ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

性の目覚めと世界への対峙

2008-05-31 00:48:58 | 観想
○性の目覚めと世界への対峙

女性のことは知らない。なので、僕は男の子の性の目覚めについて語る。なぜいまさらなのか? というと、還暦を過ぎてなおさら感じるのは、僕の場合は10代の頃の、あの性に対する神秘的な覚醒の経験は、たぶん初めて自分と世界というものとの存在を意識した最初の体験だったのではないか、と思われるからである。

僕の性に対する素朴な錯誤、それは男女から子どもがどのようにして生まれるのか? という難問だったが、ごく普通に結婚し、男女が同じ屋根の下で生活を伴にすれば、ある日、女性のお腹がパカリと開いて、子どもをこの世に送り出すものだ、と、何と中学1年生の秋頃まで信じて疑わなかったのである。よくしたもので、そんな僕にも情報源はしっかりとあった。チビッ子で頭でっかちで、詰め襟の学生服が身に合わず、ガバガバな男がいたが、その外見からは想像だに出来ないすばらしい頭脳の持主が、ある日の昼休みに、奴の手書きの、かなりリアリスティックな肉厚の手の平の中に包まれるようにして、成人の男の逸物が血管の浮き出た細部にまでに及ぶ生々しい、マスターベーションを想起させる一枚の絵を教室の隅で披露したのであった。僕の頭の中で、マスターベーションと男女の性愛との関係が、その瞬時に繋がったのか? というとそうではなかった。

僕の裡では、男女の性愛はまだベールを被ったままに在った、と思う。しかし、その日の衝撃的な夕暮れ時に、僕は一人で、なんということもない、アメリカの家庭ドラマを観ていたのである。しかし、あの強烈な一枚の絵を見た瞬間から、ドラマの中の女性の、胸や腰つきやふくら脛や、ともあれ、女性の動きそのものがいかにも刺激的なものに思えるのであった。昨日まで同じ番組を観ていたのに、それは昨日までとはまるで違ったものに観えた。アメリカ人女優の豊かな肢体が画面の中で揺れる度、僕の、これまで意識もしなかった男性自身が屹立しているのに気がついた。思わず僕は、あの絵のように自分の逸物を握り締めて、前後に動かしていたように記憶する。するとどうだ。僕の中にある感情の高まりが最高点に達し、ペニスの先からかなり淡白な、白とも、透明ともいえる液体が飛沫したのであった。その刹那、僕はしばらく体を動かすことが出来なかった。これまで体験し得なかった、異種の快感、あるいは虚脱感を抱いたままに、自分が吐き出した白き液状のものを、エイリアンのごとく眺めていた、と思う。大いなる気づきであった。決してうれしくはなかったが、未知のものを体感した後のすがすがしさのような感覚はいまでも鮮明に僕の頭の中には在る。何十年も前の、あの部屋の澱んだ空気と、夕暮れ時の薄暗くなりかけた部屋の、密度の濃い雰囲気と、自分が果てた後も、空々しく続いている同じドラマが、事の起こる前と同じように、延々と僕の裡では続いているのである。

自分の体の変化に気づいてからだ、僕の世界への歩みが始まったのは。すべてを知りたくなった。両親を説き伏せて、勉強に必要だ、という理由で、学研の10巻本の百科辞典を買った。僕の調べることは、男女の性について、それのみだった。妊娠という言葉そのものが僕を刺激した。そのページを捲ると、妊婦の月ごとのお腹の張り具合が図示されているではないか。さらに、その説明文は僕のこれまでの世界を根底から覆した。女性器と男性器との図解があり、何をどうすれば、妊娠に至るのかも詳細に書かれていた。百科事典なのだからあたりまえの話だが、もうその説明文そのものが、僕の脳髄を刺激し、百科事典を読みながら、マスターベーションの虜と成り果てた。いまの自分からすれば、よくもまあ、あれだけの性に対する興味が湧いたものだ、という慨嘆に近い感覚が在る。スタミナも途切れることがなかった。その百科事典には、マスターベーションを覚えた猿が、命果てるまでその行為をなし続けたということが書かれてあって、ああ、自分もこの猿のように死んでしまうのかも知れん、と覚悟をしたような記憶も確かに在る。

そのとき以来、僕には男性の存在理由、女性の存在理由が胸に落ちた。決して悪い印象ではなかった。場合によっては、何らかの事情で子どもを授からない男女もいることも知った。そうなのか、僕自身が、こういう行為の果てにこの世に生を受けたのか、という、妙に納得できる事実だった。だから、僕にとっての百科辞典は、結構正しく、人間の生命感について悟らせてくれた大切な道具だった、と思う。つまらないエロ雑誌で、妄想を逞しくしているよりはいくらよかったかも知れない。そうは言っても、僕にマスターベーションの基礎を手書きの紙に図示してくれた男は、自分の家が古本屋ということもあり、僕も含めてクラスの男子生徒は、エロ雑誌としてもかなりなレア物まで見ることが出来た。いろんな意味で人間の存在のおもしろさについて心弾んだ。妊娠して少しお腹が目立つ体育の女の先生の保健体育の授業を、仲間のようにはやし立てたりする気にはなれなかった。この人は真面目に生きているではないか、と妙に納得する自分がいた。勿論自己正当化するつもりはない。その一方で、その女教諭がどんなセックスをするのかを想像したのも否定はしない。なんであれ、人とはおもしろい存在である、という認識はこの頃、僕の中に芽生えたもの、と思われる。今日の観想である。

○推薦図書「かっぽん屋」 重松 清著。角川文庫。性に対する憧れと妄想に身を持て余す思春期の少年たちの、もどかしいほどの青春の痛みと爽やかさを描いた名著だ、と思います。ぜひ、どうぞ。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃