推薦図書「セイジ」 辻内智貴著。筑摩書房刊。いま、僕の裡で支配的な観想は、本文に書いた憂愁とは別に、大切な人が苦しんでいるときに、自分に何ができるのだろう、という深い洞察です。思えば、好き勝手な生きかたしかして来なかったのです。いまの自分の生をまだ可能性のあるもの、と捉えていられるうちに、憂愁な中においても、他者を視野に入れなければ、と思います。お薦めの書です。ぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人は、どのような個性の持主であれ、その個性に従って、各々の生に対する憂愁という観念を抱いているものである。そんなことは考えてもみたことがない、などと言う人がいるとすれば、その人は、自分の生とまともに向き合った経験がないだけのことで、いずれは、どこかの年齢で、その年齢なりの憂愁に行き当たる。
僕がこの憂愁という概念に最初に触れ、実感したのは、ボードレールの「パリの憂愁(憂鬱と訳されているものもある)」という、とても美しく、かつ概念的な詩集を手にしたときからはじまる。たぶん、かなり早熟な少年だった、と思う。高校1年生の頃、僕は、人生の憂愁とはいかなるものか? という深い疑問にとらわれていた、と記憶する。人生が明るい未来として開かれている、などという楽観主義者でもなかったが、かと言って、生を悲観して、自分の行動なりが限定されてしまう、ということもなかった、と思う。どちらかと言うと、僕は憂愁なる活動派だった。だからこそ、自分の生に対する抗いに、常に付きまとって離れなかった概念が、この憂愁というどちらかと言えば、下降していく精神の動きと伴にあまり矛盾なく、生きていたように思う。だが、本質は単純そのものであり、ボードレールの詩集をフランス語で朗読したい、という思いだけで、僕は英語などあり触れた言語は放置したままに、フランス語ネイティブに毎週2回学ぶために、神戸の下町に住んでいた僕などには、無関係に存在する芦屋という高級住宅地にある語学学校へ通ったのである。その当時はまだ、親から金をせしめていた頃なので、彼らには予備校に行く、ということにしておいた。当時の僕には、日本の大学になどまるで興味がなかった。フランス語を学びつつ、自分は何の根拠もなく、バカロレア(フランスの大学入学資格試験)に向けて準備さえしていたのである。フランスでバカロレアに通れば、フランス国内の国立大学にはどこにでも入学許可が下りる制度になっていたので、まずはソルボンヌ大学だろう、と密やかに画策していたのである。ただ、それは楽しいばかりの想念ではなく、本当に僕みたいな金と縁のない人間がフランスへ渡れて、勉強についていけるのか? という憂鬱な気分と同居していたような心の躍動ではあった。
そのうちに日本はえらいことになった。僕は安保闘争に足を踏み入れ、異なるセクト間との抗争に備えるために、そして、職業的暴力集団としての機動隊に立ち向かうために、極端に言えば人殺しの訓練に邁進していたのである。一方で他者を完膚なきまでに叩きのめす訓練をしながら、またその一方で、せっせと芦屋というブルジョアたちの大邸宅の隙間にひっそりと佇んでいる語学学校へと通い続けてはいたのである。いまにして思えば、おもしろい矛盾だと感じる。何故僕が行けもしないフランス行きにこだわったのか言えば、それはたぶん極左暴力集団という学生運動に何の展望も抱けず、やはり自分が本当にこだわっているのはボードレールであり、それと関連するフランス文学の世界に言い知れぬ興味を抱いていたからである。極左暴力集団という名の破壊的・破滅的世界に沈潜するにしたがって、僕はその暗闇の中から、頭上に光を見出すようにフランス語やフランス文学に耽溺していったのだろう、と思う。もうこの頃はすでに、萩原朔太郎の詠んだ「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりに遠し」という心境だった。僕の裡にはドス黒い狂気さえ芽生えてもいたからである。僕にとってのあの頃の憂愁の定義とは、取りかえしのつかなさ、引き返しのつかなさ、と言って差し支えないであろう。これは正直に言うとかなり厳しい精神状態であった、と思う。
さて、いま、僕は人生の最晩年を迎えようとしている。いま感じる憂愁とは、自分の生における欠落感である。やり残したことが多すぎる。その多さに目眩すら覚える。極端に言えば、殆ど手つかずのままなのである。高校を卒業した当初、どうせ野垂れ死ぬ覚悟を決めていたのだから、僕はパリに飛び出しておくべきだった、と思う。シャルル・ド・ゴール空港が出来たのは、1974年のことだったと記憶するから、僕が降りたっていたはずの空港は、オルリー空港だったはずなのである。しかし、僕が行き着いた果てはフランスなどではなく、しょぼい、東京の秋葉原という電気街に過ぎなかった。僕の憂愁の消しがたい種は、このあたりに根ざしているような気がしてならない。もう取り返しがつかぬ。またその一方で、何らかの形で、取り戻してみせる、というかたい覚悟も共存している。僕の裡なる憂愁とは、かなり能天気なそれらしい。
○推薦図書「セイジ」 辻内智貴著。筑摩書房刊。いま、僕の裡で支配的な観想は、本文に書いた憂愁とは別に、大切な人が苦しんでいるときに、自分に何ができるのだろう、という深い洞察です。思えば、好き勝手な生きかたしかして来なかったのです。いまの自分の生をまだ可能性のあるもの、と捉えていられるうちに、憂愁な中においても、他者を視野に入れなければ、と思います。お薦めの書です。ぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃